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栃尾ブログ
新潟県長岡市栃尾地域(旧栃尾市)は、中越地震の被災地です。
震災からの復興を契機にで地元の住民と都会の学生の間に「絆」ができました。
このプロジェクトは「絆」によって行われる地域活性化への挑戦です。
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「出会い」 〜震災から生まれた絆の物語〜[2010年12月06日(Mon)]


私たちNPO法人国際ボランティア学生協会(IVUSA)は、『栃尾』で継続的に復興を目指した活動を行うことを決定しました。
しかし、その時はすでに中越大震災の発生から1年以上が経過しており、栃尾での活動を検討するものの、大勢の学生を必要とする活動はほとんどありませんでした。

そんな中、中越大震災の被災地を豪雪が襲いました。
2005年(平成17年)12月から2006年(平成18年)2月にかけて発生した大雪は、のちに平成18年豪雪と呼ばれ、災害救助法も適応されるほどの記録的大雪でした。

もちろん、栃尾も例外ではありませんでした。
雪に慣れた土地ではありましたが、地震の復旧・復興の途中であり、高齢化の進む中での豪雪は大きな痛手となっていました。

そこで、私たちIVUSAのOBであり、非常勤事務局員の桑原望(長岡市議)が栃尾での活動の調整のために栃尾を訪れたところ、仮設住宅だけでなく震災前まで住んでいた住宅も除雪しなければならないこと、高齢化が進み連日の積雪に対応できないこと、そして仮設住宅の耐えられる積雪量をすでに超えているという現状がありました。
私たちにとっても除雪のボランティアの経験はほとんどなく、危険が伴うことでしたが、「やるしかない」というのが私たちの想いでした。
すべては「被災地・被災者のため」であり、やるしかありません。
私たちはすぐに準備に取り掛かりました。

一方、受け入れる栃尾の住民の方にとっても大変な決断だったと思います。
これまで外部からボランティアを受け入れた経験がほとんどないにもかかわらず、100人を超える学生を受け入れることになったのです。

しかし、仮設住宅の千野義夫区長(当時)の「責任は自分が取る」という一言で、栃尾での除雪ボランティアは実施されることになりました。
平成17年12月26日、首都圏から大型バス二台乗った学生100人が栃尾を訪れ、栃尾とIVUSAは出会いました。
活動を行うにあたり、桑原は一つだけ住民の方にお願いしていたことがありました。
それは、住民の方が除雪の仕方を学生に教えてほしいということでした。
学生と住民とが、ボランティアする側・される側ではなく、ともに復興を目指す仲間になりたいという想いからでした。

仮設住宅や半蔵金集落、栗沢山集落で学生と住民で除雪活動を行い、仮設住宅の屋根の雪はすべて下ろされました。
家の脇にあった雪も除雪され、住宅には久しぶりの光が差し込みました。
除雪している最中も学生と住民との笑い声が聞こえ、活動は成功に終わりました。

こうして私たちと栃尾は出会いました。
「はじまり」 〜震災から生まれた絆の物語〜[2010年11月29日(Mon)]


新潟県長岡市栃尾。

この『栃尾』に首都圏から年間500人以上の学生が2年連続で訪れました。

訪れたのはNPO法人国際ボランティア学生協会(IVUSA)に所属する学生たちです。

IVUSAでは、栃尾地域の活性化を目指して、拠点となる古民家を借り、栃尾の住民の方とともに活動を行っています。

私たちIVUSAの学生はこの2年間で、耕作放棄地となっていた畑を開墾し、作物を植え、そして田植え、稲刈りを行いました。

また、栃尾祭りや裸押し合い祭りなどにも参加するといった活動も行ってきました。

そんな私たちの活動は「栃尾ふるさとづくり活動」と名付けており、栃尾を第二のふるさとと考えています。

栃尾との出会いは『中越大震災』がきっかけでした。

IVUSAは、北海道南西沖地震や、阪神・淡路大震災などでもボランティア活動を行うなど、「災害ボランティア」を活動の柱の一つとして掲げ、設立当初から被災地での救援活動を行っている団体です。

さらに、私たちIVUSAのOBであり、非常勤事務局員を務める桑原望(長岡市議)が長岡に在住していることもあり、中越隊震災発生当初から被災地での活動を開始しました。

