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(12) ハリファックスのマインドフルネスからわかる重大な誤解 [2020年11月26日(Thu)]
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4683
★相談会(埼玉県)
★がん患者さん、ご家族もどうぞ。マインドフルネス総合研究所の会には、いつも、がん患者さんやご家族が含まれています。


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【書籍紹介】「死にゆく人と共にあること〜マインドフルネスによる終末期ケア」ジョアン・ハリファックス

(12) ハリファックスのマインドフルネスからわかる日本の学問の重大な誤解
 =日本の仏教、禅、マインドフルネスに誤解が広まっている

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3669
「学者は平気でウソをつく」
 マインドフルネスは宗教を「排除」したもの、「無評価の観察」を超えるマインドフルネスは、宗教であるというのは哲学を知らないことによる誤りです。対人関係の場面では、無評価ではいられないが、価値を崩壊させないかどうか評価しつつ行動するトレーニングをすれば、うつ病などは改善する人がいるからです。特に、宗教的なことはありません。
    (注)ハリファックスのマインドフルネス(自己洞察)は、深いので、浅いものは包括します。ところどころに、無評価のマインドフルネスも出てきます。当然、患者さんを傷つけないか評価することもあるということです。
 うつ病などを改善し自殺を防止する範囲のマインドフルネスは宗教ではありません。こういう誤りが宗教やもう少し深いマインドフルネスを悪いものと思わせる偏見を助長し、うつ病の人に自殺するしかないという悲しい誤解を持続させてしまう危険があります。また、精神科医学、臨床心理学、禅仏教学などがうつ病などを改善する手法(言葉で説明する禅の実践方法、最近ではマインドフルネス手法)の研究開発をしない口実にするおそれがあります。私の20年以上の活動から見て、実際に起きていると思います。

 内科医、がんの医師などは自分のできないことは他の医師を紹介するのに、 どうして、心の関係者はそういうことをしないのでしょうね。ハリファックスがいうように「自分の知らないことが多い」ということを忘れるなということ、自分の無知、謙虚さ。生命の不可思議さを決めつけないように。大乗仏教の人は、昔から心得ていました。どこにもとどまらないようにと。とどまれば、もう支援する努力、研究する努力をしなくなります。苦しむひとが多いのに。 自分だけの満足、自分だけの幸福に安住するなと教えたのだと思います。身体の病気の医師は新しい治療法の研究開発を決してやめないのに、なぜ、こころの専門家(精神科、臨床心理学、仏教学禅学、自殺予防学、マインドフルネス学など)は枠をこしらえて枠内にとどまるのでしょうね。苦しみ続ける人、自殺していくひとが多いのに。

 根拠は、何度もいっていますが、対象にならない悟りの体験を中国の禅僧や道元、白隠、良寛など、そして、昭和の時代にも多くの禅僧がいいました。学問的にも体験者としても、体験する悟りがあると多くの人が言っています。西田幾多郎、鈴木大拙、井筒俊彦、滝沢克己、西谷啓治、大竹晋、竹村牧男、河井寛次郎、東山魁夷、フランクル、など。 その他こういう人たちがいます。これでも、ごく一部です。

マインドフルネスは3段階ある

1.瞑想時、坐禅時=無評価でよい

2.行動時の観察=当為価値実行。無評価ではない観察。うつ病などを治すのはこの段階のマインドフルネス。また、社会全体に蔓延しているエゴイズム、独断、差別、ハラスメントなどの被害をなくす我利我執の観察マインドフルネスもこの段階。学者でさえも自分の理解を超えると、深い体験や臨床する活動者のものを否定する者がいる。 宗教的な哲学は不要。

3.存在価値の苦悩=宗教レベルのマインドフルネスが支援できる。死の苦悩、人格否定の苦悩。ただし、宗教でなくても超越をいう哲学でも可。なぜなら、多くの宗教がこのレベルの宗教であるわけでもない。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4687
【書籍紹介】「死にゆく人と共にあること〜マインドフルネスによる終末期ケア」
 ジョアン・ハリファックス、井上ウイマラ監訳、春秋社、2015
Posted by MF総研/大田 at 09:54 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
(11)最も深い絶対無、無分節をいうハリファックス [2020年11月22日(Sun)]
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4683
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(11) 最も深い絶対無、無分節をいうハリファックス

 もう終わりにしようと思ったのですが、ハリファックスのマインドフルネスは、最も深いマインドフルネスであること、西田哲学の絶対無、鈴木大拙の日本的霊性、井筒俊彦の無分節と同じであろうということが、決定的であろうとみられるところだけ指摘します。

