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平成24年 沖縄戦戦没者遺骨収集調査活動 7[2012年01月31日(Tue)]
平成24年 沖縄戦戦没者遺骨収集調査活動


昼食を終え、すぐに現場へ戻ります。

すると国吉氏が当時の地盤まで掘り下げており、御遺骨を発見したところでした。



そこで国吉氏は「交代しようね。少し休憩するからね。あと掘ってみて。」と言い、そとへ出て行きました。

実は国吉氏は自身が御遺骨を発見するといつも、一緒に活動する内地の人々に経験をさせるために交代して発掘作業をさせ、遠くから時間を割き遺骨収集をおこなう方々に、少しでも経験をさせるように努めてくれるのです。


交代した私はゆっくりと丁寧に掘りだしていきます。

次々に御遺骨がでてきます。


かなり大きな大腿骨。私とほぼ同じくらい(172cm)の当時としては大柄な方の御遺骨。
「もしかすると、アメリカ兵かもしれない」と、国吉氏。



どんどんと御遺骨を掘りだしていくうちに、腕の骨に銃弾が突き刺さった形の御遺骨を発見し、すぐに国吉氏へ報告。

国吉氏は「こんなのは初めてだね。」と、驚いておられました。


御遺骨の左側、木の根っこ(茶色い棒のようなもの)との間に銃弾が。
腕を撃たれ弾が突き刺さったまま亡くなったようだ。
一番左には、手榴弾が見えている。


はじめは一人か二人かと思われましたが、この場所は御遺骨がたくさんでてきます。

掘り下げるうちにだいぶ広くなってきたので、国吉氏も別の場所を掘りにかかります。


腕の御遺骨の上に、別の方の手の御遺骨が重なる。


遺留品も手榴弾のほか小銃弾が多数でてきます。

しかしそのほとんどが腐っており触るとすぐにポッキリと折れてしまいます。

日本軍は終戦間際の鉄不足のころ、鉄より先に真鍮が無くなり、薬莢を真鍮ではなく鉄で造っていたのです。

そんな鉄製の薬莢が長い年月により腐食してしまったのです。

ここには特に鉄製の薬莢が多くありました。

つづく



平成24年 沖縄戦戦没者遺骨収集調査活動 6[2012年01月31日(Tue)]
平成24年 沖縄戦戦没者遺骨収集調査活動


調査活動5日目。

この壕は入って5メートルの地点で右側にも通路があり、そのまま別の出口へと繋がっています。

ここは非常に狭く、一人で這っての作業となります。

まず私はこの部分を掘り下げていきます。

するとすぐに手の指の御遺骨がでてきました。


このような御遺骨がすぐにでてくる。


その後は御遺骨は出てきませんでしたが、私はここであるものを発見しました。

まずは小銃の先につけるキャップ(ベークライト製で、銃を使用しない時に銃口に付けるキャップ)を発見しました。

その場所を重点的に掘り下げると、なんと小銃弾とともに陸軍の戦闘服のボタンや中学生の学生服のボタンが出てきました。

つまり、ここには男子中学生の学徒兵である「鉄血勤皇隊」の少年兵士がいたのです。


見つかった小銃のキャップと中学生のボタン。


沖縄戦では多くの中学生が銃をとり勇敢に戦いました。(というより、「戦わされた」と言ったほうが正しいでしょう・・・)

とにかく、この方々の御遺骨をすべて地上に出して供養しなければいけません。

さらに掘り進むと、手榴弾2個と擲弾筒弾(てきだんとうだん)の信管が出てきました。


でてきた日本軍の手榴弾と擲弾筒弾(てきだんとうだん)の信管。


手榴弾は爆発の危険は少ないのですが信管のほうは現在でも生きており、衝撃を与えると爆発する恐れがありますので、目立つ場所にそっと置きます。(手榴弾もですが・・・)

かつて日本軍の兵士は手榴弾を2個ずつ持っていました。

この2個の手榴弾が「ボタンの持ち主の中学生のものかも・・・」と思うと、本当にやりきれない気持ちになり、67年前にここで起こった悲劇を想像せずにはいられませんでした・・・。


その後この場所もすべて掘り下げましたが、結局はこれ以上何も出ませんでしたので、次に国吉氏がいる最奥部へ移動しますがここも崩落して狭くなっていますので、長い熊手を持ってきて掘らなければならず、入口の付近を掘ることにします。

