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直観と反省と自覚 [2009年11月23日(Mon)]

直観と反省と自覚

=マインドフルネス心理療法と西田哲学

 マインドフルネス心理療法の救われる構造を西田幾多郎の言葉で簡単に見ている。 西田幾多郎は<自己>を哲学的に記述した。哲学は心理療 法ではないが、マインドフルネス心理療法と似たように、自己や精神活動について記 述している。 マインドフルネス心理療法に応用できるようなところをみている。

直観と反省と自覚

 直接経験(直観)に始まった西田の哲学は深められて、後期の場所、絶対矛盾的自己同一になる 。初期の直観や自覚にも後期の萌芽がある。
 我々の精神作用は、直観と反省によって進行する。直観においては、主観と客観が未だ分かれて いない。目を何かに向けた瞬間、「もの」だけである。私がものを見ているという意識はない。そ の後に、反省が起きる。「ものがある」(対象)とか「物を見た」(作用)という意識が起きる。
 反省は、直観にとって外的、対立的な意識であるとされている。そして、この対立的な2つを内 面的に結合するのが自覚であるとされている。自覚は直観と反省との共通の基礎ないし根源である 。そこにおいて直観が反省を生み、その反省が直観と結合するような働きが自覚である。
 「自己が自己の作用を対象として、これを反省する」のを「自覚」という。対象の反省ではなくて、作用の反省である。
     「直観というのは、主客の未だ分かれない、知るものと知られるものと一つである、現実 そのままな、不断進行の意識である。反省というのは、この進行の外に立って、翻ってこれ を見た意識である。・・・ 余は我々にこの二つのものの内面的関係を明らかにするものは我々の自覚であると思う。 自覚においては、自己が自己の作用を対象として、これを反省すると共に、かく反省するというこ とが直に自己発展の作用である。かくして無限に進むのである。反省ということは、自覚の意識に 於いては、外より加えられた偶然の出来事ではなく、実に意識そのものの必然的性質であるのであ る。」 (1)
 「主客の未だ分かれない」という。普通は主観と客観は対立するものだが、未分、一つとい う。絶対に矛盾するものが自己において同一であるということがここにも言われている。後に考察 する。
 自覚は、「自己が自己をうつすこと」である。うつすというのは、自己の外にうつすのでは なく、自己の中に自己をうつすのである。鏡は「物」をうつすが、物と鏡と鏡の中のうつされたものの 3者(後の2つは実質、鏡のみ)があると考えられるが、自覚においては、物自体はなく、鏡とう つされるものがあり、しかも鏡が自己であり、うつされた対象は自己の内である。主観と客観が自 己において一つである。後期に「場所」と言われる。
    「自己が自己を反省する即ちこれを写すというのは、いわゆる経験を概念の形において写すという 様に、自己を離れて自己を写すのではない、自己の中に自己を写すのである。反省は自己の中の事 実である、自己はこれによって自己に或る物を加えるのである、自己の知識であると共に自己発展 の作用である。真の自己同一は静的同一ではなく、動的発展である、我々の動かすべからざる個人 的歴史の考えはこれに基くと思う。
     自己が自己を反省するということを心理学的に考えれば、第一の自己とこれを反省する第二の自 己とは、時間上異なった二つの精神作用であって、両者の間に類似を認めることはできるであろう が、同一ということはできぬともいい得るであろう。」 (2)
 見る時は、事実そのものがある、直接経験の事実、直覚的経験の事実がある。 我々がチューリップのような「花」を見る時、通常の経験においては、「花がある」「私は花を見 ている」のであり、これが経験の最も基本的な事態だと思っている。だが厳密にいうとそうではな いという。
 思考などを破って、突然「はな」が現われる。ただ「はな」がある、直覚的経験の事実として「 はな」がある、まだ「花」という意識も言葉もない、美しいという評価も判断もない。「私」が「 花」を見るという「私(自己)」もない。直接経験の時、自分はない。見られたものが実在と言っ てよい。 その後、「花だ」「花がある」と認識して、「花を見た」という反省が起きる。この時に、「自己」がある と二元的な見方で、物と見る我とを対立的に見る(普通の場合そういうふうに経験をみている=花 が自己に於いてではない、自己の場所でない)のは自覚ではない。自己なくして「自己に於いて」、自己の作用を見るのが自覚である。

