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NO・2212「カダフィの財宝を探せ」 [2012年01月31日(Tue)]
 カダフィ大佐は革命闘争が始まる前の段階か、あるいはそれ以後か不明だが、大量のドル紙幣や金の延べ棒を、分散して隠匿していた。それは、カダフィ大佐にしてみれば、当然の対策であったと思われる。
 カダフィ大佐は今回の革命闘争を、植民地支配をもくろむ、欧米の陰謀と断定しており、長期闘争に入る構えでいた。そのため、資金は分散して隠匿され、武器も同様に各地に隠匿されていた。
 革命が終わった段階では、大量の武器がリビアから他の国に、密輸され問題化している。エジプト経由の物はシナイ半島を経由し、ガザ地区に密輸され、あるいは船でレバノンに密輸されたと言われている。そればかりか、アフリカ諸国にも相当量が、流れているものと思われる。
 しかし、カダフィ大佐が隠匿していた武器は、それほどの価値にはならないだろう。闇で売られる武器の取引価格は、そう高くはないからだ。たとえばクラシニコフ機関銃などは、300~500ドル程度で取引されているという話だ。しかも、この武器の闇取引は危険がいっぱいであり、リスキーなのだ。
 いま話題になり始めたのは、カダフィ大佐が隠匿していた、ドル札や金の延べ棒だ。その第一の隠匿先は、カダフィ大佐が居住していたトリポリの、バーブアズイーズイーヤの邸宅内だ。そこには幾つもの隠し部屋があり、そのなかにドル札や金の延べ棒が、大量に隠匿されているということだ。
 しかし、その発見に手間取った反カダフィ側は、カダフィ大佐の二男サイフルイスラーム氏を現在収容している、ジンタンからトリポリに連れてきて、その在り処を明かすよう、命令しているそうだ。
 バーブアズイーズイーヤの邸宅には、何百万ドルもの札束があり、金の延べ棒も隠されているということだ。ここ以外にも、リビア各地にも隠匿されているのだが、その在り処を知る者はカダフィ大佐の、側近中の側近たちだけだということだ。
 そこで、サイフルイスラーム氏や元情報長官だったアブドッラー・サヌーシー氏などが在り処を知っているとして、追及されているのだ。
 ところが無政府状態の現在のリビアでは、このカダフィ大佐の隠匿物をめぐっては、ほとんど宝探しの雰囲気なのであろう。探索現場では銃撃音が響き渡り、分捕り合戦が行われていることがうかがえるのだ。
 考えようによっては、アメリカやイギリス、フランスに奪われるよりは、リビア人の手に渡る方が、いいのかもしれない。そうとでも考えなければ、死んだカダフィ大佐も浮かばれまい。
Posted by 佐々木 良昭 at 12:57 | この記事のURL
NO・2211「チュニジアで始まった反イスラミスト運動」 [2012年01月30日(Mon)]

 世俗主義の若者を中心に拡大発展し、最終的に独裁体制を打倒することに成功した、北アフリカの革命運動がいま、第二段階に入り始めたようだ。それは、この革命の成果を横取りした、イスラム勢力が大衆の反発を、受け始めているのだ。
 エジプトではすでに、ムスリム同胞団に対する不審の念が、強まっていることを報告したが、チュニジアでも同じように、あるいはエジプト以上に激しい、反イスラミスト運動が始まっている。
 チュニジアの場合はナハダ党(イスラム原理主義)が、トルコのAKP ( 発展公正党)に似た、政治方針を採ることを歌い文句にし、先の選挙で大勝利しているが、その後の動向を見ていると、必ずしもトルコのAKPと、類似しているとは、言い難い部分が多いようだ。
 問題は、ナハダ党がイスラム原理主義色を強めたというよりも、他のイスラム原理主義組織の動きを、規制出来無いでいるということだ。サラフィスト・グループ(イスラム原理主義組織)が次第に、イスラム色を濃く打ち出し始めているのだ。
 例えば、女性がジーンズをはくことに対し、嫌悪感を口にして非難したり、女子学生が顔を全面的に覆う(ニカーブ)ことを、禁止した大学に対し、抗議の座り込みを、し始めているのだ。
