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平成28年 沖縄遺骨収集活動[2016年02月20日(Sat)]
今年の沖縄での遺骨収集活動の記事を、本会Facebookページに掲載いたしました。
よろしければご覧ください。 進まぬ遺骨収集[2014年06月24日(Tue)]
進まぬ遺骨収集 今日の産経新聞にこんな記事が載っています。 終戦から69年。 あまりにも遅い対応です…。 今を生きる未来の私達の為、捨て石となり散華された方々を今の今まで放置するような国が、果たして良い国でしょうか? あの戦争は日本の総力戦でした。 そんな大変な戦をした国は、そんな大変な目にあわせた人々のご遺骨をほったらかしにしてきたのです。 結局政府は収集はボランティアに任せて、自分たちは「海自が行くついでがあるから運搬だけはする」ってことですかね…? おかしな話ですよね… ◆産経新聞より◆ 『自、収集遺骨を日本へ 9、 10月 ガダルカナル島から』 産経新聞 6月24日 7時55分配信 海上自衛隊が、 政府が戦没者慰霊事業として実施している遺骨収集事業に初めて協力する方向で調整を進めていることが23日、分かった。 遠洋練習航海に出ている部隊が9、10月、先の大戦の激戦地だったソロモン諸島のガダルカナル島から日本に遺骨を輸送す る計画で、遺骨収集事業に政府全体で積極的に取り組んでいる姿勢を示す。 海外戦没者の遺骨収集作業は昭和27年度に開始。 これまでに海外戦没者約240万人のうち約127万柱を収容している。 だが、遺骨情報が少なくなってきているフィリピンやインドネシアなどの南方地域では収容が進んでおらず、平成18年度以降は民間団体の協力を得ながら収集作業を実施している。 一方、海自は幹部候補生学校を卒業した初級幹部らを対象にした半年間程度の遠洋練習航海を毎年行っている。 今年は練習艦「かしま」など3隻が5月に日本を出国。 太平洋を周回する形で米国やパナマ、オーストラリアなど13カ国に寄港し、10月24日に帰国する予定だ。 練習航海では9月19、20両日にガダルカナル島のホニアラに立ち寄る予定で、政府や民間団体が同所で遺骨収集事業を実施する時期と重なったため、海自艦艇で集めた遺骨を日本まで運ぶ計画が浮上した。 政府内の調整で、防衛省は「協力できることは協力したい」と前向きな意向を示している。 自民党は遺骨収集事業を「国の責務」と位置づけ、外務省や防衛省の協力義務を定める議員立法を秋の臨時国会に提出する方針で、今回の海自の協力をモデルケースとしたい考えだ。 ガダルカナル島では、先の大戦で米軍と激戦を繰り広げた旧日本軍の2万人以上が戦死した。政府は昭和29年度以降、約1万5千柱を収容している。 沖縄慰霊の日[2014年06月23日(Mon)]
沖縄慰霊の日 今日6月23日は沖縄戦で犠牲となられた方々を慰霊する日です。 美しい海や観光だけではなく、若い方にもっと沖縄の歴史をしっかりと見つめていただき、命と平和の尊さ、そして、戦争の恐ろしさと愚かさを考えていただきたいと思います。 毎日新聞より記事を転載します。 ご覧ください。 <沖縄慰霊の日>69年経て死 の証明 戦没者礎に刻銘 毎日新聞 6月22日 23時17分配信 沖縄戦の戦没者名を刻む沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の「平和の礎(いしじ)」には今年、54人が新たに刻銘された。 その中の一人、仲村貞雄さんは戸籍上、行方不明扱いになっていたが、東京に住むおいの会社社長、仲村重信さん(39)が 死亡証明に奔走。 戦後69年たってようやく刻銘を果たした。 重信さんは「慰霊の日」の23日、伯父の名を見届けに親戚と礎を訪れる。 貞雄さんは沖縄本島北西部の本部(もとぶ)町出身。 親戚らによると、1945年4月、町内の自宅敷地内の壕(ごう)を出た後、米兵に見つかって銃殺されたという。 16歳だった。 戸籍は戦火で消失。 仲村家には貞雄さんの位牌(いはい)があるが、戦後戸籍を復元する際に貞雄さんが亡くなったという情報が伝えられず、行方不明扱いになっていたとい う。 2年前のお盆に帰省した際、そのことを知った重信さんは「亡くなったのに戸籍が残っているなんて本人も嫌なはず」と伯父の死亡の立証に乗り出した。 2カ月に1回のペース で沖縄を訪れ、伯父の生家周辺の住民から貞雄さんが亡くなったという 証言を得たり、親族の戸籍を取ったりして、昨年9月に死亡届が受理された。 重信さんは「ようやく伯父の供養ができた。天国で喜んでくれているでしょう」と話した。 一方、資料集めの過程で他の親戚についても二重戸籍などの不備が見つかったといい 「戦後の混乱で情報が錯綜(さくそ う)し、伯父や親戚と同様のケースは少なくないと思う。その整理は我々の世代がするべき戦後処理だ」 と話した。 沖縄戦戦没者を巡っては戦中戦後の混乱による戸籍焼失や死亡証明がないなどで平和の礎に刻銘されていない例があり、遺族の申請などがあれば追加で刻銘している。 また、遺族の希望で削除される刻銘もある。 【福永方人】 代表が変わりました[2014年06月08日(Sun)]