 9章です。

 「あらゆるカテゴリー、二元性、渇望、幻想、嫌悪がまったく存在したことのない不動の心を見るのです。」(p147)

 これは、人が体験できる最も深い「内的生命の流れ」「絶対無」(西田哲学)です。ハリファックスは、最も深い根源をわかっているので、このような素晴らしい活動がでくるでしょう。 道元にもこれがあると多くの哲学者(西谷啓治、井筒俊彦、秋月龍a、ほか西田哲学の研究者)が認めるものです。道元の場合、このような表現になっています。
 「萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。」
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2439

 理解できなくても、すべての人の根底がこうであるというのです。

 「波と水が切り離せないのを見るのと同じように、二つのものを同時に一つのものとして見ることができるでしょうか。たとえ、その真相を今すぐに感じることができなくても、そういうものなのだと信じることができます。」(p147)

 対象的に見られる2つを同時に見るのではありません。たとえば、山と川、AさんとBさん。そんな浅薄なことではないでしょう。山と絶対無、川と絶対無、Aさんと絶対無、Bさんと絶対無、自己と絶対無でしょう。絶対無は空、仏性、無分節、超個、神、仏(対象的には見られない)でもよいのですが。

 これは、鈴木大拙のいい方。超個と個。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/2420

 12章です。

 「不死の悟りは、今まさにこの瞬間、ここにあることを理解してください。」(p206)

 「不死の悟り」は「生死なし」であり、「今まさにこの瞬間」すべての人の根底。日本の禅の人もいいました。「生きながら死人となりて」「生死なし」など。

 13章にも、似た言葉があります。

 「彼女が解脱したことは明らかでした。
 恐れから自由になった人は、悟りのいちばん深いレベルでは苦しみはなく、生まれることも死ぬこともないということを知っています。}(p218)

 道元もそういいます。「生死なし」。多くの禅僧がいいました。盤珪は「不生」といいました。

 こういう深い自己の哲学を基礎にしたがん患者や難病で死を覚悟した人の支援プログラムがとても大切でしょう。それとも、日本では科学的ではない、宗教的だと排除されるのでしょうか。 深い宗教哲学的な学問的な議論がされない日本なのでしょうか。

 そんなことはないでしょう。日本でも、どこかの大学でハリファックスのプログラムが研究されているでしょう。深いマインドフルネス学となるでしょう。そこでは「マインドフルネス」の定義は拡張されています。
 その定義は、定義しているようでしていない、研究を終わらせない、限界を作らない定義でしょう。大昔、大乗仏教の学者がいった「無住処」に習うのがいいのではないでしょうか。
 https://blog.canpan.info/jitou/archive/2425
 ★大智度論・無住処涅槃

 ハリファックスの「死にゆく人と共にいる」支援は、がん患者のうつ病、自殺が多い日本でも切望されるプログラムだと思われmす。深い人間の哲学探求に裏付けられたものであることが明らかです。人間哲学は、西田、鈴木、井筒などがあり、日本が世界的に貢献「できた分野だと思います。これを活かして、日本でもがん患者の支援をしてほしい。 それは、いくつかの局面のプログラムが必要です。課題は多くあります。
    ★告知後の患者のケア、うつ病、自殺を防止のマインドフルネス
    ★患者が動ける間、10年にわたる心のケアのマインドフルネス
    ★入院後の病院にいる患者を支援するマインドフルネス
    ★在宅闘病の患者1年2年、支援するマインドフルネス
    ★臨終に近い患者を支援するマインドフルネス
    ★上記の各局面における家族のケア、残された遺族のケアの支援するマインドフルネス
    ★家族のいない患者の支援(ハリファックスは死にゆく人に家族のいない患者さんのケアがしばしば紹介されている)

    ★ハリファックスの本書を読むと、支援者には相当厳しいストレスがかかる。一体、誰がおこなうのだろうか。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3669
「学者は平気でウソをつく」
 「無評価の観察」を超えるマインドフルネスは、宗教であるというのは哲学を知らないことによる誤りです。(この続きは、 別の記事で。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4687
【書籍紹介】「死にゆく人と共にあること〜マインドフルネスによる終末期ケア」
 ジョアン・ハリファックス、井上ウイマラ監訳、春秋社、2015
Posted by MF総研/大田 at 21:55 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
(10)3段階のマインドフルネス [2020年11月20日(Fri)]
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4683
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【書籍紹介】「死にゆく人と共にあること〜マインドフルネスによる終末期ケア」ジョアン・ハリファックス

