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縄文人は山登りをしていた! [2025年03月17日(Mon)]
https://ischia.ciao.jp/2025/03/17/%e7%b8%84%e6%96%87%e4%ba%ba%e3%81%af%e5%b1%b1%e7%99%bb%e3%82%8a%e3%82%92%e3%81%97%e3%81%a6%e3%81%84%e3%81%9f%ef%bc%81/
縄文人の暮らしぶりと言うのは、SDG'sの理想とも言える生活であり、現代人にも見習うべき点が多々あります。そんな縄文人が盛んに山登りをしていたというのですから、驚きです。どうして山登りをしていたのでしょうか?
どうして人はトラウマを抱えてしまうのか [2023年12月06日(Wed)]
https://ischia.ciao.jp/2023/12/06/%e3%81%a9%e3%81%86%e3%81%97%e3%81%a6%e4%ba%ba%e3%81%af%e3%83%88%e3%83%a9%e3%82%a6%e3%83%9e%e3%82%92%e6%8a%b1%e3%81%88%e3%81%a6%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%86%e3%81%ae%e3%81%8b/
あまりにも悲惨で辛くて、自分ではどうしようもない出来事に遭うと、人はトラウマを抱えてしまうものです。このトラウマはずっと苦しめることになります。PTSDやパニック障害などのメンタル障害にもなるケースもあります。ところで、同じ目に遭ってもトラウマを抱えてしまう人と、トラウマに全くならない人がいます。その違いはどこから来るのでしょうか?
滝ヒーリング(魂の浄化)が起きた瞬間 [2023年09月16日(Sat)]
http://ischia.ciao.jp/2023/09/16/%e6%bb%9d%e3%83%92%e3%83%bc%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%82%b0%e9%ad%82%e3%81%ae%e6%b5%84%e5%8c%96%e3%81%8c%e8%b5%b7%e3%81%8d%e3%81%9f%e7%9e%ac%e9%96%93/
イスキアの郷しらかわの見学・研修会に参加された方々を滝ツアーにお連れしまた。次から次へと不思議な出来事が起こり、滝ヒーリングと魂の浄化が実現しました。
瀧と龍と私(自分) [2023年07月26日(Wed)]
http://ischia.ciao.jp/2023/07/26/%e6%bb%9d%e3%81%a8%e9%be%8d%e3%81%a8%e7%a7%81%ef%bc%88%e8%87%aa%e5%88%86%ef%bc%89/
瀧を巡って龍と出会うためには、純真無垢で豊かな感受性や想像力が必要かもしれません。もし、それらが備わっていなければ、ピュアな感性とイマジネーションを持つガイド役が同行することが求められます。
Awe体験に最適なのは滝めぐりツアー [2023年07月15日(Sat)]
http://ischia.ciao.jp/2023/07/15/awe%e4%bd%93%e9%a8%93%e3%81%ab%e6%9c%80%e9%81%a9%e3%81%aa%e6%bb%9d%e3%82%81%e3%81%90%e3%82%8a%e3%83%84%e3%82%a2%e3%83%bc/
Awe(オウ)体験が、人間形成・進化のためには必要不可欠だということが解明されました。そのAwe体験が気軽にできる方法はないかと探しましたら、絶好のAwe体験がありました。それは、滝めぐりツアーです。
Awe体験が人間の正しい生き方を導く [2023年07月09日(Sun)]
http://ischia.ciao.jp/2023/07/09/awe%e4%bd%93%e9%a8%93%e3%81%8c%e4%ba%ba%e9%96%93%e3%81%ae%e6%ad%a3%e3%81%97%e3%81%84%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%96%b9%e3%82%92%e5%b0%8e%e3%81%8f/
Awe体験(オウたいけん)が身体的・精神的に健康にしてくれますし、エゴ心を切り捨てて利他心を高めてくれることが科学的に証明されつつあります。つまり、Awe体験を頻繁にすると、人間性や社会性を高めてくれるのです。
#Awe体験
#オウ体験
#センスオブワンダー
#自然体験
コロナによる自宅待機でDVが増加? [2020年04月04日(Sat)]
新型コロナウィルス感染症の影響で自宅待機する父親(夫)が、DVをしてしまう家庭が増えているそうです。外出制限でも、車で自然のフィールドに出掛けるのはOKにすべきです。子どもたちだって、公園に行くのはOKだと厚労省が認めているんですから。
http://ischia.ciao.jp/2020/04/04/コロナによる自宅待機で%ef%bd%84%ef%bd%96が増加%ef%bc%9f/
ゴルフ場は本当に自然破壊なのか? [2016年08月04日(Thu)]
 ゴルフは自然を破壊し環境に負荷をかけているのだから、すぐに止めなさいよと先日忠告してくれる友人がいた。常日頃FBにゴルフの記事をアップしているのを見て、苦々しく思っていたに違いない。彼は地元で環境保護活動をしている見識の高い人だ。実は私も同じくゴルフが環境破壊をしていると思っていた。だから登山を25年前に始めてからは、どうしても避けられない場合を除いて、ゴルフから遠ざかっていたのである。ビジネス上の付き合いでどうしても避けられない場合だけラウンドしていた。しかし、4年前からゴルフを本格的に再開した。その頃ゴルフを始めたwifeから誘われたからという理由と、自分自身の心境の変化からである。

