神秘的なものを信じる人と、一方ではそんな非科学的なものは一切認めないとする人がいる。科学的に証明出来ないものは、真実ではないとする考え方は社会一般の良識として定着している。確かに、実際に明らかな物証がなければ、そんなことはあり得ないこととする認識論的な人は、この社会では大多数であろう。元々神秘性を信じる人は、マイノリティであった。しかし今、神秘性に憧れを抱く人間がかなり増えているように感じる。シンクロニシティ(共時性)を信じている人も増えたし、過去世や前世を信じている人も増大しているという。さらには、霊の存在ばかりか神の存在さえもごく普通に信じる人間も少なくないらしい。TVや雑誌でも、神秘性を扱った番組や特集が組まれていることもあり、今ではこの社会でも市民権を得たような気がする。
さて、どうしてこんなにも神秘性への憧れを持つ人が増えたのであろうか。いろんな見方はあろうが、ひとつには考え方に多様性を持つ人が増えたということも言える。けれども、もう一つの見方として現状に満足出来ずに何らかの救いを求めている人が沢山いるということも言えよう。つまり、職場や家庭、地域において評価されず、求められず愛されず冷遇され、生きていることに喜びを見出せない人々が沢山いるということだと思われる。そして、それらの人々はその原因が社会にこそ問題があると思い、自分の努力では如何ともし難いと考えているのではないだろうか。だから、自分ではどうしようもないという無力感から、神秘的なものに救いを求めていると思われる。
このような社会に対する閉塞感を感じた多くの人々が、神秘性に救いを求めた過去の事例がある。あの世間を騒がした何とか真理教の事件である。信徒になった多くの若者は、教祖の説法に狂信し、起こした奇跡に狂喜した。教祖のあまりにも神秘的な行動に熱狂したのである。そして、多くの若者はすっかり騙されて、凶悪犯罪まで起こしてしまったのである。どうしてあんなにも簡単に教祖を信じてしまったのかというと、やはり多くの若者が社会に対する閉塞感を抱えていて、現世に対する厭世観を持ったからではなかろうか。まさに、末法思想をそのまま信じて、教祖が説くままに反社会的行動に出てしまったと見ることも出来よう。現在の神秘性に対する憧れブームも、あの教祖が説いた神秘的な説法と基本的には同じだと言えはしまいか。だとすると、かなり危険なものだと言えよう。
何某真理教に狂信してしまった若者たちは、どちらかというと教養が高く知能も高い。しかしながら、彼らはこの世に対して生きづらさを抱えていたのは間違いないだろう。社会から正当な評価を受けられず、阻害されたり疎まれたりして、行き場を失った若者が、唯一受け入れられ活躍出来る場があの上九一色村だったのではなかろうか。現在、神秘性に救いを求める人々が、同じようにこの世に対する閉塞感を持ち、生きづらさを抱えているとすれば、彼らと同じ道を歩みはしないかと心配になる。神秘的なものをすべて否定するものではないが、盲信することは危険である。現世を見限った原理主義者が、来世に望みをかけて自爆テロリストになる例も多い。第2第3のカルト教団が出てこないとも限らない。
神秘的なものを狂信している人々は、自分たちはアセンションしつつあると信じ込み、他の多くの人々は救われないと思っているらしい。自分たちは、信じているから次元上昇して救われると本気で信じている。でも、よく考えてみてほしい。もし、神という存在があるとしたら、人々を救われる人と救われない人とに分断するようなことをするだろうか。神や宇宙意思、もしくはサムシンググレートと呼ばれるような存在は、人々をそんなふうに区分けすることをけっして好まない。何故なら、この世に存在する生き物も含めたすべての物質は、関係性によって存在しうるのであるし、常に全体最適を目指すようになっているのである。このシステム思考から外れて、一部の人間だけを救うなんてことを『神』が認める筈がないのである。
神秘性に憧れることはけっして悪いことではない。しかし、オカルト教団や宗教の原理主義者のように、神秘的なものだけを狂信して、現実に眼を背けるようなことをすべきではない。満たされない自分の現実を憂い、その原因を社会の制度や組織だけに押し付けて、自分の至らなさを反省しないという態度は頂けない。自らの自己を深く省みて、自我から自己への変革を自らの努力により実現させようとする意識が大切ではないだろうか。そのような自己マスタリーを実現させてこそ、真の神秘性を理解できるのであるし、後の人生において神秘的で不思議な出会いや出来事に遭遇することになるのだ。自分の努力なしに、神秘性だけで救われたり社会変革が適ったりすることは、けっしてありえないことを認識すべきだろう。神秘性を、一時手放す勇気を持ちたいものである。