(10)3段階のマインドフルネス

 6章は、「あなたはすでに死につつある――無常、無我、自由を悟る」です。

 日本の禅は道元禅師や白隠禅師のように大変深い自己洞察がありました。哲学者から、絶対無に相当するものがあると認められいます。意識作用に浅いものから深いものまであるので、「観察」の仕方も違ってきます。
 ハリファックスのマインドフルネスは、死にゆく人と共にいる支援をするので、もっとも深い自己観察が必要になるようです。ハリファックスの心の探求には、3段階があります。

 「そこに向かう道を見つければ、私たちの視野をさらに大きな地平へと開いてくれる重要な門が3つあります。
一番目の門を開けると、あらゆることが――とくに言えば――この人間の肉体を生きることすらも、無常であることが明らかになります。
二番目の門が開くと、分離した自己は存在しないことが示されます。
三番目の門の後ろには、私たち自身の心の光輝く本質が輝いています。」(p92)

 1番目2番目は、次の記事が参考になるでしょう。

  https://blog.canpan.info/jitou/archive/3686
  ★身見、我見

 特に、三番目は深いものであることを予想できます。
以下、19章まであります。このように、ハリファックスのマインドフルネスはとても深いものまであります。無評価の観察に留まりません。当然といえば、当然です。対人場面でない瞑想の場所以外は、熾烈な評価の世界です。評価された時、評価する時ばかりです。 対応次第で、自分とは違うからと良き人を排除し、自分や他者をうつに追い込んだり、自殺までにも至ります。別に連続記事で考察しました。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4537

 仏教による自己の探求は、2千年の歴史があります。深刻な問題は、「死」の問題です。そこまでの観察があります。「マインドフルネス」を教える指導者は、本書をご覧になっていただきたいと思います。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4687
【書籍紹介】「死にゆく人と共にあること〜マインドフルネスによる終末期ケア」
 ジョアン・ハリファックス、井上ウイマラ監訳、春秋社、2015
Posted by MF総研/大田 at 17:41 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
(9)無常、無我、自由を悟る [2020年11月19日(Thu)]
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4683
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(9)無常、無我、自由を悟る

 6章は、「あなたはすでに死につつある――無常、無我、自由を悟る」です。 無常、無我は初期仏教にもありますが、ハリファックスのものは、無常、無我、縁起を理解することではありません。読めばわかりますが、禅の悟りです。体験するのです。根底の無常、無我を体験することです。それには修行が必要だと言っています。6章は、西田哲学、井筒哲学、鈴木禅哲学のような、内奥の深い絶対無、無分節の有様と類似します。それを観ましょう。

 「興味深いことに、苦しみが深くなるまで、内面的な作業を始めない人たちがいます。これは少し遅すぎるかもしれません。なぜなら、私たちを駆り立てる心の習慣は根深く、ほんの数日、数週間、数ケ月のうちにその根を抜くことは、可能だとしても、それほど簡単なことではないからです。・・・・ 悟りは偶然ですが、修行は偶然を起こしやすくします。」(p90)

 「しかし、百聞は一見にしかず、です。私たちの生活のなかで、相互のつながりや無常が本当に現実のものになるには、それを直接、個人的に体験する必要があります。」(p95)

悟ったら

 死んでいった友人がこう書いたそうです。

 「洞察を得たことで自分のアイデンティティが根底から転換したことを、彼は友人たちと分かちあいました。彼はこう書いています。 「私のアイデンティティは、私の人格の多くの側面の総和ではありません。そのもっとも透明なところでは、私はあらゆる人やあらゆるものと共にあり、そうしたすべてが統合されています。そしてこの統合された全体は『寛大なる愛』の神秘に支えられています。この転換の影響が感じられるので、私は、自分が死ぬことはないのだとわかっています、」(p93)

 このような言葉も不可解ではありませんか。久松真一も「わたしは死なない」といったそうです。「全体」も言及されています。女ジョン・カバット・ジンが言った一生かけて探求する「全体性」でしょう。

★永続する分離した「私」はない=無我
 西洋の人は無我を理解することが難しい(p94)といい、次のこっとが真相だという。

 「もし私たちが他者と分離していないこと、固有なアイデンティティなど何もないこと、時間と空間に固定されていないことを悟ることができるなら、私たちの苦しみは減少するか、終わりになることすらあります。」(p95)