 ゴルフ場の開発は自然破壊であり、その運営が環境に負荷をかけるというゴルフを続ける後ろめたさを少なからず感じていた。登山を始めた頃には、山に登る度に森林の中にどーんとゴルフ場があるのを見るのがつらかった。青々しく雑草ひとつない芝生は、相当に多くの農薬を使っているのだろうと想像できた。ゴルフ場で働くキャディーさんたちの農薬被害が酷いらしいという、まことしやかな噂もあった。ゴルフは自然破壊の最たるものだという定説は間違いないと思い込んでいたのである。環境保護活動をしている人たちから見たら、ゴルフほど自然を破壊しているものはないと思い、目の敵にしているのも当然であろう。しかし、本当にゴルフは環境や自然を破壊する最悪のものであろうか。そんな疑問を感じたので、公平な目で科学的に検証してみることにした。

 田舎の山林を切り倒して開発されるゴルフ場は、森林破壊と呼ばれても仕方ない。しかし、現在はそんなゴルフ場開発は行われなくなった。ましてや日本で自然保護のために残したい森林は、田舎の山林ではなくてブナなどの広葉樹の自然林である。そんな奥地の自然林をゴルフ場にする計画は絶対にあり得ない。ゴルフ場が展開されるのは、いわゆる里山である。片田舎もしくは都会周辺の里山は、現状どうなっているかというと、殆ど管理されていない。ごく一部を除いて、里山は荒れ放題になっている。ゴルフ場では、その里山が残っているし、しっかり管理されている。しかも、樹木は健康な状態にあるし、芝生も美しい。荒れている里山とは対照的である。

 ゴルフ場にある林には、動植物の多様性が存在する。荒れ放題の里山とは違い、鳥や小動物、そして今は貴重になってしまった植物が豊富に残っている。ゴルフ場に行ったことがない人には解らないだろうが、春から初夏はウグイスやホトトギスの鳴き声が響いている。珍しい植物の花々が咲き誇り、蝶が舞う。農薬が過剰に使用されているのであれば、こんな状況にある訳がない。また、昔は見かけなかったミミズが芝生の上に顔を出す。地中にミミズがいるということは、農薬が少ないという証拠であるし、芝生の中に縦横無尽にミミズが通った穴があるので、降った雨水の水はけがよいので自然の保全に役立っている。

 都会はコンクリートで地表が覆われているので、降った雨などの浸透が出来ない為に、すぐに溢水が起きてしまう。コンクリートの地表で飲み込まれない水は、都会においては低い土地に集まってしまう。ゲリラ豪雨は、洪水を起こすことが多い。都会の近郊にゴルフ場があると、雨水を芝や土の表土から浸透させてくれるし、調整池が水を溜めてくれる。田んぼや畑のような、水の調整機能を持つのである。ましてや、コンクリートの建物やエアコン稼働が原因の都会におけるゲリラ豪雨をゴルフ場は防いでくれる。さらには、何か巨大な災害が起きたときに避難地としての機能も果たしてくれる、有難い存在でもある。豊かな植物や森林が光合成をして、二酸化炭素から新鮮な酸素に変えてくれる。地球温暖化防止に役立っている。

 これから乱開発などによりゴルフ場が出来るようなことはないだろうが、自然を破壊するような新たなゴルフ場開発は困る。しかし、現在稼働しているゴルフ場は、自然保護や災害防止に寄与しているのだから、何とか残したいものである。もし、ゴルフ場が経営難になって放棄されたら、自然は荒れてしまうし折角の豊かな自然がなくなってしまう。都会近くのゴルフ場が閉鎖されたら、人工的な建造物が林立しかねない。現在、ゴルフ年齢が高齢化してしまい、利用者減少に悩んでいるゴルフ場が少なくない。自然保護や環境保全の為にも、多くの人々にゴルフ場を利用してほしいものである。ゴルフ場が自然破壊だなんて、感覚的に言うのは控えてほしものである。しっかりしたエビデンス(科学的根拠)に基づいた理論展開を望んでいる。
山に登るということは死ぬこと [2015年02月11日(Wed)]
 先ず持って、御嶽山の噴火に際して、不幸にして亡くなられた方々とそのご家族に対して、慎んで哀悼の意を表したい。それから、話を進めることにする。