ボランティアセンターの設立・運営、避難所の運営、家屋の片づけ、救援物資の仕分けと配送、炊き出しの実施など、被災地での活動は多岐に渡り被災者の方に必要とされる活動を行ってきました。

活動した地域も、旧長岡市はもちろん、山古志村、川口町、小千谷市、十日町など被災地といわれるほぼすべての地域で活動を行いました。

しかし、私たちが長期に渡る活動を行う中で見えてきたのは、震災よりもある意味で深刻な地域の衰退、過疎化でした。この問題を解決するためには、これまでのような活動ではなく、地域を絞って、地域の住民と学生が顔の見える関係になる必要があると考えました。

一方、『栃尾』は山古志村に隣接し、震災の被害が大きいにも関わらず、マスコミに取り上げられることも少なかったため、義捐金やNPO、ボランティアといった外部からの支援もほとんど来ない地域でした。

そのため、あるマスコミは栃尾のことを「見捨てられた被災地」と呼びました。

そこで、私たちは長期的に取り組む対象として『栃尾』を選びました。

その栃尾とIVUSAが出会うのはその約一年後。

中越大震災の被災地を歴史的な豪雪が襲いました。

※NPO法人国際ボランティア学生協会(IVUSA)
IVUSA(イビューサ)(http://www.ivusa.com/)は、1993年より活動を開始し、2002年にNPO法人として認証された、国際協力・災害救援・地域活性化・環境保護を活動の柱に掲げる学生ボランティア団体です。
現在では首都圏や関西地域を中心に約1300名、80大学の学生が所属しています。
栃尾の物語(6)〜第二章のはじまり〜[2010年11月16日(Tue)]
中越地震の発生から仮設住宅の撤去までの間、IVUSAと栃尾の一連の物語(活動)は、第一章であった。



震災から間もなく、5年が立とうとしており、表面上震災の影響はほとんどみられず、道路などの「復旧」はほぼ終了した。

しかしながら、中越地震の影響で見えてきたのは、日本の原風景のような中山間地といった地方の衰退であった。



IVUSAが活動を行う田代集落は、震災前に4世帯で震災の影響で二世帯となり、半減した。

この田代集落昭和40年代は、約40世帯であった。

当時は、日本の人口が増加する中で、過疎化の進展などでで、20分の1の世帯数になったのであった。



田代集落に住む二世帯ともに、仮設住宅に住んでいたこともあり、IVUSAのことをよく知っている。

古民家の隣に住む平沢成美さんのお宅には、IVUSAの学生が訪れた時の大きな写真が飾られている。



「IVUSA」と「とちお同住会」そして「田代集落」それぞれ、まったく違う団体である。

しかし、IVUSAの先輩たちが作った物語の第一章は、三者を結びつけるたしかな「絆」を生み出した。

だからこそ無限の可能性があると信じている。



全国的に、災害ボランティアは盛んになってきたが、長期的な地域の活性化に成功した例はない。

先日、地元の新聞 「新潟日報」に震災から5年の特集が組まれていた。

IVUSAの栃尾での活動以外は、すべて行き詰っているというものであった。



IVUSAが行うプロジェクトが成功すれば、「栃尾の奇跡」と呼ばれるだろうと、注目されている。

この物語の第二章を描くのは、君たちだ。



(とりあえず、終)


栃尾の物語(5)〜IVUSAの残したもの〜[2010年11月08日(Mon)]
栃尾の仮設住宅は、栃尾市全域の住民が入居してきた。

つまり、同じ栃尾といっても知らない人だらけであったのである。



阪神大震災で問題となった「孤独死」

これは、死後何日も誰からも発見されないことである。

つまり、それだけ、住民同士コミュニケーションがなかったという証拠である。



栃尾も知らない者同士の仮設住宅だったため、「孤独死」が起きる可能性は十分あった。

しかし、IVUSAがきっかけで、住民同士の交流も行われ、そのような心配はなかった。



「仮設住宅にずっと住みたい」という住民がいたことは驚きであったが、

中越地震の仮設住宅の中で、もっとも素晴らしかったのは、「栃尾」であったと思う。



栃尾の仮設住宅も住民がいなくなり、閉鎖されることとなった。

その閉会式の時、「仮設住宅同住会」を立ち上げることが発表された。

これは、仮設住宅で過ごした絆で、今後も交流をつづけ、活動をしていこうというものであった。



「仮設住宅同住会」は「とちお同住会」と名称を変更し、

中越沖地震の被災地支援として、柏崎に花を植えたり、体験を話すなどの活動や

栃尾地域の各集落のお祭りに参加したり、

栃尾地域で花を植える活動をしたりしている。



彼らは、すっかりボランティア団体になってしまった。

「IVUSAみたいになりたいんだよね」と同住会のメンバーは笑顔で話す。

私の知っている限り、仮設住宅の入居者がその後もこのような活動をしているのは聞いたことがない。



(続く・・・・・)
栃尾の物語(4)〜ひまわりの種〜[2010年10月04日(Mon)]

