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〜「斐川地区に残る戦争遺跡と遺物」西野小学校 教職員研修〜 [2020年08月08日(Sat)]

 今年はアジア・太平洋戦争敗戦から75年、今も出雲市内には数多くの戦争遺構が残っています。
 この度、出雲市立西野小学校(斐川町富村)の教職員の皆さんが、斐川地区に残る戦争遺跡をめぐる研修を計画され、8月4日(火)博物館職員が案内をしました。

 小学校を出発し、まずは旧日本海軍大社基地滑走路を訪ねました。廃川となっていた旧新川の河川敷の跡に昭和20年に急造された滑走路とその関連施設です。大社基地の名称は、敵から位置を攪乱(かくらん)するためとも、単に大社の近くだからとも言われます。
旧日本海軍大社基地滑走路.jpg


 また軍用機を飛ばすには燃料や弾薬が必要です。付近の山や谷には飛行機を隠す掩体壕(えんたいごう)や、保管庫が数多く造られ、現在もその一部が残っています。今回は氷室公民館近くの保管庫を見学しました。

氷室公民館近くの保管庫.jpg


 この基地の位置は、アメリカ軍に察知されていました。昭和20(1945)年5月頃のB29の偵察飛行の情報をもとに、7月28日に中国地方一帯を米軍機が襲います。「七・二八空襲」と呼ばれますが、大社基地周辺も攻撃を受け、死者・けが人が出ました。また米軍機の機銃掃射の痕が、現在のJRの鉄橋施設に今も残っています。段原鉄橋(だんばらてっきょう)の銃撃痕です。

段原鉄橋の銃撃痕@.jpg

段原鉄橋の銃撃痕A.jpg


 続いて訪ねたのは興林寺(斐川町直江)の大捷記念碑(たいしょうきねんひ)です。この記念碑は高さ8.5mの鋳銅製で、この記念碑を作るために出資した人の名前と日露戦争・日清戦争に従軍し戦病死された人の名前が刻まれています。
 こうした記念碑は各地に作られましたが、太平洋戦争時の金属供出によりその多くが失われました。

大捷記念碑(たいしょうきねんひ).jpg


 最後に向かったのは、斐川文化会館の民俗資料室です。江戸末期から戦前に使われた民俗資料(県指定有形民俗文化財)と、海軍中尉だった斐川町出西の故・陰山慶一さんが収集された戦争遺品を収蔵しています。
 戦地で実際に使われた水筒や防毒マスク、千人針や軍服なども見学し、平和学習にどのように活かしたらいいのか、子どもたちにどのように伝えたらよいのかなどについて思いを巡らせました。

斐川中央公民館の民俗資料室.jpg


 ご自身も直接は知らない戦争や当時の暮らしについて今の子どもたちにどう伝えたらいいのか!先生方の真剣な思いが伝わる研修会でした。また、令和7年度には、西野小学校で開催される教職員の研修大会のテーマとして、今回の研修の内容を活かされるとのことです。