代表が変わりました こんにちは。「戦没者慰霊の会ひょうご」の楠田です。 いつも私たち「戦没者慰霊の会ひょうご」を応援してくださり、誠にありがとうございます。 この度、本日6月8日付を持ちまして人事の変更を行いましたので、関係各位にお知らせ申し上げます。 ・・・・・・・・・・・・・ 新理事長・中村尚司 名誉理事・楠田誠一郎 ・・・・・・・・・・・・・ 今後はより多くの方々に沖縄の実状をお伝えするために、さらに若い力が必要です。 そこで今後は新理事長として中村尚司氏を迎え、私はグループ運営の第一線から退いてサポート役にまわり、若い方による新しい「戦没者慰霊の会ひょうご」を運営していただくこととなりました。 今後とも新理事長ならびに「戦没者慰霊の会ひょうご」をよろしくお願い申し上げます。 三周年 ありがとうございます[2014年06月01日(Sun)]
三周年、ありがとうございます 本会は6月1日をもちまして、おかげさまで三周年を迎えることができました。 これも会員の皆様をはじめ、ご協力くださいました皆様のおかげです。 今後も会員共々微力ではありますが遺骨収集をはじめ、命と平和の尊さを広く伝えていきたいと思います。 これからも、私たち「戦没者慰霊の会ひょうご」をよろしくお願いいたします。 昨日の夕刊より[2014年04月09日(Wed)]
昨日の夕刊より 昨日の夕刊記事より 「中川清」さんは誰? [2014年4月8日16時0分] 太平洋戦争中に地上戦が展開された沖縄県糸満市の壕(ごう)で昨年、「中川清」という名前が刻まれた万年筆が見つかった。 兵士が持っていたとみられ、国などが所有者を捜しているが、手掛かりが乏しく難航している。 万年筆は長さ約10センチで黒色。 握る部分に名前が彫られ、ペン先は失われている。 戦没者の遺骨収集に取り組む兵庫のボランティア団体「戦没者慰霊の会 ひょうご」が昨年2月に発見した。 「慰霊の会」によると、見つかった壕は、旧日本陸軍の独立歩兵第2 1大隊、第23大隊が通過した記録が残っているという。 両隊に「中川 清」という名の兵士が所属したこと は確認されていないが、厚生労働省は沖縄戦に参加した同名の人物の本籍地が石川、福井、三重、滋賀、京都の5府県にあることを確認、各府 県に調査を依頼した。 しかし、該当する人物が死亡していたり、親族が万年筆の存在を覚えていなかったりするなど、持ち主につながる情報は得られていない。 厚労省の担当者は「万年筆は(関係者の名前が書かれることの多い)日章旗より持ち主の特定が難しい」と指摘する。 「慰霊の会」の楠田誠一郎代表は「少しでも心当たりのある方に連絡してもらいたい。持ち主が確認できれば返還したい」と話している。 (共同) 会員の声[2014年03月20日(Thu)]
会員の声 今回も活動にご参加いただいた大阪府の中村尚司さんは大阪府立高校の教員で、本会が以前一般募集で参加者を募って活動したとき初めて遺骨収集活動をおこない、沖縄の現実を目の当たりにし、それ以来この活動を熱心に続けるとともに、インターネットを通じてこれらの現実を多方面にわたり発信してくれています。 そして職場の学校でも沖縄の現実や戦争の愚かさを生徒と話し合い、命の尊さを生徒とともに考え伝えてくれている、本会では最も古く熱心で有望なメンバーのひとりです。 活動の最中は真剣な眼差しで黙々と掘り続ける一方、結構おちゃめな一面もあり、周りを明るくしてくれるムードメーカーでもあります。 そんな中村さんより、今回の活動のご感想をいただきました。 「遺骨収集は今回で三回目になりますが、続けていくこととこの現状を伝えていかなければならないと思いました。 自分は初めて参加するまでは、沖縄戦と今の現状について全然しりませんでした。参加してみて、あまりにも知らない自分が恥ずかしくなりました。また、沖縄戦はもう歴史のもの。遠い過去だと感じていました。 若い世代は風化していると思います。戦争を体験していない若い世代がしっかりと引き継がなければなりません。だからこの活動を続けていく必要があると考えました。 毎回参加していつも思うことは、遺骨が見つかったとき、明るい場所にでてこられて本当に良かったなと思います。 この体験を日常の生活に戻っても、忘れずに伝えていきたいです。 中村 尚司」 壕内部から出た余分な土を、すさまじい馬力で掘り返す中村さん 中村さん、至らぬ点も多いかとは思いますが、懲りずにまた一緒に頑張っていきましょうね。本当にありがとうございました。そして、おつかれさまでした。 重要なお知らせ[2014年03月20日(Thu)]
