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西田哲学の「無限の現在から現在へ」=マインドフルネス心理療法の文脈 [2009年11月09日(Mon)]

西田哲学の「無限の現在から現在へ」=マインドフルネス心理療法の文脈

=マインドフルネス心理療法と西田哲学

 マインドフルネス心理療法の救われる構造を西田幾多郎の言葉で簡単に見ている。

我々に迫る絶対現在、それに我々が動かされる

 西田の論文「絶対矛盾的自己同一」に「無限なる歴史的過去が絶対現在にお いて無 限に我々に迫りおるのである」という言葉があった。 ( 前の記事
     「直観と行為とは何処までも対立するものでなければならない。その間には単に主 体的立場から考えられる相互否定的対立以上のものがなければならない。そこには絶 対の過去と未来との対立がなければならない。無限なる歴史的過去が絶対現在にお い て無限に我々に迫りおるのである。無限の過去が現在において我々に対すると いうこ とは表現的ということであり、それは単に了解の対象と考えられるが、何処ま でも我 々に対するものが我々に迫るということ、即ち表現作用的に我々を動かすとい うこと が、物が直観的に我々に現われることである。我々の自己の存在そのものを動 かすも のが、直観的に見られるものである。」(1)
 与えられるものの直観と自己の当為が連続していく。現在から現在へ、無限に続く 。こうした絶対現在の瞬間から絶対現在へとの無限の流れ、直観と当為を重視するこ とは、 マインドフルネス心理療法の一つ、ACT(アクセプタンス・コミットメント・セラ ピー)の次の言葉とほぼ同じ精神であることを知る。ACTは、哲学的には、機能的 文脈主義に属するという。時空間的に連続している事象の流れ(「文脈」という)を 世界観の中軸に据えた認識論的な立場である。(ただし、西田哲学では、絶対現在の時、自己自身が完全に否定されているという。ACTがそこまで、自己存在まで問題のしてるのかどうか 知らない。)
     「文脈主義は、その名の通り、時空間的に連続している事象の流れ、つまり文脈を 、その世界観の中軸に据えた認識論的な立場である。そのため、認識論的にリアルな ものは「部分」ではなく「全体」である。しかし、リアルでありながら全体を 「全体」として記述することはできない。それ故に、何かを認識するためには 、ある恣意的なゴールを選択する必要がある。さらに、そのゴール達成 の是非によって初めて、その認識の是非が判定できるようになる。ただし、その ゴール選択には当事者の責任が伴うことはあれ、その選択の正当性を主張することは できない。つまり、このゴール選択とは当事者による価値の表明と同じなのである。 」(2)
 「文脈」とは、「時空間的に連続している 事象の流れ」である。「今、ここ」という空間的時間的文脈がリアルであるから それは全体である。感覚や思考、感情といえば部分のように見えるがその文脈が実在 (リアル)であるとすれば、生きている人間の全体のはずである。絶対現在しか実在 しなければ、その時の自己の作用が全体生命である。見る時、部分に思える見ること が全体である。絶対現在の自己において部分と全体が同一である。文脈の異なる一々 が全体である。

 さらに西田幾多郎がいう「我々の自己の存在そのものを動 かすものが、直観的に見 られるもので」そして我々は当為を返す。絶対と自己との相互作用が無限に続く。こ れは、ACTの次の説明に対応する。
     「機能的文脈主義は、その分析に対してより実践的で統合的な(integrated)ゴール を選択する (Hayes et al., 1999)。その統合的ゴールとは事象に対する「予測と影響 (influence)」のことである。ここでの「統合的」という意味は、「正確性と視野 を兼ね備え、かつ当該のゴールが持つあらゆる側面の達成を目指すということである 。つまり、機械主義と異なるのは、分析それ自体を目的としない、かつ全体のバラン スを欠いた特定的なゴール達成を目指さないという点である。そのような意味で、機 能文脈主義者は技術者(engineer)に例えられる。 その理由は、実践に必要な最小限の知識を持ってゴール達成を目指し、全体的な視点 から見てゴールが達成していれば、予測と結果との誤差が生じても、それを許容する からである。また、いわゆる心理的な事象も、有機体( a whole organism )が生起 させる連続的な行為と、歴史的(時間的)・状況的(空間的)に規定された文脈との 相互作用として捉える。つまり、行動分析学における三項随伴性(「弁別刺激」 ‥‥「反応」‥‥「強化」)という分析ユニットは、実験者・観察者が恣意的に設定 ・文節化するものであり、先験的に、かつ個別に、弁別刺激、反応、強化は存在する とは捉えないのである。そのように捉えれば、実験者・観察者も文脈や全体から引き 離されることはないのである。」(3)