入口と一番奥をつなぐ急勾配の通路部分は以前国吉氏が調査を完了しているとのことですので、そちらのほうへゴミを落としていき、入口へ向かって掘っていくことにします。

しかし、かなりの時が経ち多くの土砂が流れ込んでいるのと同時に、人の大きさほどの石がたくさん崩れており、作業は困難を極めます。

崩れ方を見ると新しい感じがしたので国吉氏に訊ねると、昨年震度4ほどの地震があり、多くの壕が崩れたとのことです。

今にも崩れそうなところは極力触らないようにします。

ここで今地震がくれば、私たちは生き埋めになってしまいます。

やっとのことで大きな石を通路の下へ落とし、やっと掘り始めることができました。

石を動かし汗を流して息を荒くしている私へ国吉氏が「掘るの、交代しようね」とおっしゃってくださり、私は一度外へ出て休憩することにします。


狭い場所で座り込み、ゴミにかこまれ掘り続ける国吉氏。
そのタフさは、70歳を超えているとは思えない。



階段に使用したと思われる、コンクリートの壁。
上のグリーンのものは、不法投棄されたビニールゴミ。


沖縄のこの日の気温は18度。

外では少し体を動かすと汗ばむ程度の気温であるが、壕の内部はかなり暑いのだが、国吉氏はもくもくと掘り続けます。

私はとりあえず休憩ついでに昼食のおにぎりを食べることにしました。

つづく

平成24年 沖縄戦戦没者遺骨収集調査活動 5[2012年01月31日(Tue)]
平成24年 沖縄戦戦没者遺骨収集調査活動
5


調査活動4日目。

前日までに入口付近の掘削は終わりましたので、この日は残りの壕入口から中へ10メートルの付近までの未調査部分のみです。


ここから約10メートル奥までの未調査部分を掘ります。



入口もだいぶ広くなり、はじめは這って入らなければいけなかったのですが、前日までにすべての土砂を搬出していますので、中腰で入れるようになりました。

この場所もやはり砕け散った御遺骨が多数発見されます。

遺留品は主に破裂した小銃弾の薬莢です。

この薬莢は火炎放射器の火炎により焼かれて、中の火薬が爆発したものです。

この場所の調査も終わり、遺留品と御遺骨、風葬の御遺骨を選別し、となりの壕へ移動することにします。


今度の壕は、先程の壕より100メートルほどジャングルを奥に進んだ場所にあります。

この壕は資料によれば住民が避難していた壕ですが、中は約10メートルの奥行きです。

もちろん軍がダイナマイトで発破し構築した壕ですが、おそらく倉庫代わりに使用していたものを放棄したようで、のちに民間人が避難用に使用していたようです。

中は先程の壕よりも浅いためか、より一層焼かれ方が激しいようでした。


焦げ方が激しい。


国吉氏は以前にこの壕の調査を実施しており、15〜20柱ほどの御遺骨を出されたそうです。

しばらく掘ってみましたが何も出ないため、再び移動することにします。


今度は車で移動し、近くの高峰小学校近くの丘の頂上のジャングルにある壕です。


ジャングルの中にある壕の前でたたずむ、国吉氏。



そこは不法投棄のゴミが溢れている。



この壕は資料によれば「通信隊壕」とあり、国吉氏は15年ほど前にこの壕を調査されており、その際30〜40柱の御遺骨を発見されたそうです。

しかし、これまで多くの壕を調査されているのに、ひとつひとつの壕の場所と内部の構造を憶えておられる国吉氏の記憶力には脱帽です。


とりあえず入口のゴミを出して人が入れるようにし、一番奥まで入ってみます。

中は入ってすぐに急こう配で下っており、約60メートル進むと土砂の崩落により行き止まりになっていました。

国吉氏によれば、その先50メートルほど進むとT字の突き当りになり、左右に出口があるとのことで、左側は墓の中へ入っていくと言います。

この壕は一か所だけ丘のうえにあるため、偵察・通信に使用されたようで、逃げ道もしっかりとつくられています。

ここもまた、艦砲射撃の的になり、火炎戦車に焼かれた場所です。

この日は、入口付近を少し掘り下げ、かたずけました。

翌日は入口付近から掘り下げていきます。

つづく







平成24年 沖縄戦戦没者遺骨収集調査活動 4[2012年01月30日(Mon)]
平成24年 沖縄戦戦没者遺骨収集調査活動


調査活動3日目。

この日も前日に引き続き、入口付近を掘り下げていきます。

相変わらずバラバラになった小さな御遺骨の破片を拾っていく作業が続きます。

そのとき、地元の方が様子を見にやってきました。


様子を見にやってきた、地元の方々


なんでも去年、この場所で遺骨収集をしていた我々とは別のグループが、このあたりで出た御遺骨を勝手に戦没者遺骨として摩文仁の納骨堂へ持って行ってしまい、トラブルになったらしい。