重要なお知らせ ホームページ閉鎖のお知らせ このたび移転のため、ホームページを閉鎖いたしました。 今後必要事項はこのブログ「命と平和を考える」内でお知らせいたします。 また、会員様へのお知らせは、このブログ「命と平和を考える」内の「会員様へのお知らせ」カテゴリへ掲載いたします。 Eメールアドレス変更のお知らせ 今回の移転に伴いEメールアドレスを変更いたしましたので、今後は新しいEメールアドレスへご連絡をお願いいたします。 新しいEメールアドレス irei.ikotsu@gmail.com 会報「国の宝」休刊のお知らせ また、上記の諸事情により、会報「国の宝」を休刊させていただきます。 口座閉鎖のお知らせ 上記の諸事情により、郵便振替口座を一旦閉鎖いたしましたので、お振込をなされないようにご注意ください。 会員の皆様および関係者様にはご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解とご協力をよろしくお願いいたします。 平成26年 沖縄戦戦没者遺骨収集活動 3[2014年03月20日(Thu)]
平成26年 沖縄戦戦没者遺骨収集活動 3 活動3日目。 この日は糸満市真栄里の陣地跡へ向かいます。 途中、「白梅の塔」横にある自然壕を見学し、ご一緒してくださる浜田さんご夫妻が「白梅学徒隊」について解説してくださりました。 「白梅学徒隊」とは、皆様ご存じの「ひめゆり学徒隊」と同じく女学生による看護隊ですが、「ひめゆり学徒隊」とは違って一般にはなじみがない方も多いかと思います。 「ひめゆり学徒隊」は何度も映画にもドラマにもなりましたが、ではなぜ「白梅学徒隊」の知名度は一般に低いのでしょうか? それは、「ひめゆり学徒隊」の学生たちは師範学校出身でしたが、「白梅学徒隊」などその他(積徳女学校など、看護隊として学徒動員した学生部隊は数多くあります)の学生たちはみな同じ働きをしたにも関わらず、普通の女学生たちということだけで戦後の扱いまでもが師範学校出身者である「ひめゆり学徒隊」出身者とは違ったのです。 戦後は「ひめゆり学徒隊」と違い大きく報道されることも少なく、慰霊碑建立の際も一般や法人から思うように寄付が集まらず、関係者が出し合って慰霊碑を建立したとのことです。 過去には沖縄戦で犠牲になられた女子看護隊全体の慰霊碑建立や慰霊祭の計画もあったようですが、「ひめゆり学徒隊」関係者が「師範学校出身者を一般の女学生や沖縄以外から来た女学生と同じ扱いにすることは遺憾である」として、この計画はお流れになってしまったという話もあるようです。 政府の命令によりみな同じように過酷な任務を遂行したにもかかわらず、そういった身分の違いを現在もなお引きずり、さらには差別化を図ろうとする人々も多く存在しているのです。 非常に残念なことではありますが、戦争を知らない私たちには到底理解できないことがあるのかもしれません・・・。 「白梅の塔」。この横に「白梅学徒隊」が任務を遂行した病院壕がある。 米軍の馬乗り攻撃により多くの尊い命が犠牲となった。 浜田さんに当時の状況などの説明をしていただいた。 中に入ると拝所があり、全員で戦没者に感謝と哀悼を祈った。 中は広い。ここも内部が焼かれて黒こげの状態だ。 このあと私たちは糸満市真栄里へ場所を移し活動をおこないました。 この場所は摩文仁の陸軍司令部に近く、沖縄戦末期に大激戦が繰り広げられた場所です。 私たちが向かった場所は小高い山の頂上付近で、頂上からは360度見渡すことができる場所です。 すべてが見渡せる場所ということは、米軍もこの場所を陥落することが必須であることは言うまでもありません。 しかしそのことが意味することは、日本軍の激しい抵抗に合うということです。 海側の山の中腹にある陣地跡。 艦砲の標的となったのは言うまでもない。 もちろん海に近いので、軍艦からの艦砲射撃も容易であり、私たちが活動したこの場所では艦砲射撃をもろに受けたであろうバラバラになった御遺骨が多数発見されました。 