 当然のことながら、こうしたイスラミストの暴走に対し、世俗派のチュニジア国民が、抗議の姿勢を採り始めた。先週の土曜日1月29日には、チュニジアの首都チュニス市のボルギバ通りで、大規模な抗議デモが行われた。
 そのなかには、多くの女性が参加していたことは述べるまでも無い。ボルギバ大統領が進めた、先進的で教育重視の方針が、いま完全に躓いているということであろう。これまで教員をしていた女性は『チュニジアを14世紀に戻す気か』と怒りを露にしている。
 このチュニジアの動きは、やがてエジプトにも伝わるだろう。エジプトは何事につけ、アラブのなかで最も早く、一番前に出たいと考える国民性だからだ。先の革命運動でも、チュニジアに先を越されたことを、悔しがっていたが、今回もまたチュニジアに、先を越された感じになっている。
 エジプト国民は現段階では、一日も早い権力の委譲を、軍から文民政府にと要求しているが、最終的に、エジプトの混乱を抑えうるのは、軍だということを熟知している。
 言ってみれば、現段階の軍に対する、一部エジプト国民の反発は、駄々をこねているような、甘えの精神からであろう。チュニジアで始まり、やがてはエジプトでも始まる、イスラミストへの反発の動きは、革命の第二段階が始まったということか。
Posted by 佐々木 良昭 at 23:40 | この記事のURL
NO・2210「世俗派とムスリム同胞団の対立開始」 [2012年01月28日(Sat)]

 1月25日はエジプトの革命記念日だったが、そこで新しい動きが、明確に表面化してきた。それは革命を成功させた若者たちの世俗派と、革命の成果を横取りしたムスリム同胞団との間に、明確な亀裂が見え始めたのだ。
 当然のことであろう。若者たちにしてみれば、自分たちが命がけで成功に導いた革命の成果を、ムスリム同胞団が横取りしたのだから。しかも、革命後、世俗派は憲法改正後に、選挙を行うべきだと主張したが、ムスリム同胞団は選挙を先にして、憲法改正は後回しにすると主張した。
 それは組織力と資金力を持つ、ムスリム同胞団が選挙で、確実に勝利できると踏んでいたからであろう。国会で多数派になってしまえば、ムスリム同胞団はどのようにでも好きなように、憲法を変えることが出来るからだ。
 革命記念の日、その舞台となった革命広場(メイダーン・タハリール)には、世俗派の人たちと、ムスリム同胞団のメンバーが集まった。そこで世俗派の若者たちが、ムスリム同胞団のメンバーに対して『ムスリム同胞団は軍のリーダーと妥協した。』『お前たちは革命を売り飛ばした』と非難のシュプレヒコールを繰り返したのだ。
 ムスリム同胞団の幹部が、舞台に上がって演説を始めると、世俗派の人たちは靴を手にかざして、抗議のジェスチュアーを示した。これをアズハル大学の教員がなだめ『我々は一体なのだから止めろ』と言っても聞き入れなかった。
 革命は若者たちが始め、成功まで導いたのだ。その過程では何人もの若者たちが犠牲となっているのだ。しかし、ムスリム同胞団のメンバーからは、一人の犠牲者も出ていないのだから、若者たちが怒るのは当然であろう。
そして、革命後の選挙ではムスリム同胞団が、45パーセントを超える議席数を獲得しており、与党になり権力を手にすることは確実だ。時間の問題でムスリム同胞団はシャリーア(イスラム法)を、新たな法律のなかに、組み込んでいくものと思われる。
ムスリム同胞団の幹部は、シャリーアの施行については、段階を追って進めていく方針であろうが、もう一つのヌール党(イスラム原理主義のサラフィスト政党)がやはり、25パーセント以上の議席を獲得していることから、シャリーアの施行を急がなければならない状況に、追い込まれている。
ムスリム同胞団は述べるまでも無く、イスラム原理主義の組織であり、戦術的には緩やかなシャリーアの導入を考えていても、それを行わないということではない。やがてはシャリーアが、エジプトの主たる法源になる時が来よう。