この場所は先にも書いた通り、地元の方々の墓で、日本軍は壕を掘る時に地元の方々の御遺骨を別の場所へ丁重に移動させてから、この場所を壕として使用したらしいのです。

そして戦後65年経ったとき、内地よりやってきた遺骨収集団が、地元の方々の御遺骨をも戦没者の御遺骨として持ち去ったとのことでした。

我々は、粉々になった御遺骨も戦争当時の御遺骨とお墓の御遺骨(風葬の御遺骨)をきっちりと分けていたため、地元の方も納得して帰られました。

このように、遺骨収集をおこなう場合、沖縄の文化だけではなく戦争当時にお亡くなりになった御遺骨か、沖縄の琉球時代からの墓に埋葬されている御遺骨かを見分ける目も必要なのです。

そして風葬の御遺骨は調査が終わったあとには、目立つ雨のかからない場所に、バラバラにならないように一か所にまとめて置いて帰ります。

そうすれば、後日地元の方がちゃんと改めて埋葬してくれるのです。

活動をスムーズにおこなうために大切なのは、地元の方々の信頼を得て協力をしていただくことなのです。


その後調査を続けていると、H氏が壕の入口にほど近いところから、吹き飛ばされていないであろう大きな御遺骨を多数発見しました。

さらにその地点を掘り下げていくと、万年筆のペン先を発見。

この地点を重点的に捜索し、もし万年筆の残りの部分が発見され、それに名前がある場合はDNA鑑定により身元がわかる可能性もありますので、このあたりの御遺骨は他の場所で発見された御遺骨とは一緒にせず、分けて置いておきます。

さらに他の場所では当時のお金とともに民間人の子供のものでしょうか、パイナップル型のキーホルダーかお守り(?)らしきものも発見されました。


菊の紋章がある、大日本硬貨。




ベークライトでできた、パイナップル。
糸を通してぶら下げれるようになっている。



その他、帝国陸軍が兵士に配った官給品の茶碗が割れずにでてきたり、多くの遺留品がでてきましたが、残念ながら個人を特定できるものはありませんでした。


陸軍官給品の茶碗


その後、御遺骨も出なくなりました。

そして入口も当時の地盤まで掘り下げ、この日はかたずけることにしました。


ここまで掘らないと戦争当時の地盤は出てきません。
「平成24年 沖縄戦戦没者遺骨収集調査活動 2」の写真と比べてみてください。
蓄積された土砂の多さがお判りかと思います。


翌日は壕内部の入口付近を掘り下げていくことにします。

つづく





平成24年 沖縄戦戦没者遺骨収集調査活動 3[2012年01月29日(Sun)]
平成24年 沖縄戦戦没者遺骨収集調査活動
3


壕内部の調査を終え、いよいよ壕の入口周辺の調査です。

実は、壕の入口周辺は御遺骨が発見される可能性が非常に高い場所なのです。

特に、壕の前面にある石積みのトーチカ付近は御遺骨が多く、戦闘の激しさを物語っています。


壕の入口付近を当時の地盤まで掘り下げる国吉氏ら




錆びて腐った砲弾




頭上の岩に食い込んだ、砲弾の破片



掘っていくといたるところでバラバラになった御遺骨の破片が見つかります。

この場所は糸満市中程の与座岳の南側で、本島南部より艦砲射撃を受けており、その後、火炎戦車(火炎放射をしながら進み、すべてを焼き尽くして進む戦車)が攻めてきたと聞いていますので、焼かれ方もひどい場所の一つです。

壕では、完全に炭になった御遺骨も多数発見されています。

国吉氏は
「生きたまま火葬されるようなものだ・・・」
と、当時の戦闘の激しさと戦争の残酷さを語っておられました。

とにかくこの場所は御遺骨が粉砕されており、ひとつひとつふるいにかけるように破片を探していきます。

おそらく、殺された御遺体の上からさらに砲撃され、木端微塵にされたようです。

周囲の石積みもところどころ吹き飛んでいました。


発見した歯と御遺骨の破片(歯のまわりにたくさんあるのが、おわかりでしょうか)
多くの御遺骨もこれより少し大きい程のものばかりであった




だいぶ掘り下げました。
周囲すべてを約1メートルの当時の地盤の深さまで掘ります。



多くが細かく粉砕されてしまっているので、1センチ以上のものだけを収容していくことにします。

会員のO氏は歯科医で、歯を見てだいたいの年齢がわかるので発見した歯を見ていただきます。

「これは歯石の付き方や虫歯から、老人ですね。こちらの歯は、まだ子供です。」

おそらくこの壕では軍に追い出されたか、軍に助けを求めにきたが壕に入れてもらえなかったであろう人々が、砲撃により死亡したのではないか、と推測されます。
(それがおそらく間違いないであろうものが、3日目に発見されます)


