わが心深き底あり・別の自己の自覚 [2009年11月02日(Mon)]
わが心深き底あり・別の自己の自覚
=マインドフルネス心理療法と西田哲学
マインドフルネス心理療法の救われる構造を西田幾多郎の言葉で簡単に見ています
。西田幾多郎は<自己>を哲学的に記述しました。実践して自覚しないと働きださな
いですが、マインドフルネス心理療法と似たように、自己について記述しています。
心理療法でもなく宗教でもありません(哲学です)が、心理療法としてのマインドフ
ルネス心理療法を実行したり、指導したりしていく上で参考になります。
嫌悪すべき内容の自己とは異なる内容を盛る器としての自己
マインドフルネス心理療法には、従来の心理療法にはなかった救われる(心理的な
苦悩が軽くなりうつ病が治る)「装置」が数多く設置されているが、その一つが、も
う一つの自己の自覚である。通常、人が考えている自分(「概念としての自己」)と
は、別の自己(文脈としての自己)の自覚をうながす。
「視点としての自己(「文脈としての自己」とも呼ばれる)、あるいは「観察者と
しての自己」は、「思考や感情、記憶、身体感覚のような私的出来事が生じる文脈」
(Hayes, Strosahl, Bunting, et al., 2004, p.9 )として考えられている。視点とし
ての自己は、文脈であるため、この自己には内容がなく、言語内容と同じような「モ
ノ」の性質はない。このような超越的な性質があるために、視点としての自己の体験
について語ろうとすると、ことばのもつれの中で混乱することになる。そこで、セラ
ピストは、その代わりとして、エクササイズ、メタファー、マインドフルネス・エク
ササイズを通じて、「観察者としての自己」の体験を促進するのである。
この自己の体験は、不変なものであり、そこに境界線がない。それは、常にそこに存
在している自己の体験であり、思考や感情、身体感覚が、その思考や感情、身体感覚
を持っている「私」と分離される場所である
( Strosahl, Hayes, Wilson, & Gifford, 2004, pp.44-45 )。」
」(「ACTを実践する」星和書店、229頁)
こうした新しい自己の自覚は、ACT(アメリカのマインドフルネス心理療法の一つ)のセラピストがいうようにマインドフルネス心理療法者がはじめて自覚したも
のではなく、仏教は早くから探求していた。文脈としての自己は、さらに、それを意識する作用があるので、西田哲学でいう意志的自己または叡智的自己である。西田幾多郎の指摘する根底の自己とは違う。文脈としての自己では、死の問題は克服できないだろう。文脈としての自己、観察する自己が「死」によってなくなるという恐怖、不安。
「「視点としての自己」の感覚は、ACTに特有のものではない。他の伝統では、
それに対して別の名前がつけられている。それは多数の宗教伝統やスピリチャルな伝
統にとって、必須のものであり、特に仏教と結びついたものである。
ACTセラピストは、しばしば、この伝統に由来するメタファーやエクササイズを借
用することがある。」(「ACTを実践する」星和書店、229頁)
深く自己を探求する治療的メリット
別の自己の自覚ということからは、次のような治療効果がある。
「「視点としての自己」の体験は、しばしば、クライエントにとって強力なものと
なり、ウイリングネスとアクセプタンスにとっては恩恵となる。視点としての自己は
、人が、そこから内容や体験をありのままの姿で見ることのできる、安全な場所なの
である。この場所から見ると、内容は、それほど脅威を感じるものではない。とい
うのも、そこで、内容と「文脈としての自己」の違いを体験できるからである。思考
している者から思考を分離し、感情を感じている者から感情を分離できるようなとき
には、ネガティブに評価された経験は、それほど脅威的なものではなくなるのである
(Strosahl et al., 2004, p.44 )。思考と感情がこのような方法で捉えられるときに
、アクセプタンスはより生じやすくなる。というのも、ネガティブに評価された内容
が、自己の本質ではなく、ただの内容としてみなされるようなときには、人はそれを
回避したり、それと格闘したりするプレッシャーをそれほど感じなくてすむからであ
る。」(「ACTを実践する」星和書店、231頁)
器や鏡のメタファー(たとえ)や器の瞑想や鏡の瞑想の実践を通して、自己という
ものは、内容ではなく、器や鏡であるという自覚を持つようになる。内容は、感覚、
思考、感情、気分、身体反応、症状などである。思考のうちには、自己嫌悪、自殺念
慮もある。こういうものは、内容であり、自己自身ではない。器、鏡はつねにあって
、その機能は不変である。嫌悪的ではなく抹殺(自殺、自死)させるべきものではな
い。
うつ病者の大部分にみられる自己嫌悪、自殺念慮からの解放、非定型うつ病の人に
見られる拒絶過敏性の解消にもこれが効果がある。次の記事でもう少し述べよう。
(もちろん、他のうつ病、不安障害、アルコール依存症などの人にも自己評価の低さがあり、概念としての自己しか見えず、それを嫌悪するから、自己評価が低いのである(これも自己そのものではなく内容である)。不安障害などの治療にも根底の自己の自覚をはかり、全般的な不満不幸観の底あげのエクササイズを実行して、発作的に起きる不安症状に挑戦する勇気を持ち治癒に導く。治癒とは、必ずしもすべての症状が消失することではない。いくつかの症状や不安があっても、心理的苦悩が