それを急がせるのが、同じイスラム原理主義のヌール党だ。ヌール党は即刻イスラム法を採り入れ、実行することを強く希望しているからだ。そうなれば若者たちはますます、ムスリム同胞団とは相容れない、動きをしていくことになろう。
エジプト航空は4月15日から、カイロ〜成田便を、週2便飛ばすことを決めたようだ。しかし、これまで説明してきたように、エジプトはまだ観光に出かけることが出来る状態にまでは、安定していないのだ。エジプト政府はできるだけ早く、外貨を手に入れたいと思っていようから、安全だと主張しよう。
日本の旅行業者は現地ホテル代や、現地旅行会社の代金を、徹底的に叩けることから、以前にも増してエジプト・ツアーはドル箱コースとなっている。従って日本の旅行業者は、一日も早くエジプト・ツアーを始めたいだろう。
相手国政府の要請と、旅行業者の要請を受け、在エジプト日本大使館は危険度を、ワン・ランクもツー・ランクも、下げるのではないかと心配だ。
Posted by 佐々木 良昭 at 22:49 | この記事のURL
NO・2209「エジプトは危険・観光は自粛した方がいい」 [2012年01月28日(Sat)]

 エジプト革命から1年が過ぎ、選挙の結果を踏まえ、一応民主的な政府も出来上がり、やがて大統領も登場するだろう。関係者たちは、エジプトは順調に回復に向かっている、と言いたいところであろう。
 しかし、40年以上アラブを見続け、年に何度もエジプトを訪問している私に言わせると、エジプトの現状は、全く安全にはなっていない。各国のブログを見ていると、大半がエジプトの不安定を指摘し、第二革命、第三革命が起こる危険がある、と指摘しているのだ。
 しかし、エジプトにしてみれば、一大外貨収入源である観光産業が、回復してくれないのでは、庶民の生活は苦しさを増し、その不満が再度の大衆蜂起を、生み出すことに繋がる。もちろん、観光産業が回復したからといって、エジプトが安定化に向かう、ということは無い。
 エジプトが抱える、不安定と危険の原因は、おおよそ次のようなものであろう。
1:革命の成果は世俗派の手には渡らず、イスラム原理主義者の手に渡った。
2:イスラム原理主義者の政府はイスラム法(シャリーア)を、段階的に拡大していくだろう。
3:旧官僚はそのまま権力の座にあり、これを打倒したい、と世俗派は考えている。
4:軍は相変わらず特権を維持しており、イスラム原理主義者側は軍との連帯を、強固にしたいと思っている。
5:軍は世俗的な組織であり、イスラム原理主義勢力とは、水と油の関係にあり、やがては衝突しよう。
6:観光以外の外貨収入源は、出稼ぎ送金、スエズ運河通過料、外国援助、シナイ半島のガス輸出などだが、主な出稼ぎ先のリビアは、いまだに不安定な状況にあり、エジプト人出稼ぎ者が自由に入り込んで、仕事ができ送金出来る状態には無い。(革命前エジプトからの出稼ぎ者は100万人を越えていた)。
7:シナイのガスは、パイプ・ライン爆破テロが続いており、思うように輸出出来ていない。
8:世界の景気後退でスエズ運河の通過船は減少傾向にある。
9:企業が倒産し、失業率が上昇し、収入の無い人や減った人が相当数いる。
 挙げればキリが無いほど、エジプトはいまだに不安定であり、危険な状態にあるのだ。何時もはにこやかに対応してくれるエジプト人も、ちょっとしたことで爆発する性格を持っていることは、今回の革命劇を見ていれば分かることだ。
 エジプトが大好きで、年に3〜4回も訪問していた友人は、エジプトのホスト・ファミリーから、危険だからまだ来ない方がいいと言われている。
 私のように情勢分析をする者は、そうも言っていられないが、普通の人は観光で行く時期ではない。
 私の場合は元軍の幹部が、空港内まで迎えに来てくれ、車でホテルまで送ってくれ、次の日からはボデー・ガードも兼ねた運転手が運転する車が、ホテルに迎えに来てくれるのだ。しかも友人は常に、安全を確認していてくれるから、安全な時間帯に安全な場所に行けるのだが、それでも『今日はあそこの辺には行くな!』とはっきり言われる。