延々と地道な作業が続き、2日目の作業も終わりました。

つづきは翌日におこなうことにします。

つづく



平成24年 沖縄戦戦没者遺骨収集調査活動 2[2012年01月28日(Sat)]
平成24年 沖縄戦戦没者遺骨収集調査活動
2


活動2日目。

この日は会員のO氏も兵庫県より活動に参加し、国吉氏と青森よりお越のH氏ご夫妻と調査をおこないました。

場所は糸満市の大里というところで、資料によると壕の名称は「佐々木隊の壕」という軍構築の人工壕と推測されます。


まずは壕内部へと足を踏み入れます。

入口は埋没しており非常に狭く、まずは道具類を奥に投げてから這って入ります。



入口。土砂が蓄積し、かなり狭い。




這って壕に入る、国吉氏。



いったん内部に入ると少し広くなっており、そのまま奥にまっすぐ入っていきます。

途中1か所だけ崩落により這って入らなければいけませんが、すぐに立って歩けるようになります。

この壕も火炎放射器で焼かれており、壁や天井は真黒です。

20メートルほどまっすぐ進むと右に曲がっており、そのあとまた20メートルほどまっすぐ進むと三差路になり、どちらに進んでも10メートルほどで行き止まりになります。

一番奥まできれいに焼き尽くされています。


一番奥。真っ黒に焼かれている。


この壕はかねてより国吉氏が調査を手掛けており、これまでに数十体もの日本兵の御遺骨を収容されているとのことで、この日の調査は最終段階ということになります。


一番奥を調査する、国吉氏とH氏。



この壕は墓をそのまま利用しくり抜いており、一番奥になる場所は、入口から南に20メートルほどの場所にある墓の中です。

上の写真のブロック塀は、墓の入り口を戦後塞いだものです。

これまでに出土した遺留品が、この壕で67年前に起こった事を物語っているようです。


日本軍が残した多数の小銃弾や手榴弾などの遺留品。



しばらく調査し何も出なかったので、内部は終了とし、外の入口周辺と埋没した入口付近の調査をすることにし、一同は壕の外にでました。

余談ではありますが、私はこの壕で生れて初めて「ひかりごけ」を見ました。

つづく




平成24年 沖縄戦戦没者遺骨収集調査活動 1[2012年01月28日(Sat)]
平成24年 沖縄戦戦没者遺骨収集調査活動


去る平成24年1月21日から26日まで、沖縄県糸満市で沖縄戦戦没者遺骨収集調査活動を実施いたしました。

今回は本会会員と共にいつものように那覇市の国吉勇氏と、青森県よりお越のH氏ご夫妻も同行しお世話になりました。

H氏ご夫妻は毎年沖縄県に1カ月程滞在し活動しており、10年以上の経験を持つベテランで、私たちもさまざまな分野でご指導いただき、大変お世話になりました。

今回、第1日目は私1人で糸満市摩文仁にある「健児の塔」周辺を調査し、「南冥の塔」横の壕で手で少し土をどけるだけで御遺骨を発見しました。

実はこの場所は慰霊碑が多数建ち普通に戦跡公園となっており、一般の方も訪れる場所ですが、このように沖縄ではごく普通にどこにでも御遺骨が埋もれており、放置されたままとなっているのが現状なのです。

この下にある摩文仁海岸には、現在も砂浜を掘るだけでも御遺骨が出てくると言われております。



「南冥の塔」横の壕





発見した御遺骨


このあたりは縄文遺跡や国定公園に指定されている場所が多数あるため、掘削調査するには注意が必要です。

発見した御遺骨はすぐ近くの平和祈念公園内にある「戦没者遺骨収集情報センター」にお持ちいたしました。



その後、少し時間がありましたので、32軍司令部壕(牛島中将の写真が飾られてありますが、お分かりでしょうか?)や鉄血勤皇隊の御遺骨が納められている納骨堂(健児の塔の地下)へお参りしました。


32軍司令本部壕
(牛島中将、長参謀長自決の地)





健児の塔





鉄血勤皇隊納骨堂



2日目は、神戸から来る会員のO氏と国吉氏、H氏ご夫妻と共に調査活動をおこないます。

つづく

あけましておめでとうございます[2012年01月02日(Mon)]
2012年もよろしくお願い致します


あけましておめでとうございます。

本年も皆様のご多幸をお祈り申し上げます。


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