     「機能的文脈主義は、予測と影響という統合的なゴールを選択する。そのようなゴ ールを選択をするという点で、記述的文脈主義とは異なる。また、心理学的な事象 を、有機体が生起させる連続的な行為と、歴史的・状況的に規定された文脈との相互 作用として捉える。さらに、分析行為が目的化したり、文脈とは切りはなされた 一方的で部分的な操作主義を採らないという点で機械主義とは異なるのである。もち ろん、以上のことは、機能的文脈主義者それ自体にも当てはまる。つまり、機能的 文脈主義の方が機械主義、記述的文脈主義より適切であるといった正当性を主張して いるのではない。ACTの研究者・実践者は機能的文脈主義という立場を選択していると いう表明に過ぎないのである。そして、その立場を選択するのは、現在の行動療法を より進展させるというゴールを選択し、達成しようとしているからなのである。さら に、マインドフルネス、アクセプタンス、クライエントーセラピストの関係性、価値 、スピリチュアリティ、「今、この瞬間」との接触、感情に対する深化などというト ピックを積極的に扱うのも、上述のゴールを達成するためなのである。」 (4)

 「心理学的な事象」は人の連続的な行為と、歴史的・状況的に規定された文脈と の相互作用であるととらえる。これが、西田の上記に文とほとんど同じである。
 私(自己)は自己の行為で今ここという瞬間の世界(文脈)に働きかける。その行為 の結果が歴史的世界となり自己に働きかける。相互作用である。機能的文脈主義では 「今、ここ」という具体的な文脈をはなれた操作は採らない。
 心理学的な事象には、感覚、思考、感情、行動などがある。 「心理学的な事象」は人の連続的な行為と、歴史的・状況的に規定された文脈との 相互作用であるととらえる。絶対現在において我々に現われて刺激となり、我々 は行動を起こす。
 私(自己)は自己の行為で今ここという瞬間の世界(文脈)に働きかける。その行為 の結果が自己に働きかける。相互作用である。
 感覚、思考、感情、行動という elements に分節して、刺激、反応、結果(強化 )という分析をするが、 elemnets は単独に存在するとはみておらず、ただ移り行く 泡のようなもので、治療上、有用であるので element に恣意的に設定して説明する が、単独で存在するものではない。 セラピストもクライエントも絶対現在の流れ(文脈や全体)から引き離されることは ない。
 分析行為も治療に有効な絶対現在における分析であり、絶対現在(文脈)とは切り はなされた手法は採らない。過去の生育環境がつらかったから、非機能的な思考行動をするというのは、絶対現在の流れの分析ではないから、そういう分析による治療はしない。 絶対現在のどのような刺激で、非機能的行動な思考、行動をするかを分析して、絶対現在の直観や行動を修正する手法をとる。過去の生育環境に限らず、どのような過去であろうとも、現在の、絶対現在の見方、考え方、行動のしかたを変える。考え方も含まれているので、認知療法と類似するかと思われるかもしれないが、認知療法の考え方は、絶対現在の考えの修正ではなく、絶対現在が終った後に反省して、考えを修正する手法である。 また、認知行動療法にも「思考停止法」もあるが、マインドフルネス心理療法でも「思考の抑制」をいうが、絶対現在の重視の哲学に基づくので、全体生命の活動としての直観にとどまることが「思考停止」なのであり、根底がかなり異なる。従来の認知行動療法でいう手法と類似の手法があっても、根底の哲学が違うので、手法(全体と手法が自己同一の手法)も違う。「思考停止」はうまくいかないという批判は、新しい心理療法においては、こうした背景の哲学まで理解した上でなされるのでないと誤解にすぎない。
 ACTは禅の哲学を利用したのではなくて行動分析を発展進化させた結果、この立場 が出てきたという。心理療法が千年(たとえば、鎌倉時代の道元)も前の禅の哲学に 類似してきたのは興味深いことである。

 ただし、西田哲学は、自己存在そのものの記述までしている。絶対現在は、時が消え、過去未来が同時存在であり、自分さえもが否定される。西田哲学は個人の意志をもっとも重視する。個人は意志で行動している。その個人、自己の見方に、意志的自己、叡智的自己、人格的自己があるという。 ACTがそこまで解明しているとは思えない。 ACTは、初期仏教のヴィパッサナー瞑想を参照しているようであるが、初期仏教は大乗仏教や日本仏教とは、哲学や目標が異なる。研究を深めていけばいくほど、大乗仏教や日本仏教、西田哲学との人間存在の見方が違うことに気づくだろう。自己とは何か、この自己が消える=死の問題はどうすればいいのか。
 同じくマインドフルネスといっても、技術は類似するが、人間というものの構造の哲学には重大な相違点も多いようである。
    (注)
  • (1)『絶対矛盾的自己同一』 西田幾多郎哲学論集3 岩波文庫、62頁
  • (2)「アクセプタンス&コミットメント・セラピーの文脈」武藤崇、ブレーン出版 、21頁。
  • (3)同上、20頁。
  • (4)同上、21頁。
Posted by MF総研/大田 at 18:55 | 私たちの心理療法 | この記事のURL