小さくなったり、社会的な生活が障害されていない状態である。本人が価値実現についてある程度満足できる程度である。風邪でも何年に1回は起きる。パニック発作でも、年に数回起きても、予期不安、広場恐怖に連鎖しなくて、社会生活が障害されず、心理的な苦痛の思考も起こさなければ、<障害>に該当しない。)
自己の根底
それでは、ほんの少し、哲学者、西田幾多郎の言葉をみよう。よく知られた西田幾
多郎の歌もそうである。
わが心深き底あり喜も (よろこび)
憂の波もとどかじと思ふ (うれひ)
通常は、喜びや悲しみしか自覚されないが、その奥底に何かがあるというのである
。
そこは喜びや悲しみがまだきざさない生の自己活動の現場である。自分の知識による
評価以前の現在の場所(自己の根底)である。
<文脈としての自己>に似たような自己(*)について『場所的論理と宗教的世界
観』に、次の語がある。
「我々の自己の自覚の奥底には、どこまでも自己を越えたものがあるのである
。我々の自己が自覚的に深くなればなるほどしかいうことができる。内在即超越、超
越即内在的に、即ち矛盾的自己同一的に、我々の真の自己はそこから働くのである。
そこには、直観というものがなければならない。」(『場所的論理と宗教的世界観』
)
普通、人が「自分」と言っているものは、実体のない自我であって真の自己ではな
い。自己の奥底にふつう気がつかない自己がある。自己を超えた自己のハタラキがあ
る。それを自覚するのは直観である。他者によって思想的に作られたものを思索で理
解するのではない、単なる想像でも信じるのでもない。
根底に自己があり、そこから感覚や思考が生じる。この根底の自己が自覚された人
は、思考や症状などを軽くみて苦悩が小さくなる。自殺念慮があろうとも、それも思
考にすぎない。根底にはあらゆるものを生み出す自己がある。それは微動もゆるがず
働き続けている。自己(そこをACTは文脈としての自己という)はすばらしい存在
である。
ACTと同様に、自己洞察瞑想療法(SIMT)でも、感覚、思考などを無評価で観察す
るトレーニングを重ねて、観察する自己を自覚させる。そして、器の瞑想、鏡の瞑想
のトレーニングを繰り返して、表面にうつり消えゆく感覚、思考、症状があり、うつ
す鏡があるという実感をくり返し感じることで、苦痛の対象はかわりゆくもので、自
分は根底の鏡であり、苦痛ばかりに意識を奪われず、価値実現の行動をうつしていこ
うと決意するに至る。こうして、意識される脅威的に受け止めていた感覚、思考、症
状は相対的、変化しうるもの、価値実現を妨げるものではなく軽く受け流すことがで
きるものとなって、否定的思考が少なくなって、うつ病や不安障害が軽快する。
こうした根底の自己はこのような言葉による理解ではわからない。文脈になってい
ないからである。この説明のすべてが、言葉、思考であるからである。そうした理解
(だけ)では
精神疾患の治療には効果がない。
エクササイズ、トレーニングを通して、自覚される。それによって、脅威的思考の減
少、症状の変化が起きる。
(*)ただし、文脈としての自己と西田の根底の自己は似てはいるが、多分違うだろ
う。西田のいうのは、文脈としての自己よりもさらに深いもののようだ。仏教の実践
者が長期間の修行の末に自覚されるもののようだ。精神疾患の治療のための心理療法
としては、文脈としての自己の自覚や、意志的自己の自覚で足りる。数カ月で自覚され、思考、行動、症状
の変化に働きだす。
西田哲学の意志的自己は、ACTの文脈としての自己とも違うようだ。西田哲学の自己は作用や対象の於いてある場所であり、意志的自己も自己自身のうちに内容、作用を持つ。そのように自覚するのも観察を通してである。
第二世代までの認知行動療法は根底(文脈としての自己や意志的自己)を言わないので、通常の一重の構造である。マインドフルネス心理療法は、二重である。西田哲学は、それさえも包み込む奥底の場所を見ているようである。心理療法としては、クライエントが理解できて精神疾患が治癒することで足りる。心理療法は<医療>であり、哲学ではないのだから。
脳神経生理学的な説明との関係
脅威的に感じていた感覚、状況、感情、思考、症状などを重視せずに、根底の自己
の確かさ(実際に、苦痛が軽くなって)に自信を持つようになることが、うつ病の改
善を
もたらすのは、次の理由であろう。
うつ病は特に、前頭葉の機能低下によって仕事を遂行できなくなるが、前頭葉の神
経細胞が傷ついていると報告されている。根底の自己に自信を持つと、生じ滅する感
情、思考は軽く扱われることによって、ストレスホルモンの分泌、交感神経の亢進が
減少する。そして、価値実現の行動(呼吸法、運動、生活行動など)が増加すること
によって
前頭葉の活性化をひきおこして、脳神経生理学的な変化(BDNF:脳由来神経栄養
因子の増加により)が生じて治癒するのであろう。
(続)。
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Posted by
MF総研/大田
at 17:28
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