マインドフルネス心理療法へ

 心理療法においては、人生上の苦悩やうつ病、不安障害などの苦痛について見ているのであるが 、この直観、反省、自覚で考察してみよう。
 反省は、直観を反省によって自己の作用を知るのである。これも実は、直観したものを自己の内 に写して、見たと反省するのである。職場の状況、電車、対人問題、何かの不安など(通常、客観 とされるもの)の見る、感じるなどを通常は反省せずに、不満、嫌悪の思考、判断を持続させ、さ らに苦痛を感じる。判断の一つに自己を概念的に評価することがある。うつ病には自己否定感、自 己無価値感が伴う。自己の中に自己(通常、主観とされるもの)とはこういうものであるという概 念を浮かべて(うつして)不充分なるものという判断をすれば自己不全の苦痛を感じるものである 。自己について概念を思いうかべて(うつして)、不全なるものという判断をするところに苦悩が 起きる。見る、聞く、思考、判断などの作用や功罪について知らない。すなわち、自己の作用を反 省して、自己を知るということをしていない。
 「自己が自己の作用を対象として、これを反省する」のを「自覚」というのであるから、自覚は 「自己についての知識」となる。心の病気になると、自己を知らない、種々の自己の作用を知らな いということが起こっている。それゆえに、心の病気を治すには、自己の種々の精神作用を知るこ とが重要である。すなわち、自己の精神作用にどういうものがあるか、反省、自覚のトレーニング によって、 自己の精神作用のすべてを知るというトレーニングを行う。最も基礎となるトレーニングである。 直観、反省、自覚が関連するトレーニングとして、 ただ見る訓練、観察する自己、本音の気づきと停止(反省、評価的思考の停止)、自己洞察を入れ る(反省)、鏡の瞑想法=われなくして映すもの、機能分析法などに応用される。
 自己、自己の作用を反省、自覚する仕方に大きく言えば、2種ある。一つは、普通の人であるが、 「私」(主観)ありと暗黙の前提のままに、対象(客観)を感覚、思考、感情などを正確に判断す る仕方である。これは、主観客観の 対立をそのままにして、反省している仕方である。この方式は、絶対矛盾的自己同一的な自己の真 相(私、主観がない)を自覚することからは、不徹底な反省であるが、心の病気の治療、予防には 貢献する。心の病気になると、感覚、思考、感情などの違いさえもわからない状況になっており、 自己自身の活動を対象的に正確に知ることさえもわからない状態であるからやむをえない。精神活 動の要素を対象的に観察して、各要素を知るというステップを踏む。
 次に、もう一つ、これが真の自覚であるが、最初から「自分なし」「われなし」の立場から、直 観を振り返って反省する。主観、客観の対立があると見ずに(a)「われなくして」(自己の脱落)物 が現前していると自覚する。そして、(b)物の現前が自己の外ではなくて「ここ(自己)に於いて生 じている」と、さらに反省し、さらに(c)物すべてが自己であると知る、すべてが場所に映るものと いう自覚になる。自己なく物のみであり、それが自己であると自覚する。 当初は、一定の期間、(a)(b)(c)のトレーニングをするが、「われなし」「自己なし」、自己なくし てものが自己であるという自覚が不動になった場合には、直観された現在の事態を直ちに反省して 、適切な意志決定、行動をしていく。直観や反省的思考から遠く離れた無用の思考に移らないので ある。直観、反省(我の反省ではなく場所的反省で自己を知る)、行為、そして行為が直観である無 限の活動が展開する。
 心理療法は哲学(説明)ではないので、自己なしということの概念的理解だけでは実際に実践さ れず、苦悩は解決しない。実行されなければならない、行が必要である、課題の実行によって、実 際に体得される必要がある。
 自覚は意志であるという。意志を起して自己の直観作用を反省して自己を自覚することが心の病 気の治癒への第一歩となる。意志は思惟、意識では把握できない。だから、理屈を理解する思惟か らは自覚は実行されない。自覚は意識より深いところから起きる。時々刻々に強い意志を起して反 省、自覚しなければならない。自覚も直観である。
 すべて、自己を離れているのではなく、自己のうちである。自覚は自己のうちに自己を映すので ある。二元 観ではなく、見られる直観と見る自覚が同一(自己において)ということが実現している。
 西田は初期の論文では、自覚は直観と反省を結合する作用や働きとみているが、さらに思索をか さねて、直観や反省や自覚 の働きが(そこに於いて)生じる「場所」にたどりつく。 このような映す場所が自己の根底(真の自己)であるかもしれないということになれば、自己不全 感が一変するだろう。
    (注)
  • (1) 「自覚に於ける直観と反省」昭和40年、全集、2巻15頁。
  • (2)「自覚に於ける直観と反省」同、2巻16頁。


(続)
Posted by MF総研/大田 at 20:09 | 私たちの心理療法 | この記事のURL