 エジプト航空が4月15日から週二便、成田カイロを飛ぶことになったようだ。当然、エジプト側の要請と、日本の観光業者がドル箱ツアーを再開したいだろうから『エジプトは安全です』という観光旅行パンフレットが、間も無く印刷され、ばら撒かれるだろう。
 そこで、中東情勢分析を長い間やってきた、私から一言申し上げたい。『貴方はルクソール事件の再発の、犠牲者になりたいのですか!』観光は時期が来れば出来るようになるが、命は一つしかないのですよ。
Posted by 佐々木 良昭 at 15:32 | この記事のURL
NO・2208「大丈夫かヨルダンのガス電気料金値上げ」 [2012年01月27日(Fri)]
 ヨルダン政府はガス料金の値上げに続き、電気料金の値上げを検討している。その計画によれば、電気料金は9パーセント値上げされるようだ。9パーセントの値上げということは、ほぼ10パーセントであり、日本でもそんな値上げをしたら大騒ぎになろう。
ヨルダンは限られた数の富裕層と、もう一方にはパレスチナ難民を含む、多数の貧困層が居住しているのだ。彼らにとって、ガス料金の値上げの後の電気料金の値上げは、相当に家計に響くことは明らかだ。
 ヨルダンでは発電の80パーセントのエネルギーが、ガスに頼っているが、そのガスは今までエジプトが供給してくれる、安価なものだった。しかし、昨年数カ月の間に起こった、10回以上ものガス・パイプライン爆破テロにより、エジプトのヨルダン向けガスは、何度となく停止している。
 問題は、現在のヨルダン国内政治との絡みだ。ヨルダンは何度もお伝えしてきたように、国内は不安定であり、各派各層の国民が、政府に対する抗議デモを繰り返している。
 最も用心深いムスリム同胞団ですら、最近では公然と政府批判を、行うようになってきている。そうしたなかで、ガス料金の値上げに続いて、電気料金の値上げが実施されるとなれば、反政府の動きはより活発なものとなることは、誰にも予想できよう。
 サウジアラビア政府はアラブの春革命の動きのなかで、王制諸国を一つでも減らしたくないという立場から、ヨルダンとモロッコを湾岸諸国会議メンバーにするよう、働きかけてきている。
 しかし、そうした動きよりも、サウジアラビアが取るべき手段は、ヨルダンに対するエネルギーの、無償供給ではないのか。カタールはガスの大生産国として、世界的に知られている.この国もアラブ・イスラム世界での、存在感を高めたいのであれば、ヨルダンに対して、ガスの供給を行った方が、いいのではないか。
 こうした動きが湾岸諸国から起こってこないのは、あるいは第三国がそれを、阻んでいるのかもしれない。ハマースのトップがシリアのダマスカスから、ヨルダンのアンマンに移り住む方向で画策している。ハマースはアンマンに事務所を再開したい、とも伝えられている。
 それはヨルダンの王制にとって朗報であろうか?あるいはその逆であろうか?おおよその見当は付きそうなものだ。
Posted by 佐々木 良昭 at 13:31 | この記事のURL
NO・2207「エジプト軍はなぜ戒厳令を解除したのか」 [2012年01月26日(Thu)]
 エジプトの革命は、1月25日で1周年を迎えた。これを機に、エジプト国軍はこれまで長い間施行させてきた、戒厳令を解除することを決定した。ある意味では、思い切った決断であったと思う。
 そもそも、エジプトの戒厳令は、社会が不穏な状況になった場合、早急な対応を採ることを目的とし、ナセル大統領の時代から、施行されてきたものだ。
つまり、1967年に起こった第3次中東戦争を前に、ナセル大統領は国内の安定を図ると共に、イスラエル側の破壊工作や諜報活動を、抑え込むために設けたものであった。
その後、ナセル大統領の死去に伴い、サダト大統領の時代に入るが、サダト大統領は就任当初、戒厳令を解除はしなかったものの、極めて緩やかなものに留めていた。
それが再度強い拘束力を持つに至ったのは、国内の物価値上げや、基礎食品に対する政府の補助金カットなどで、社会混乱が生じ、再度強化されたのだ。そして、それはサダト大統領死去の日まで続いていた。
