第三極は野合か
[2012年11月18日(Sun)]
出張つづきで、なかなか書けていませんが、12月16日総選挙に向けて動きが激しくなっていますね。
さすがに、選挙が近くなってくると、小選挙区制という制度のことをみんな思いだすようです。要するに、定数1を争う以上、1か0なのであり、過半数を取って政権を取るか負けて野党になるかが最大の問題だということです。
第三極論もそうした圧力のもとでようやく本筋に近づきつつあります。つまり、全国の小選挙区に統一候補を立てて過半数議席を狙える体制を構築できるかどうか(構築する意思があるかどうか)が決定的なポイントであって、従来の「みんなの党」のように選挙後の政界再編などというのはピンボケだということです。
なおかつ、民自公で、2015年度まで赤字公債の発行を参議院で止めないという合意を作ったので、参議院多数がなくても最低限の政権運営ができる条件が作られました。要するに、首班指名、予算案、条例で優越的権限をもつ衆議院の多数さえ確保すれば政権が取れるということです。
こういう視点で考えると、本筋を明確に理解しているのは小沢一郎と石原慎太郎だけだということが明らかです。橋下徹は、維新の会の勢いが少し陰ってきたこともあって、ようやく一気に過半数をめざすべきであって、そのためには広範な政党連合を組むことが不可欠であることを急速に理解しつつある感じですね。
こうして、第三極は、石原・橋下グループと小沢グループの二つに集約されつつあります。
最後の論点は、この両グループが政権をめざして小選挙区の候補者統一を含む事前の連携を構築できるかどうか、すべきかどうかという一点です。
政治とカネの問題を引きづる小沢一郎と組むことの利害得失の判断で、橋下は6−4か7−3くらいで組まない方が得策と見ているような感じです。小沢も、社民党との連携に動いているという報道もあります。「脱原発」で勝負するという戦略からはありうることです。
そうはいっても、公示直前くらいのタイミングで、第三極の2グループが連携成立を発表すれば衝撃的なニュースになるとは思います。小沢ー橋下ラインが水面下でまだ続いているのかどうかは気になります。
ここで問題になるのは、最近のマスコミでよく出る「野合」批判です。
政権を取るために政策の違いを無視していいのか、ということですが、ではどこまでの違いなら政権を取るために許されるのかという基準でも持っているのでしょうか。
これは問題の立て方が根本的に間違っていると思います。それぞれの政党や勢力が政策や理念で異なっているのは当然の前提であり、問題は、小選挙区制で意味のある政権選択肢を形成できるかどうか(形成しようとするかどうか)です。
そのためには、全国の小選挙区に統一候補を立てて、自公や民主に勝てるだけの勢力を結集できるかどうかと、その連合が信頼性をもつだけの統一政権政策(マニフェスト)を提示できるかどうかの二点が不可欠です。
マニフェストは、4年間限定の政権政策として、参加する政党がなんとか合意できることのみを書くしかないのであって(だから理念や長期的政策を書く必要はないし、書けるはずもない)、問題は、そうして出来たマニフェストが国民が支持し、信頼できる水準のものになるかどうかです。「野合」という印象を与えるとすれば、それは国民に選ばれないだけの話です。かなり限定的なマニフェストであっても、自公政権や民主党政権に比べればましだという評価が得られる水準でさえあれば勝つこともできます。
ここで、当然ながら、民主党は寄せ集めで、マニフェスト実現を4年間追求することすらできなかったではないかという批判が予想されます。ここには、衆参二院制の矛盾が重大な要因であったことの認識が弱いという問題はありますが、民主党のマニフェストを実現しようとする共通意思の弱さという問題はそのとおりです。
しかし、だから4年間限定のマニフェストを軸にした政権連合の形成(民主党は形は政党ですが、実質は政党連合だったと見た方が正確です)という「オリーブの木」方式が間違いかといえばそうではありません。
政党連合方式が一度失敗したからといって、またばらばらに候補者を立てて共倒れして、結局は自公政権を許すというのでは元の黙阿弥です。
それぞれが単体で政権選択肢となりうる二大政党が確立するまでの間は、政党連合も含めてせめて複数の政権選択肢が用意されることが小選挙区制での政権選択選挙を実現するうえで不可欠です。今後努力すべきことは、そうして勝利した政党連合が、せめて4年間は契約通りにマニフェストを軸にした政権運営に責任をもつという習慣の定着です。
私自身は、一度や二度の失敗があっても、あくまでも政権選択選挙を繰り返すことが、国民の判断能力が向上し、政党、政治家側の統治能力も向上する王道だと考えています。ここで、安心できるから、などという幻想で自公政権にもどるなどというのでは、何のための政治改革だったのかということになります。
誰が好きとか嫌いだとか、負けても政策にこだわるとかいう悪習を捨てて、総選挙の度にぎりぎりの選択で二つの政権選択肢に結集して競い合って国民の審判を受けるという気風をもつ政党や政治家を増やすしかないと思っています。
「野合」批判をする政治評論家や政治学者が多いですが、野合を否定して政治のダイナミズムを犠牲にするか、「野合」を繰り返しながらその質をあげていくことに賭けるかの選択では、私はやはり後者を選びます。
ただし、例外というものはあって、河村たかしについては、そうした選択肢の構成要素の前提条件すら満たしていない(基盤が異なる)という橋下の評価は妥当だと思います。あれほどいいかげんな人を含めることは、名古屋市内での多少の票とはかりにかけてもとても許容できるものではないということでしょう。
河村は最後の受け皿として小沢グループに潜り込んで終わりでしょう。
いずれにしても、小選挙区制という現行制度をきちんと踏まえた戦略的行動を政党や政治家が取り始めているという点では、ようやくイタリアの水準に近づきつつあるといえます。「野合」嫌いの倫理主義のマスコミなどが水をかけて潰さないことを願います。