二度目の春を迎えた被災地では、道路などの復旧も進んできた。

栃尾の仮設住宅でも自宅を再建できた人など、仮設住宅を離れる人が増えてきた。



そんななか、仮設住宅を訪れると、住民の方からこんな声が聞こえてきた。

仮設を離れる記念と残った人を励ますために、花を植えたいというのである。

「いいですね〜」と私が答えると、住民の方は

「まぁ また学生さんに会うための口実だけどね」と笑った。



こうして、06年5月、再び、IVUSAの学生が訪れ、無機質であった仮設住宅に沢山の花を植えた。

そのなかで、一番多く植えたのが、ひまわりの種であった。

このひまわりにはちょっとした物語がある。



平成7年阪神・淡路大震災が起きた。

瓦礫のまちになった「阪神」に「瓦礫のまちにひまわりを」を合言葉に沢山のひまわりが植えられた。

阪神大震災の仮設住宅などで育ったひまわりの種が、どういうわけだが、栃尾に届いていたのである。



この花を植える活動の頃になると、住民との絆はしっかりしたものになってきた。

仮設住宅の集会場で、連日連夜山菜をつまみながら、地元のお酒を飲み、

住民と学生は泣き、笑い、多くのことを語った。

仮設住宅の集会所でもっとも飲んだのは、栃尾の住民とIVUSAメンバーではないだろうか。



夏になるとひまわりは大輪の花を咲かせ、仮設住宅はにぎやかになった。

その大輪のひまわりの花をみながら、阪神大震災からのひまわりのバトンと次につなげたいと思った。

そこで、住民の方にIVUSAで世田谷の学校などにひまわりの種を寄贈したらどうか、と提案した。



すると、住民の方から、またも驚く返事がきたのである。

「地震では全国からお世話になった。そのお礼で直接渡したい」



そういったわけで、住民有志が直接上京し、ひまわりの種を贈呈することになった。

上京するための車中で、私は住民の方に、「標準語でしゃべってくださいね」とお願いをした。

住民の方は「おおごっつお」(たぶん、大変だという意味)と答えた。



そして、ひまわりの種は、世田谷の小学校などに寄贈され、小学校で課外授業も行ってきた。

ほとんど、上京することもなく、授業を行うことなんて考えられなかった住民の方は、

初めての経験を非常に喜んでいた。



もっとも、私が「いい冥土の土産ができましたね」と言ったら、

誰も笑っていなかったけど。・・・・・・・・・・(続く)
栃尾の物語(3)〜文集の作成〜[2010年09月27日(Mon)]
インドでの活動を報告するために、訪れたのは、震災から一年と半年がたった4月後半であった。