小雨が降る中、黙々と掘り続けるメンバー。 数日前、この場所では浜田さんが顔面の御遺骨を発見しました。 この御遺骨は顔部分だけが上を向いた状態で地表に出ていたと言います。 戦後69年もの間、誰からも忘れられ放置されていたその姿を見たときは、本当に申し訳なく思い、胸が熱くなりました。 69年間もの間、何を思って空を見つめていたのか・・・ このあと次々に残骨(破片)が発見され、初めて参加したメンバーも骨の見分け方がだいぶ判ってくるようになりました。 この日が活動最終日ということもあり、この後、摩文仁の平和祈念公園内にある「戦没者遺骨収集情報センター」へ移動し、慰霊祭をおこないました。 全員で御遺骨を並べていく。 今回発見した御遺骨 一人ずつ線香を手向ける 通りすがりの観光客も手を合わせてくれた 今回も無事に事故なく終了できました。 お世話になった国吉勇さんをはじめ、浜田さんご夫妻、西谷さん、又吉さん、そして何より一生懸命取り組んでいただいたメンバーのみなさんに心より感謝いたします。 本当にありがとうございました。 そして、本当にお疲れさまでした。 このブログをご覧の皆様にお願いです。 ここに記したことは、現在の沖縄での現実です。 このことを一人でも多くの方々に知っていただくために、このブログを知人の方に教えて差し上げてください。 また、お世話になっている浜田さんご夫妻のブログにも、詳しく紹介されておりますのでそちらのほうも是非ごらんください。 平成26年 沖縄戦戦没者遺骨収集活動 2[2014年03月01日(Sat)]
平成26年 沖縄戦戦没者遺骨収集活動 2 活動2日目。 前日と同様、この日も浦添市経塚の軍構築の人工壕で活動をおこないました。 前日に要領を掴んだ女性陣が一番奥を掘り進んで行きます。 掘りやすい土質のため、女性でも容易に作業できる。 女性陣がどんどんと掘ったこれらの土は作業の妨げとなるため、当然外まで運び出さなければいけません。 実はこれが一番大変な作業で、長年に渡り積もった土の量はとんでもない量になります。 そこで力が強い男性陣でバケツリレーをして、邪魔になるすべての土を外に運び出していきます。 力をあわせて、バケツリレー! このような地道で過酷な作業が数時間続き、みんながへとへとになっていたとき、奥で作業をしている女性陣から「何か出てきました!!」との声が。 すぐに中へ入って確認します。 すると小銃弾の塊とともに、何やらレンズらしき物が。 掘りだしてみると、2枚のガラスを貼り合せたもので、どうやら合わせガラスになっています。 そのほか、急造爆雷か何かの一部のようなものや、腐食した革製品などの遺留品が次々と掘りだされていきます。 その中でも非常に珍しいのは、防毒マスクの防毒吸収管です。 防毒吸収管自体はこれまでも各所でたくさん出てきていますが、そのほとんどが湿気などで腐食しており、原形をとどめていません。 ところが今回発見した吸収管は、きれいに原形を保っているだけではなく、当時の塗装(帝国陸軍の国防色)もほとんど残っており、昭和15年製を意味する「昭和15」の刻印やその他の刻印まではっきり残っている完品です。 これには沖縄戦遺骨収集の第一人者である国吉勇さんも「長い間遺骨収集をして吸収管はたくさんあるけど、こんなに状態の良いものは初めて見たね」と驚かれました。 2枚のガラスを貼り合わせた「合わせガラス」らしい。 長い間土の中に埋もれていたせいか、2枚のガラスの隙間には汚れが。 火薬?なのか何なのかよくわからないが、割ってみるとタールのように柔らかく、重油のような匂いがした。 「昭和.15」の刻印 多くの遺留品を発見した吉田さんは、本会では最も長いベテラン会員だ。 その後も奥まで掘り進み一番奥まで到達しましたが、ここでは遺留品以外は発見できませんでした。 このように過酷な作業の結果一片の御遺骨も発見できない場合もありますが、御遺骨が発見されなかったということは、この場所ではどなたもお亡くなりになっていないということですので、それはそれで喜ばしいことであると、参加者一同ホッと胸を撫で下ろしました。 こうして一つ一つの壕を掘りつづけ、遺留品さえもまったく出てこないこともありますが、こうした地道な活動により、一柱でも多くの御遺骨を発見できるように、私たちボランティアは微力ではありますが毎年頑張っています。 翌日活動最終日は場所を変えて、糸満市真栄里へ出かけたいと思います。 つづく
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