ファンドレイジングジャーナル第10号
「プロが悔しがるNPOのコミュニケーション」(P32)
のハンズオン埼玉副代表理事吉田さんと鞄d通プロジェクトの林さんの対談で、
ジャーナルには書ききれなかった
最終話の続きの内容をこちらに掲載します。
記事続き
”いっしょに泣けたらいいよね。(つづき)”
■「ともに」って自治な関係かも吉田 「そういえば埼玉アリーナの避難所 でこんなことがあったわ。たくさんの人が集団で
暮らしているでしょ。『赤ちゃんの声がうるさい』っていうような苦情がぽつぽつ聞こえてきたのよ。
で、広報班としてはどうしようかと。もちろん『泣き声は迷惑ですから気をつけましょう』みたいな
張り紙をするっていう解決策もあるんだろうけれど、わたしたちハンズオン!埼玉がボランティアで
入っているのは、そういった『上からの指令』ではなく『ヨコのつながり』をつくるためなのだから、
それはやりたくなかったのね。
困ったな… と歩いていたら避難所の片隅に『赤ちゃんの声うれしいね』って書き込みが貼って
あったの。『これだっ』て思って。『赤ちゃんの泣いてる声、生きてる声、うれしく思おうよ』という
言葉をみんなで書いて、あちこちの壁に貼り出したのよ。『赤ちゃんの泣き声のことをみんなが
オープンに話し合えるようになればいいな』『できれば泣き声をありがたいものと感じてくれれば
いいな』と思いながら。
で、この言葉のおかげで避難所の雰囲気はちょっと柔らかくなったんだけど、このとき私は『自治』
のための広報ってこういうことかなって思ったの。
例えば自治会で、住民がもっと道をきれいにすべきだと思う→係や行政に苦情を言う→係や行政
から言われてきれいにする。という流れでは互いのぎすぎすした関係、監視しあう関係しか生まれ
ないし、それは自治でも共同体でもないと思う。お互いに思っていることをまず知り合うこと。知る
ことで 何かを感じる。そのわかろうとするチカラがつながりを創り新し何かを産み出すのだと
思うんです。」
そうか。こわがっていないで直接話せば、おたがいにわかるかもしれないし、変われるかもしれ
ない。加藤さんも他者との出会いがネットワークの本質だとこの本で言ってる。
「ボランタリーとは、まさしく『私』が『他者』から問われて、主体が立ち上がることです。被災地の
写真や映像でも、子どもの泣き声でも、きっかけはなんでもいいのです。もともとの自分にはない
何かに触発されて、はじめて自発性が生まれる。」
■当事者意識から、一歩が始まる吉田 「自治といえば、水俣のひとたちの集会に参加
した時のこと。出席している人たちがみんな
『チッソが悪い』『行政が悪い』って言うんだけれど、その話をずうっと聞いてて、何か違和感を
感じてね、『私、この自分も悪いって気もするんです…』って言ってみたの。臨界事故のときに感じた
『電気を使っている私自身も加害者だ』という意識と一緒で、携帯の液晶画面とか、暮らしの中で
チッソ製品を使っている私たちにも責任があるって気がしたのよ。
そうしたら『ほっとはうす』 の施設長さんが、『そうなんです。私も加害者でもあるんです。その立ち
位置からこの問題に向き合っていくこと。それがこれからの福島の問題も解決するポイントになる
と思うんです。』とお応えくださいました。そういえば地元の水俣病の漁師さんが書かれた『チッソ
は私だった』という本もあります。
林 「チッソという『加害者』は自分の中にもいる。って意味だよね。この現状に対して自分たちにも責任がある。と。
被害者であることはもちろんだけれど、豊かな水俣の自然をこのようにしてしまったことの加害者
としての責任を自分たちも負っていこうとするところに、地域に生きる人間の可能性を感じるよね。
吉田 「そう。お上まかせにして、不満を言うだけでは、自治やコミュニティの力は生まれないんだ
けれど、ここの人たちはそんなんじゃないんだなと思ったわ。」
■感情を共にすることは、当事者の立場に立つこと吉田 「東海村で泣きあった時からずっと感じているんだけれど、気持ちを受け取り合った時、ちょっとかもしれないけどその人の立っているところに寄りそえるとおもいます。」
林 「なるほど。人間どうしのつながりをつくるには、アタマもココロも全人格をオープンにして、かかわらなくっちゃいけないし、それではじめて当事者にパートナーとして認められ、当事者の隣に立てるのですね。
それでは、対談最終回はこのへんで。」
吉田・林 「読者のみなさん、長きにわたって愛読、ありがとうございました。
またファンドレイジング・ジャーナルの編集のみなさまにもずいぶんお世話になりました。
それでは、みなさん、またどこかでお会いしましょう。」