さすがに、選挙が近くなってくると、小選挙区制という制度のことをみんな思いだすようです。要するに、定数1を争う以上、1か0なのであり、過半数を取って政権を取るか負けて野党になるかが最大の問題だということです。
第三極論もそうした圧力のもとでようやく本筋に近づきつつあります。つまり、全国の小選挙区に統一候補を立てて過半数議席を狙える体制を構築できるかどうか(構築する意思があるかどうか)が決定的なポイントであって、従来の「みんなの党」のように選挙後の政界再編などというのはピンボケだということです。
なおかつ、民自公で、2015年度まで赤字公債の発行を参議院で止めないという合意を作ったので、参議院多数がなくても最低限の政権運営ができる条件が作られました。要するに、首班指名、予算案、条例で優越的権限をもつ衆議院の多数さえ確保すれば政権が取れるということです。
こういう視点で考えると、本筋を明確に理解しているのは小沢一郎と石原慎太郎だけだということが明らかです。橋下徹は、維新の会の勢いが少し陰ってきたこともあって、ようやく一気に過半数をめざすべきであって、そのためには広範な政党連合を組むことが不可欠であることを急速に理解しつつある感じですね。
こうして、第三極は、石原・橋下グループと小沢グループの二つに集約されつつあります。
最後の論点は、この両グループが政権をめざして小選挙区の候補者統一を含む事前の連携を構築できるかどうか、すべきかどうかという一点です。
政治とカネの問題を引きづる小沢一郎と組むことの利害得失の判断で、橋下は6−4か7−3くらいで組まない方が得策と見ているような感じです。小沢も、社民党との連携に動いているという報道もあります。「脱原発」で勝負するという戦略からはありうることです。
そうはいっても、公示直前くらいのタイミングで、第三極の2グループが連携成立を発表すれば衝撃的なニュースになるとは思います。小沢ー橋下ラインが水面下でまだ続いているのかどうかは気になります。
ここで問題になるのは、最近のマスコミでよく出る「野合」批判です。
政権を取るために政策の違いを無視していいのか、ということですが、ではどこまでの違いなら政権を取るために許されるのかという基準でも持っているのでしょうか。
これは問題の立て方が根本的に間違っていると思います。それぞれの政党や勢力が政策や理念で異なっているのは当然の前提であり、問題は、小選挙区制で意味のある政権選択肢を形成できるかどうか(形成しようとするかどうか)です。
そのためには、全国の小選挙区に統一候補を立てて、自公や民主に勝てるだけの勢力を結集できるかどうかと、その連合が信頼性をもつだけの統一政権政策(マニフェスト)を提示できるかどうかの二点が不可欠です。
マニフェストは、4年間限定の政権政策として、参加する政党がなんとか合意できることのみを書くしかないのであって(だから理念や長期的政策を書く必要はないし、書けるはずもない)、問題は、そうして出来たマニフェストが国民が支持し、信頼できる水準のものになるかどうかです。「野合」という印象を与えるとすれば、それは国民に選ばれないだけの話です。かなり限定的なマニフェストであっても、自公政権や民主党政権に比べればましだという評価が得られる水準でさえあれば勝つこともできます。
ここで、当然ながら、民主党は寄せ集めで、マニフェスト実現を4年間追求することすらできなかったではないかという批判が予想されます。ここには、衆参二院制の矛盾が重大な要因であったことの認識が弱いという問題はありますが、民主党のマニフェストを実現しようとする共通意思の弱さという問題はそのとおりです。
しかし、だから4年間限定のマニフェストを軸にした政権連合の形成(民主党は形は政党ですが、実質は政党連合だったと見た方が正確です)という「オリーブの木」方式が間違いかといえばそうではありません。
政党連合方式が一度失敗したからといって、またばらばらに候補者を立てて共倒れして、結局は自公政権を許すというのでは元の黙阿弥です。
それぞれが単体で政権選択肢となりうる二大政党が確立するまでの間は、政党連合も含めてせめて複数の政権選択肢が用意されることが小選挙区制での政権選択選挙を実現するうえで不可欠です。今後努力すべきことは、そうして勝利した政党連合が、せめて4年間は契約通りにマニフェストを軸にした政権運営に責任をもつという習慣の定着です。
私自身は、一度や二度の失敗があっても、あくまでも政権選択選挙を繰り返すことが、国民の判断能力が向上し、政党、政治家側の統治能力も向上する王道だと考えています。ここで、安心できるから、などという幻想で自公政権にもどるなどというのでは、何のための政治改革だったのかということになります。
誰が好きとか嫌いだとか、負けても政策にこだわるとかいう悪習を捨てて、総選挙の度にぎりぎりの選択で二つの政権選択肢に結集して競い合って国民の審判を受けるという気風をもつ政党や政治家を増やすしかないと思っています。
「野合」批判をする政治評論家や政治学者が多いですが、野合を否定して政治のダイナミズムを犠牲にするか、「野合」を繰り返しながらその質をあげていくことに賭けるかの選択では、私はやはり後者を選びます。
ただし、例外というものはあって、河村たかしについては、そうした選択肢の構成要素の前提条件すら満たしていない(基盤が異なる)という橋下の評価は妥当だと思います。あれほどいいかげんな人を含めることは、名古屋市内での多少の票とはかりにかけてもとても許容できるものではないということでしょう。
河村は最後の受け皿として小沢グループに潜り込んで終わりでしょう。
いずれにしても、小選挙区制という現行制度をきちんと踏まえた戦略的行動を政党や政治家が取り始めているという点では、ようやくイタリアの水準に近づきつつあるといえます。「野合」嫌いの倫理主義のマスコミなどが水をかけて潰さないことを願います。