サダト大統領の死去の後、ムバーラク大統領が就任するが、彼も政権を掌握した段階では、国民に対する人気取りということもあってか、戒厳令の施行は、厳しいものにはしなかった。
それが再度強化されるようになったのは、ムバーラク政権末期の大衆運動に合わせてであった。それがムバーラク体制打倒後にまで続いていた、というのが実情だ。
今回、エジプトの権力側にとって、伝家の宝刀ともいえる戒厳令が、あっさり解除されたわけだが、その真相はどうなのであろうか。
考えられることは、国会議員選挙が実施され。民間の政府が出来上がっていくなかで、ムスリム同胞団がその主役となったことにあるのではないか。革命に成功した大衆は、軍が権力を掌握したままであることに、反発し抗議している。そこで軍は、民間に権力を移譲すると共に、国の安定についても、一旦責任を放棄するという選択をしたのではないか。
これからは与党である、ムスリム同胞団の自由公正党が、国家の治安維持責任を担うことになるのだ。軍は政府の要請がない限り、動かないということであろう。
そうなると、与党は今後、必要に応じて与党の責任の下に、軍に対し治安維持の要請を、することになるということだ。その場合、大衆から非難を受けるのは、軍ではなく軍に治安出動を要請した、与党自由公正党(ムスリム同胞団)に非難の矛先が向けられることになろう。
軍は今回の戒厳令解除をもって、与党自由公正党(ムスリム同胞団)に対し、お手並み拝見という姿勢を、採ったということではないのか。実際に1月25日の革命記念日に、軍は出動していないのだ。
Posted by 佐々木 良昭 at 14:53 | この記事のURL
NO・2206「パレスチナのハマースは穏健化するか」 [2012年01月25日(Wed)]
 ガザで結成されたムスリム同胞団を母体とするハマースは、これまでイスラエルに対し、徹底武力闘争方針を貫いてきた。そのために、イスラエルからガザが攻撃を受甚大な被害を生み出してもいる。
 しかし、遅々として進まないパレスチナ問題解決に、憤りを感じている多くのパレスチナ人は、ハマースの支持に回るようになっている。特に、しばらく停止していたイスラエルとPAとの交渉が、ヨルダンのアンマンで再開されると、パレスチナ人たちは口をそろえて『一体何の見返りがあったのか?』『一体何の見返りを期待できるのか?』とPAに対し疑問を投げかけている。
それではこの先、ハマースは今までと同じような、強硬路線を踏襲していくのだろうか。実は少し違う流れが、ハマースのなかで始まっているようだ。それは少なからず、アラブの春の影響を、受けているようだ。
ハマースはチュニジアやエジプトの革命が成功したのは、穏健な闘争方針の成果だったと判断したようだ。そこで、ハマースも穏健な抵抗路線に変更しようとしているようだ。
具体的には、シリアのダマスカスに本部を置き、そこを拠点として活動していた、ハマースのトップが辞任を決め、次のハマースのトップ選挙には立候補しない、と言いだしているのだ。
他方、ガザに拠点を置き抵抗運動を続けてきた、イスマイル・ハニヤ氏はエジプト、チュニジア、スーダン、トルコ、カタール、イランを歴訪し、アラブの春革命とはなんであったのかを、調査したようだ。結果的に、彼はハマースの代表としての、人脈も広げることになった。
ハーリド・ミシャアル氏はダマスカスの本部を閉鎖し、ヨルダンに移住する見込みのようだ。それがかなわなければ、ガザに移り住むことになろう。ヨルダン政府が彼を受け入れ、居住を認めるか否かが、今後の焦点の一つであろう。
一説には、ハーリド・ミシャアル氏がダマスカスを離れる決断をしたのは、シリア政府がムスリム同胞団員を虐待殺害していることに、我慢が出来なかったからだという説もあるが、それは主因ではあるまい。ハマースは闘争方針を変革したいのであろう。
