奉納芸能の紹介も最後になりました。
この芸能は、これまでの紹介してきた芸能とはまた異なり、とても困難な状況におかれていますが、何としても繋げていきたいという努力と、希望が見出せる芸能です。
F「請戸の田植踊(うけどのたうえおどり)」
【福島県双葉郡浪江町】
請戸芸能保存会(うけどげいのうほぞんかい)
古くから漁港として知られた浪江町請戸地区に伝わる田植踊は、福島県内で最も芸能化が進み洗練されたものです。毎年2月第3日曜日の苕野(くさの)神社の安波(あんば)祭では、花笠を被った小中学生の早乙女(さおとめ)が家々を回って踊り、神社では豊漁・海上安全・豊作を祈って田植踊や獅子神楽が奉納されてきました。
東日本大震災の津波により地区は壊滅、死者行方不明者は約180名にも及びました。また町全域が福島原発の警戒区域になり、全住民が県内外での避難生活を余儀なくされています。
地区の中心でもある苕野神社では宮司一家が津波によって亡くなり、また社殿も流失し、田植踊の衣装や道具一切が流失してしまいました。
昨年の4月、地方紙に東京に避難中の田植踊の師匠が田植踊の記録の提供を求める記事が掲載され、それを見た関係者が再興を呼びかけ、再開へ向けて活動を開始した。平成23年8月にはいわき市で、同年9月には東京江東区で各地に避難している子ども達を呼んで公演を行っており、浪江町の人々の絆を繋ぐ象徴として活動を続けています。

:昨年9月江東区での披露(儀礼文化学会 久保田裕道氏 提供)
明治神宮奉納の依頼をした後、請戸芸能保存会の渡部会長から一枚の写真DVDをいただきました。
写真が撮影されたのは、平成23年2月20日。
この日は安波祭で、田植踊や神楽の獅子舞が、神社で舞い、お神輿とともに地区を回り、田植踊は家々を門付(かどづけ、祝福の踊りなどを踊ること)しながら浜へ下り、神輿は海へ入り、田植踊と神楽は砂浜の上で披露がされました。

:平成23年2月20日安波まつり。請戸の浜で、田植踊、獅子舞、沢山の観客。(請戸芸能保存会 提供)
この光景は、請戸では何度も何度も繰り返されてきたもので、先祖から子孫へ、親から子へと伝えられてきた欠かすことの出来ない大事なお祭りでした。
安波さまから、僅か19日後の3月11日、請戸地区は津波と原発によって未だ帰還の叶わない土地になってしまいました。
6月、打合せの会場として、渡部会長から指定された場所は、浪江町役場、現在仮庁舎が置かれている二本松市の男女共生センターでした。
集まって下さったのは県内の別地域住む会長と、東京にお住まいの佐々木師匠、そして田植踊の早乙女である小中学生の父母会の方です。
お話しを伺うと、子ども達は明治神宮という大舞台での奉納に向け、散り散りになりながらも何度も福島の練習会場に集まり、懸命に練習をしているとのこと。
震災後のたくさんの支援に対する感謝と、再開後の練習の成果の披露の場と考え、我も我もと稽古しているそうです。
師匠曰く「震災前まで、歌は大人が主だったが、子どもも率先して取り組むようになった」。
このことは表す意味とは何なのでしょう。
早乙女は、子どもの頃しか踊ることが出来ません。
けれども、歌の役は大人になっても出来、いつまでも田植踊のメンバーとしてい続けることが出来るということ。
そうです、今請戸の田植踊に携わっている子達は皆、田植踊を踊る、ということでしか一堂に集まる機会がないのです。
返せば、田植踊を続けることで請戸の皆に会うことが出来るし、請戸を、浪江町をその時だけは共有することが出来るのです。
これだけでも、「郷土芸能」というものが持つ大きな大きな力を、皆さんは感じることが出来るのではないでしょうか。
子ども達は、皆楽しんで踊りを踊ります。
福島県の文化財保護審議会委員である懸田先生や、國學院大學院友会や、浅草の下駄屋さんや、その他たくさんの温かい気持ちで出来上がったその装束は、とても美しいものです。
子ども達を支え、地域の連帯を維持しようと努力する保存会の方々の姿は、とても尊いものです。
そして、子ども達が、請戸や浪江町の未来に向かって頑張っている姿を、是非見に来て下さい。応援して下さい。
今回は新メンバーも加入し、親御さんも含めて50名近くで上京します。
暑くて、ハードなスケジュールだけれど、楽しみにしてくれています。
「請戸の田植踊」の登場は
7/28(土) 御社殿 12時15分頃、原宿口 17時35分頃
7/29(日) 原宿口 14時10分頃、同 17時25分頃、御社殿一斉奉納 20時半から
7/30(月) 原宿口 12時30分頃
お楽しみに。