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〔後房雄のブログ〕

現実関与型の政治学者が、日本政治、自治体改革、NPOやサードセクターの動向などについて話題を提供しています。一応研究者なので、面白かった本や論文の紹介もします。


『湛山回想』(つづき) [2011年06月14日(Tue)]
 『湛山回想』には、ほかにも注目を引く箇所がいろいろありました。

■湛山は、秋田県横手市に印刷工場を確保して疎開し、『東洋経済新報』を敗戦前後も発行し続けるのですが、敗戦直後の8月18日の日記に次のように記しています。

 「考えてみるに、予は或意味において、日本の真の発展のために、米英等と共に、日本内部の悪逆と戦っていたのであった。今回の敗戦が、何ら予に悲しみをもたらさざる所以である。」(297ページ)

■戦時中に、湛山は、鎌倉に住み、町会議員を1期勤め、湘南倶楽部という協同組合の常務理事を務めている。

 アメリカの地方自治のことを紹介したうえで、日本の民主化にとっての地方自治の重要性を指摘しているのは、こうした経験を踏まえてのことだった。

 「もし日本に強固な地方自治が行われていたら、前記の米国の筆者の説くとおり、中央における軍閥が国政をほしいままにし、国家を今日の悲境に陥らしめるがごときことはなかったであろう。何となれば、強固なる地方自治が行われるということは、国民が強固なる自主独立の精神を持つことを意味し、したがって権力の専制を許さないからである。」(309−310ページ)

■湛山は、46年の第一次吉田内閣で大蔵大臣を務めるが、経済政策をめぐってインフレを警戒するか、デフレを警戒するかという論争の当事者になり、デフレの危険性を一貫して主張し、政策でも実行した。これは、大恐慌期の浜口内閣の金解禁、緊縮政策の失敗への批判と一貫した主張である。

 「私は、このインフレ必至論に対しては、終戦直後から反対した。戦後の日本の経済で恐るべきは、むしろインフレではなく、生産が止まり。多量の失業者を発生するデフレ的傾向である。この際、インフレの懸念ありとて、緊縮政策を行うごときは、肺炎の患者をチフスと誤診し、まちがった治療法を施すに等しく、患者を殺す恐れがあると唱えた。」(328ページ)

 「石炭の増産のためには、金を出すより外はなかった。政府の補給金ばかりでなく、復興金融金庫等からも、大いなる融資が行われた。それは、確かに一面において、インフレを促進したに違いない。しかし、その危険を冒さなければ。石炭の確保は出来ず、汽車もあるいは止まったかも知れない。」 (345ページ)

■農地改革の評価についても、現在からみて極めて先見の明があったことがわかる。

 湛山は、「旧地主の経済的、政治的勢力を駆逐することにおいては、農地改革は、まことに、すばらしき成功を収めた」と述べた上で、次のように主張している。

 「元来、日本の農業は、いわゆる零細農家で、・・・これでは、いかに農家が勤勉努力しても、人間らしい生活の出来るわけがない。しかも農家は、日本全人口の、ほとんど半分を占めるのである。ここに日本の経済が貧弱にならざるを得ない根本的原因がある。

 そこで私は、古くから、はなはだ突飛のようだが、日本の農家を二分の一ないし三分の一に減じ、その平均耕作面積を二倍ないし三倍にすべしと唱えていた。・・・もちろん、農家を減らして、その結果、あまってくる労力は、工業に向ける処置を講ずるのである。」
(352ページ)

■1947年4月総選挙において、社会党が第一党になり、片山哲が首相に指名された。その際に、自由党と民主党を合わせれば社会党を大きく上回るのに、あえて第一党の党首を首相に指名するというルール論に従って大きな役割を果たしたのが湛山であったらしい。

 「政治には、他の人事と等しく、あるルールを必要とする。ルールは必然機械的たることをまぬがれがたい。しかしその機械的なることが、政治を公明に、かつ円滑に進ませる。

 第一党の首領を総理に指名するという方法は、このルールの一つなのである。われわれは、昭和22年5月かような見地から、すべての論議を退けて、片山哲氏を首相に指名することを主張し、幸いにそのとおりに実現した。もしこれが、良いことだったとするならば、その功績は主として自由党のとった公正な態度に帰すべきものである」
(384ページ)

 このすばらしいルール感覚と政治センス、自由党の末裔である自民党の政治家たちに煎じて飲ませたいものですね。

 そして、主要政党には、是非このルール感覚、ルール形成の重要性を理解してもらいたいものです。