穏健路線に切り替えることによって、イスラエル側にハマースを認めさせ、交渉を進めていくということであろう。ハマースはマハムード・アッバース議長が提案した5月の選挙で勝利し、権力を掌中に収める可能性が高い。そうなれば、イスラエルもハマースのメンバーである、パレスチナ自治政府の高官を、無視するわけにはいかなくなるだろう。
ハーリド・ミシャアル氏がハマースのトップの座に留まれたのは、シリアとイランからの資金援助にあったわけだが、イスマイル・ハニヤ氏は今後、カタールを始めとする、湾岸諸国をスポンサーにしていくのではないか。それは、ハマースが穏健化していくことが、条件となろう。そして、それはハマースが国際社会に、受け入れられていくことにつながろう。
Posted by 佐々木 良昭 at 14:42 | この記事のURL
NO・2205「弁護士ムバーラク大統領は無罪だ」 [2012年01月24日(Tue)]
 エジプトのムバーラク大統領の弁護士は『ムバーラク大統領は無罪だ。」と言いだしている。その根拠は、元内務大臣などが治安に関係していた高官が、有罪となるのであれば、ムバーラク大統領には罪はない、ということのようだ。
 そればかりか、イスラエルに対するガス輸出での不正についても、それを進めていたのは、エジプトの情報部の幹部であり、ムバーラク大統領も彼の二人の子息も、関与していなかったと主張している。
 事実、ムバーラク大統領下で情報長官を務めており、その後副大統領に任命されたオマル・スレイマーン氏は、ムバーラク大統領のイスラエル向けガス輸出への関与はなかった、と証言している。
 こうしたことが弁護士によって主張される裏には、エジプト革命後の現状に対する不満が、国内に満ち溢れているということがあろう。世俗派の革命を起こした青年たちは、何時の間にかツンボ桟敷に置かれ、何の主導権も手に入れることはできなかった。
 選挙結果は、70パーセント近くをムスリム同胞団とサラフィ派が取り、エジプト議会はイスラム原理主義の方向に、どんどん向かっている。彼らは軍との関係維持を考えながら、動いているのだ。そこには、世俗派の台頭する幕は、ないようだ。
そもそも、現在軍最高評議会の幹部に収まっている人たちは、軍最高評議会のトップであるタンターウイ国防大臣をはじめとし、ムバーラク大統領によって昇格され、指名されてきた人たちだ。新たに結成されている政府にも、ムバーラク時代の政府高官が、多数連なって就任している。
 ムバーラク大統領は囚われの身ではあるが、特別待遇を受けており、いまだに政府高官に対し、モノが言える立場にいるのだ。食事は自分好みのレストランから取り、現政府の高官と何時でも電話で、連絡ができる状況にあるのだ。
 犠牲祭の折には、刑務所の外にいる元政府高官や現役の高官が、ムバーラク大統領に祝意を表すると同時に『もう少し我慢していてください、間もなく大統領の時代に戻ります。』と伝えたというのだ。
 ムバーラク大統領が無罪になるとは思えないが、彼が有罪になり、しかも処刑されるということは、ほとんどありえないのではないか。外部世界で(エジプト社会)いろいろなことが叫ばれているが、実際の状況はそれとは別だということであろうか。リビアでもカダフィ派がもり返してきているようだ。それは経済混乱が前体制の時よりも、悪化しているからであろう。
Posted by 佐々木 良昭 at 16:31 | この記事のURL
NO・2204「日本とトルコを繋ぐいい話」 [2012年01月23日(Mon)]
 トルコでバックギャモン大会があった。バックギャモンは大昔、多分平安(奈良か飛鳥時代)の時代であろうか日本に紹介されあまりにも人気が出たために一時禁止になったという話がある中東のゲームだ。日本ではすごろく、盤すごろくと呼ばれていたものだ。
 中東ではアラブでもトルコでも、そして多分イランでもターウィラ(机という意味)と呼ばれるゲームだ。双方が白と黒の丸いピース15個を、サイコロを振って進め、先に相手側にすべてを移した者が勝つというゲームなのだ。
 このバックギャモン大会に日本から『ニシザワケンジ』さんが参加し、入賞した。一等賞になったのか三等賞になったのかは分からないが、これが実にいい話題をトルコに提供してくれている。