そのため、自宅を再建し、仮設住宅を離れる人も増えてきた。



震災により、仕方なく仮設住宅に入ったのだが、

IVUSAの学生との交流など、楽しい思い出も多くあったようで、

「仮設住宅が無くなるまでここにいたい」という住民が多くいたのには、驚いた。



そこで、住民たちは、記念に文集を作成しようということになっていた。

しかし、高齢者が多い、仮設住宅では、パソコンはおろか、字が書けない人も多くいた。

そこで、4月末に学生が訪れた際に、学生が聞き取りをしようということになった。



マスコミと違い、同じ目線で信頼関係を作ってきた学生相手に、住民は本音で語ってくれた。

こうして、仮設住宅住民の文集は完成した。



当時、仮設住宅の区長であった千野さんの挨拶文を抜粋する。



 「出会いがあれば別れが有る」そんな言葉は私たちには無いような気がする。

お互い励ましあった皆が同じだからだ。

 一緒に屋根の雪下ろしや花植え、住宅団地の草むしりなど

都会の学生とは思えないという住民の声と、

学生さんの次は何処をと、次への指示を求める声、

順調に進む作業と作業中の学生との会話は私たちの後々に語られる。

 とどの森での交流会、ふるさと交流会館での交流会等々、

ひとりひとりのあの時の顔や言葉を懐かしく思う。

 私たちの地域の再発見に栃尾に足を運んでいただき交流を続けてもらいたい気持ちと

ご支援ご協力くださった多くの方々に感謝申し上げます。



仮設住宅団地 区長 千 野 義 夫



(続く・・・・)
栃尾の物語(2) 〜栃尾からインドへ〜[2010年09月20日(Mon)]
「同じ被災者として何かできることはないか」





そいういった住民の方々。

しかし同じ被災者といっても、遠いインドの津波の話。

もちろんインドに行ったこともありません。



なによりも彼ら自身生活の再建の目途が立っておらず、まだ狭く寒い仮設住宅暮らしでした。

それにも関わらず、津波の被害にあったインドに支援をしたいという声があがったのでした。



12月の除雪ボランティアから学生が東京に戻った後、

住民の方はさっそく活動を開始しました。

仮設住宅の集会場に集まっては、インドの被災者のために千羽鶴を折り、寄せ書きを作り、

賽の神(お祭り)では募金箱を設置。

住民の方がお金を出し合って文房具を集めました。





2月になり、再び積もった豪雪のため、IVUSAの学生100人以上が仮設住宅を訪れました。



12月以上に雪は積もっていたけれど

住民の方たちに悲壮感はありませんでした。



「また学生に会いたかった」

「雪が消えないことを願ったよ(笑)」



そう話す人たちは笑顔にあふれていました。





夜の懇親会において

集めた文房具、寄せ書き、千羽鶴がじゅみんの方から学生へと手渡されました。

NHKをはじめ、各種マスコミが集まる中

彼らはどこか誇らしげでした。





中越地震によって仮設住宅に住む人間は多くいたけれど

仮設住宅に住みながら海外やほかの被災地の支援を行ったのは

おそらく彼らが初めてです。





こうして栃尾の被災地からのプレゼントは

IVUSAの学生によって海を超えました。













長かった冬も終わりをつげ、被災地にも春が訪れました。

4月後半、インドでの活動報告をしに、不自然な日焼けをした学生が再び栃尾を訪れました。



住民を集め、感謝状の贈呈などを行ったあと、

大きなスクリーンで映像が流されました。

それはこれまで行ってきた冬の栃尾でも活動と灼熱のインドでの活動で構成されていました。

そこには栃尾の住民から送られた「復興を祈る」という横断幕が掲げられ

寄贈された文房具をもった子供たちの笑顔が映っていました。





その映像を見る住民の方皆が涙を流していました。

栃尾の物語(1) 〜見捨てられた被災地栃尾〜[2010年09月13日(Mon)]
みなさんは覚えていますか。



平成16年10月23日に起きた中越地震のことを。



この時IVUSAは、長岡市、旧中里村、川口町、小千谷市などで

家屋の片づけ、物資の配送、ボランティアセンターの運営など多くの活動を行っていました。



その一方で、

中越地震時に多くのメディアに取り上げられ注目された山古志村に隣接し、

地震の被害が大きかったものの、マスコミが来ることも、ボランティアなど外部の支援が来ることもなかったのが旧栃尾市(現長岡市栃尾地域)です。



そんな「栃尾」をある新聞社は「見捨てられた被災地」と呼びました。





中越地震から一年以上がたった平成17年12月、「栃尾」とIVUSAは出会いました。

この年、被災地を含め新潟県を記録的な大雪が襲いました。

雪の重みで家が倒壊するのを防ぐため、

被災者の多くは壊れかかった自宅と、仮設住宅の除雪作業を行わなければいけませんでした。

この除雪作業で心も体も疲れ切っていたとき、

IVUSAは仮設住宅や集落での除雪ボランティアに訪れていました。



雪の恐ろしさやスコップの使い方を学生に教える住民の方の姿は、

ボランティアをする側、される側、ではなく

立場は違えどともに立ち向かう「仲間」でした。



住民の方からは

「生れて始めて大学生を見た」

「東京で災害が起きたら助けに行くよ」

という声が上がっていた。







ちょうどそのときインドではスマトラ沖で津波が発生し、多くの被害がもたらされていました。



除雪作業をしていく中でIVUSAが3月にスマトラ沖津波に支援でインドで活動を行うことを知った住民の方から

信じられない声が上がりました。









「同じ被災者として何かできることはないか」
栃尾の物語(4)〜ひまわりの種〜[2009年04月06日(Mon)]
二度目の春を迎えた被災地では、道路などの復旧も進んできた。

