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2024年07月12日

屋久島世界自然遺産登録30周年を迎えて

屋久島世界自然遺産登録30周年を迎えて
    田川理事

 本年5月中旬に屋久島に行ってきました。
 日本で一番南にある百名山『宮之浦岳』へ登山し、『縄文杉』や大きな屋久杉を観てきました。

【屋久島の概要】
 屋久島は、九州最南端の佐多岬の南方約60kmに位置しており、周囲132kmのほぼ円形の島で九州最高峰の宮之浦岳(1,936m)を中心にいくつのも高い山が連なる山岳の島です。
国有林は3.8万haで、屋久島の森林面積の約8割を占めています。海抜0mから標高1,936mに至る、山岳島という自然条件のため、わが国では他に見られない、また世界的にも数少ない特異な景観を呈しています。このため、平成5(1993)年に日本で初めて世界遺産条約に基づく自然遺産 10,747haとして登録されました。

サンゴ礁の海から雪の山へ
 北緯30度の少し北にある屋久島は、平均気温が20℃近い亜熱帯の北の端といった気候で、人里にはハイビスカスやブーゲンビリアなど熱帯の花も咲いています。
 しかし、山を登ると100m毎に0.6℃余り気温が低くなり、標高2000m近い山頂では6℃台と北海道なみの亜寒帯に近い気候となります。

 屋久島は直径30kmに満たない島ながら、南北2000kmにおよぶ日本列島の自然がつめ込まれているのです。海岸から山頂へ、気温の変化にしたがって南から北からへと植生が移り変わる植物の垂直分布を見ることができます。
 屋久島の垂直分布は世界遺産登録に関する国際自然保護連合のレポートでも、植物分布の地理上の区界を超える植生として評価されています。
令和5(2023)年12月11日、屋久島は世界自然遺産の登録から30周年を迎えました。

IMG_1657 縄文杉.JPEG
(縄文杉の前にて)

●神々の領域 (〜安土桃山時代)
 古くから信仰の対象であった奥山に育つ屋久杉を伐採することはありませんでした。
 しかし、島津氏が強大になり、さらに天下統一がすすめられる時代になると、特別な建築のために屋久杉が伐採されるようになりました。五百年余り前と推定される切り株が確認されています。また、秀吉の京都方広寺の建築材を調達するため、島津氏の重臣が調査に来島した記録も残されています。

薩摩藩の支配 (江戸時代)
 屋久杉の利用をねらいとして屋久島支配を強めた島津氏は、江戸初期に屋久杉材を年貢などに定め、支配体制を確立しました。この時代に藩財政の安定と島民の生活向上を願って、提言したのが安房生まれの儒学者 泊如竹です。以来、幕末までに5〜7割もの屋久杉が伐採されたと推定されています。その跡には小杉と呼ばれている若い屋久杉が誕生して、現在に受けつがれています。

近代林業の時代
(明治時代〜昭和50年頃)
 明治時代になると国有化の動きがあり、大正の末には裁判に敗れて屋久島の森林のほとんどが国有林として確定しました。屋久島憲法とも呼ばれる「国有林経営の大綱」が定められ、国による事業が本格化しました。第二次大戦後、復興から成長へと展開する昭和30年代には大量に伐採されました。チェーンソーが導入され、広葉樹を含めて皆伐が一挙に進んだのです。経済成長のために国内の森林資源が強く求められた時代です。

共生の未来へ (昭和40年頃〜)
 大量伐採がおこなわれる一方、自然を守る動きも活発になりました。そのうえ、経済発展の結果、輸入材が増え、昭和40年代後半から国有林事業が大幅に縮小されました。
 昭和60年代には、森林生態系を活かした事業が導入されました。続いて森林生態系保護地域が設定され、残されている1万数千haの屋久杉の森は、伐採しない中枢部と生態系を保全しつつ利用する周辺部に分けられました。

IMG_1495 宮之浦岳.JPEG
(日本で一番南の百名山 宮之浦岳山頂にて)
posted by 田川 at 06:01| 身近な森のご紹介