 入賞者ニシザワケンジさんは賞金500トルコリラ(21000円程度)を、全部慈善団体に寄付したい、と申し出たのだ。しかも、その慈善団体は日本で起こった東北震災の折に、支援活動を活発にしてくれた、トルコの慈善団体キムセヨクムに送りたい、と申し出たのだ。
 彼は入賞して獲得した賞金500トルコ・リラを、トルコの慈善団体キムセヨクムに寄付するとともに、それに加えて、25万円を寄付したそうだ。結果的に、このことはトルコで大きな話題となった。
 日本国内でも千葉在住の女性医師が、匿名で500万円を寄付したいと申し出て、日本トルコ文化交流協会に連絡を取ってきている。
 『苦しい時はお互い様』というのが日本人の共通認識であったが、それがいま海を越えて、実行されていると思うとうれしい。ニシザワケンジさんが何歳の方なのはわからないが、日本人の一人として感謝申し上げたい。同様に千葉在住の女性医師にも感謝したい。
Posted by 佐々木 良昭 at 14:38 | この記事のURL
NO・2203「次の選挙でもファタハがハマースに敗北か」 [2012年01月23日(Mon)]

 パレスチナでもアラブの春革命が起こりそうだ。ただし、これは選挙戦での話だが、どうやらマハムード・アッバース議長の率いるファタハは、イスマイル・ハニヤ氏が率いる、ハマースに敗北しそうだ。
 このため、ファタハ幹部の間では、動揺が起こっている。元閣僚を務めたナビール・アムル氏は、緊急に選挙対策会議を開催すべきだと、マハムード・アッバース議長に進言したようだ。
 ファタハの幹部にしてみれば、気が気ではあるまい。2006年の選挙でファタハはハマースに破れ、首相職をイスマイル・ハニヤ氏が担うことになったが、強引に彼を引きずり降ろし、ファタハの幹部を充てた。
 誰が考えても、正統なやり方ではなかったのだが、マハムード・アッバース議長にしてみれば、アメリカとイスラエルの圧力の前に、そうせざるを得なかったのであろう。もちろん、彼自身の利害も大きく絡んでいた。
 その後、マハムード・アッバース議長は、何の成果も無いイスラエルとの交渉を、繰り返してきたが、他方では、イスラエルの西岸地区への入植や、東エルサレムへの入植が、着々と進められてきていた。
 マハムード・アッバース議長はパレスチナ大衆への手前、入植を凍結しないのであれば交渉に参加しないと、見得を切ってみたが、援助と絡んでいるだけに、遂にはアンマンでの交渉を受けてしまった。
 このことは、ますますファタハとマハムード・アッバース議長の信用を、低下させることとなった。当然、それはマハムード・アッバース議長が唱えている、5月4日に予定されている選挙に、大きな影響を与えよう。
 ファタハが不人気であることは、5月4日の選挙予想ばかりではなく、2006年の選挙以来続いているのだ。地方議会や職能組合の選挙で、ファタハはことごとくハマースの前に、敗北しているのだ。
 それは、マハムード・アッバース議長の汚職、イスラエルとの交渉に挑む姿勢の不真面目さ、非民主的なベテラン重視の、ファタハ強いてはパレスチナ自治政府の運営などによろう。当然のこととして、ファタハ・メンバーの若者の間から、反発が生まれている。
 ムハンマド・ダハラーン氏(元ガザの治安責任者)に対する対応も、厳しいものであったが、ファタハ・メンバーの若者層は、マハムード・アッバース議長よりも、ムハンマド・ダハラーン氏の方を、支持し信頼を寄せているのだ。
 アラブの春革命が、北アフリカ諸国を襲っているとき、マハムード・アッバース議長は『パレスチナでもアラブの春が始まる、それはイスラエルに対する革命だ。』といったことを豪語していたが、パレスチナの場合も他のアラブと同様に、パレスチナの権力者に対する、反発の動きとなりそうだ。
Posted by 佐々木 良昭 at 00:01 | この記事のURL
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