 このあと、上記の 「しかし、百聞は一見にしかず、です。私たちの生活のなかで・・・」が続いています。つまり、「無我」は、体験するものです。この点は、日本の道元禅師と同じです。

 この6章でも、前記赤字の「もっとも透明なところ」、もっとも深い場所、対象的にならない場所、絶対無、無分節を体験することがハリファックスのすすめる「死にゆく人と共にあること」の前提になっています。そして、この悟りが、死にゆく人自身の苦の解放になるともいっています。 「私たちの苦しみは減少するか、終わりになることすらあります。」(p95)

 西田哲学が場所の論理で説明した悟りの体験によって、意識される「私」は、根底の絶対的一者が自己否定して転成したものとして自覚する「人格的自己」に目覚めることだと思われます。絶対的一者、絶対無、東洋的無(久松真一)、日本的霊性(鈴木大拙)、無分節(井筒俊彦)として、日本では哲学者が説明しているのですが、それを体験するわけです。ハリファックスの本に「百聞は一見にしかず」ということ「一見」しようということが述べられています。
 日本は、初期仏教の「正念」マインドフルネスをアメリカの人から教えてもらいましたが、日本の禅にもあったものです。そして、今度は、悟りをハリファックスから教えてもらっています。日本のひとは、自分の国にある宝を発掘できないで外国に求めるのです。自分の祖先が残してくれた蔵にあったのに。

 「彼が自分の外に求めていたものを、今や彼は自分の内側に見出したのです。」(p93) i

 アメリカのマインドフルネスのひとは、宗教を「排除」などしません。日本のマインドフルネスの研究者が「排除」という言葉を使うと、偏見を助長しそうです。「マインドフルネス、自己の観察は、宗教にかかわらず、どの宗教の人でもできるもの」というのが誤って解釈されたのでしょうか。MBSRは、もっとも深いものを目指さないので、宗教レベルではありませんが、ハリファックスのプログラムは、宗教レベルですね。深い禅の哲学と実践ですね。

 前の記事でも「透明」の言葉がありましたが、上記にも「透明」という言葉が出ています。「透明」という言葉で、すべての人の最も深い根源を説明したのが井筒俊彦です(『意識と本質』)。同じようなことをハリファックスもいうのです。

(自己の観察は浅いもの深いものがあります。ハリファックスも階層を述べています。最後にそれを見ます。)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4687
【書籍紹介】「死にゆく人と共にあること〜マインドフルネスによる終末期ケア」
 ジョアン・ハリファックス、井上ウイマラ監訳、春秋社、2015
Posted by MF総研/大田 at 19:16 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
(8)無限の中に安住する――四無量心の中に住む [2020年11月18日(Wed)]
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(8)無限の中に安住する――四無量心の中に住む

 5章は、「無限の中に安住する――四無量心の中に住む」です。 四無量心は、上座部仏教の瞑想の対象の一つですが、ハリファックスの四無量心は、大乗仏教的な意味をもたせているかもしれません。後で指摘するように、不思議な言葉があるからです。 4つは、慈悲喜捨です。
慈とは、慈しみ」、相手の楽を望む心
悲とは、憐れみ」、苦を抜いてあげたいと思う心
喜とは、「喜び」、相手の幸福を共に喜ぶ心
捨とは、「平静」、相手に対する平静で落ち着いた心
とされます。

 以上が、表面的な意味ですが、ハリファックスは深い意味をこめています。そこだけを抽出します。

  「四無量心の最初は「慈しみ」です。・・・ 私たちが大いなる全体の一部であることを理解する助けになってくれます、・・・ 私たちが時間や空間のなかの、ある固定した一点と一体化しているときは、いつも自分の存在の広大さに心を閉ざしています。」(p73)

 最後の文が不可解でしょう。前半の自己は大きな世界の一部は、すぐわかります。しかし、後半の「自分の存在の広大さ」が一見不可解でしょう。対象的にだけみると、自分は世界の中に生きています。自分は小さいです。しかし、自分の中に世界があるほど、自己は広大です。以下にも出てきますが、対象的な自我が空である、と悟った時、すべてが自己となる、、、。すべてが自己根底の超個の転成したものとなる。

 「二番目の無量心は、「憐れみ」です、・・・憐れみとは、理想化された状態ではありません。それは、私たちが互いに分離していないという深い理解のことであり、・・・・ 究極的には主観も客観もありません。・・・非二元性から放たれる芳香です。」(p75)