栃尾の仮設住宅でも自宅を再建できた人など、仮設住宅を離れる人が増えてきた。



そんななか、仮設住宅を訪れると、住民の方からこんな声が聞こえてきた。

仮設を離れる記念と残った人を励ますために、花を植えたいというのである。

「いいですね〜」と私が答えると、住民の方は

「まぁ また学生さんに会うための口実だけどね」と笑った。



こうして、06年5月、再び、IVUSAの学生が訪れ、無機質であった仮設住宅に沢山の花を植えた。

そのなかで、一番多く植えたのが、ひまわりの種であった。

このひまわりにはちょっとした物語がある。



平成7年阪神・淡路大震災が起きた。

瓦礫のまちになった「阪神」に「瓦礫のまちにひまわりを」を合言葉に沢山のひまわりが植えられた。

阪神大震災の仮設住宅などで育ったひまわりの種が、どういうわけだが、栃尾に届いていたのである。



この花を植える活動の頃になると、住民との絆はしっかりしたものになってきた。

仮設住宅の集会場で、連日連夜山菜をつまみながら、地元のお酒を飲み、

住民と学生は泣き、笑い、多くのことを語った。

仮設住宅の集会所でもっとも飲んだのは、栃尾の住民とIVUSAメンバーではないだろうか。



夏になるとひまわりは大輪の花を咲かせ、仮設住宅はにぎやかになった。

その大輪のひまわりの花をみながら、阪神大震災からのひまわりのバトンと次につなげたいと思った。

そこで、住民の方にIVUSAで世田谷の学校などにひまわりの種を寄贈したらどうか、と提案した。



すると、住民の方から、またも驚く返事がきたのである。

「地震では全国からお世話になった。そのお礼で直接渡したい」



そういったわけで、住民有志が直接上京し、ひまわりの種を贈呈することになった。

上京するための車中で、私は住民の方に、「標準語でしゃべってくださいね」とお願いをした。

住民の方は「おおごっつお」(たぶん、大変だという意味)と答えた。



そして、ひまわりの種は、世田谷の小学校などに寄贈され、小学校で課外授業も行ってきた。

ほとんど、上京することもなく、授業を行うことなんて考えられなかった住民の方は、

初めての経験を非常に喜んでいた。



もっとも、私が「いい冥土の土産ができましたね」と言ったら、

誰も笑っていなかったけど。・・・・・・・・・・(続く)

栃尾の物語(3)〜文集の作成〜[2009年04月03日(Fri)]
インドでの活動を報告するために、訪れたのは、震災から一年と半年がたった4月後半であった。

そのため、自宅を再建し、仮設住宅を離れる人も増えてきた。



震災により、仕方なく仮設住宅に入ったのだが、

IVUSAの学生との交流など、楽しい思い出も多くあったようで、

「仮設住宅が無くなるまでここにいたい」という住民が多くいたのには、驚いた。



そこで、住民たちは、記念に文集を作成しようということになっていた。

しかし、高齢者が多い、仮設住宅では、パソコンはおろか、字が書けない人も多くいた。

そこで、4月末に学生が訪れた際に、学生が聞き取りをしようということになった。



マスコミと違い、同じ目線で信頼関係を作ってきた学生相手に、住民は本音で語ってくれた。

こうして、仮設住宅住民の文集は完成した。



当時、仮設住宅の区長であった千野さんの挨拶文を抜粋する。



 「出会いがあれば別れが有る」そんな言葉は私たちには無いような気がする。

お互い励ましあった皆が同じだからだ。

 一緒に屋根の雪下ろしや花植え、住宅団地の草むしりなど

都会の学生とは思えないという住民の声と、

学生さんの次は何処をと、次への指示を求める声、

順調に進む作業と作業中の学生との会話は私たちの後々に語られる。

 とどの森での交流会、ふるさと交流会館での交流会等々、

ひとりひとりのあの時の顔や言葉を懐かしく思う。

 私たちの地域の再発見に栃尾に足を運んでいただき交流を続けてもらいたい気持ちと

ご支援ご協力くださった多くの方々に感謝申し上げます。



仮設住宅団地 区長 千 野 義 夫



(続く・・・・)

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