 意識される自己は真の自己ではない、それが無となって、自我に死んで、自他不二になった境地ですね。ハリファックスは、ベトナムの臨済宗のテクナットハンの流れをくむ禅の人ですね。 絶対無、超個を悟り、すべてが絶対的一者の自己否定態であるというのでしょう。山河大地だけではなくて、他者までも自己と一体でしょう。

 第三は喜びですが、やはり深い説明があります。ふつうに読めば、利他の喜びですが、ハリファックスは次のような深い根底を見ています。

 「三番目の無量心は、共感的もしくは高貴なる「喜び」です。―――利他的な喜び、すなわち他人を理する喜びを生み出すことです。」(p76)

 「大震災で人々が苦しんでいるのをみても、支援に行かずに坐禅をするのだ」といったことが大学で教えられていますが、全くこういう無量心のない思想です。こういうことが大学で教えられています。人々から日本の仏教に失望するでしょう。つらい人は、上座部の仏教やマインドフルネスに向かうのでしょう。
 共感も利他の喜びもない人は死にゆく人と共にいることはできないでしょう。ハリファックスの「喜び」の中の説明に不可解な言葉があります。死にぎわの人を見守っているのですが、・・・。死にゆく人に喜びを示すのです。

 「私は、彼の苦しみをとおして、苦しみから解放された場所に目を向けている自分に気がつきました。私は愛情をこめた喜びを示して、彼の不幸にふれました。」(p77)

 「私たちは、自分の目の前にある痛み、苦しみ、神経症、そしてみじめさの実物の教科書ばかりに目を奪われてしまうことがよくあります。もっと深く見てください。そして、この人のすばらしい心を見つけだし、それを自分のすばらしい心と出会わせるのです。」(p78)

 「場所」とは、深い心の場所のようです。アクセプタンスコミットメントセラピーの「文脈としての自己」でしょうか、弁証法的行動療法の「賢明な心」でしょうか。超越的宗教を研究している哲学者のいう「超越」「絶対無」「仏性」でしょうか。

 「四つめの無量心は、「平静さ」です。・・・・」(p79)
 「平静さとは、部分的でない状態であると考えられます――――「偏りがない」ということではなく、「部分的では、ない」ということです。」(p81)
 「死にゆく人の傍らで坐っているとき、そして私たち自身が死ぬとき、恐れや苦しみから解放されるというヴィジョンをどうか忘れないでいてください。このヴィジョンの実現へと至る道は、高貴な旅路です。そこには大変多くの障害物があるので、私たちには強さと個性が与えられます。」(p83)

 「部分的でない」というのは、ジョン・カバット・ジンがいう「全体性」に関係するでしょう。ここでも触れました。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4687
 「全体」「部分」は、第6章で詳しく述べられています。

 「私たち自身が死ぬとき」とは、自分の生物的な死ぬときではありませんね。禅の人がいう「生きながら死人となりて」でしょうね。基体としての自分はないと悟りの体験で、わかること。昭和の時代には、それを教える禅の本が多数ありました。
 ハリファックスのいうことも、簡単には体験できないことは、このヴィジョンに到る道は高貴で、障害があるということでわかります。西田哲学の研究者は理解していますが、仏教の学問ではごく少数です。しかし、学問的な真実は多数派が正しいとは限りません。
 悩む人に体験を教える僧は日本からは消えてしまったのなら悲しいことです。そういうことはありえます。 アメリカにいますね。どうしてこんなことになったのでしょうか。この分野には、学問の自由がないためだったという感じがします。
 (実は、出版社もメディアも発掘できていませんが、知られていない僧がかなりたくさんいます。禅の学問をする学者が体験を否定するので、そういう深い体験を教えるひとが大学などで教えられず、本も出版されないのです。いるけれど知られないのです。
 ハリファックスのこの本が出てハリファックスのプログラムが日本で教えられる状況になれば、その深い宗教哲学も研究されるでしょう。そこから、日本の仏教、日本の禅が再検討されるかもしれません。自由がないと学問は真実を明らかにできず、国民のためのなりません。)

 (第6章にも、ハリファックスの深い言葉、不可解な言葉があります。)
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4687
【書籍紹介】「死にゆく人と共にあること〜マインドフルネスによる終末期ケア」
 ジョアン・ハリファックス、井上ウイマラ監訳、春秋社、2015
Posted by MF総研/大田 at 22:48 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL
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