 さて、事故にあった直後には情報が錯綜したり遠慮があったりして、なかなか伝わらなかった噴火直後の登山者の行動だが、ここに来て少しずつその行動が明らかになってきた。そして、自分の生命を守れたのか守れなかったのかの分岐点が、どこにあったのかも少しずつ判明してきた。想像していた通りであるが、噴火直後に『これは危険だぞ!』と直感して、急いで避難したり安全な所に身を隠したりした人は助かったみたいである。しかし、噴火したことをたいした危険性がないと思い込んだり、自分には被害が及んだりしないだろうと思い込んでしまった人は、結果として犠牲になってしまったようである。残念なことに、避難もせずに噴火の様子をスマホの動画に収めたりカメラ撮影したりしていた人は、帰らぬ人となってしまったとの報道がされている。悔やんでも悔やみきれないものがある。

 また、噴火した後に灰や小石が飛んできて危険性を感じた人は、とっさに機転を利かしてザックを頭に載せて噴石の直撃を避けたし、大きな岩の陰に隠れて難を逃れたらしい。さらに、いつもヘルメットを常備していた登山者は大切な頭部を守れたし、登山小屋にはヘルメットが常備されていることを知っていた人は、駆け込んで貸してもらったという。驚くことに、天気や景色がいつもと違うなと気付いて、警戒しながら登っていた人もいたみたいである。御嶽山が危険性のある火山だと認識せずに登っていた人と比較すると、雲泥の差があろう。このように、御嶽山が危険な山であるし、登山というものがいつも危険と隣り合わせだと認識していたかどうかが、生命を守れたかどうかの分岐点になったとすれば、登山を安易なレジャーだと考える人がいる限り、今後も同じような被災事故が発生することであろう。

 そもそも登山という行為は、様々な危険を孕んでいる。こういった火山噴火の被害もあるし、遭難することだって考えられるのは勿論だし、危険動物に遭遇する危険もある。風雨や雷に出合うこともあるし、病気が発症すれば助からないことも多い。このように、山というのは様々な危険に満ちた世界なのである。だから古より、山に登るというのは『死ぬことなり』という概念が生まれてきたのである。登山が修行の一種だということもあろうが、山に分け入るということは、一旦死ぬことだという考え方が敷衍されてきたのである。その証拠に、修験者や修行する人々は、死に装束である白い服を着て信仰の山に登拝する。また、山に登ると、三途の川とか賽の河原と表示され、積み石が置かれた場所を目にすることが多い。または、地獄谷とか浄土山、浄土平と表示されている場所も少なくない。つまり、山とはあの世であり死後の世界なのである。

 さらに、山は墓場だという概念も存在する。『人生いたるところ青山あり』という諺があるように、山というのは墓地という考え方がある。青山という地名はそれこそ墓地そのものだから付いた地名でもあろう。全国各地に、はやまと読む、葉山、端山、羽山、麓山という地名や山名があるが、墓地を意味するのはいうまでもない。このように、山というのは人生の終末を迎える場所でもあるのだ。だから、山に行くということは死にに行くと同義語であることは、容易に想像できる。ましてや、富士山詣でや御嶽山詣で、飯豊山や月山、鳥海山の登拝は、昔はそれこそ命がけであった。死ぬ覚悟で登ったのである。だからこそ、自分の生命を神に預け、生きて帰れるかどうかは、自分の霊魂の清浄さ次第であり、禊でもあったのである。そんな覚悟がないと山には登れなかったのだ。

 ところが今はどうであろうか。登山は完全にレジャー化したりスポーツ化したりしている。ごく普通のスニーカーや普段着で富士山などの高山を登る人や、軽装でたいした非常食も持たずにトレランと称して、走って登り降りするスポーツ登山にはまっている人がいる。山というものは、死と隣りあわせの場所であるから、敬虔な気持ちで登らないと、とんでもない目に遭うという認識がない人が増えてしまった。死ぬような場所であるからこそ、念入りな準備といざという時の行動予想をしてから登るべきである。その認識こそが、一旦死んだことになったとしても、魂が浄化されて生きて帰って来るという本来の信仰登山を可能ならしめるのである。山に登ることは死ぬことなんだという認識をすべての登山者が持つことが出来たら、二度と御嶽山のような悲惨な事故が起きることはないだろう。山に登るときは、自然の偉大さを畏敬し、自然に対して自分は無力であるという認識を持ち、謙虚な態度で山頂を目指したいものである。
人は心、山は哲 [2013年10月24日(Thu)]
 この「人は心、山は哲」という格言は、登山愛好者にはある程度知られているが、一般の人々はあまり聞いたことがないかと思う。登山家岩崎元郎氏が最初に使ったとされている。この言葉に最初出会ったのは、NHKの教育テレビで放映されていた、「中高年の登山学」のテキストの中である。その数年後に、北アルプスのある名峰の山小屋の登山雑誌に岩崎氏が書き込みをしてあるのを、偶然に目にした。それ以来、この格言を非常に気に入ってしまい、自分の座右の銘として重宝させてもらっている。岩崎氏は、この言葉の意味について、多くを語ってはいないようである。講演会でもあまり触れないし、氏の著書でもさらっと簡単に記しているに過ぎないようである。

 岩崎氏がこの格言をどんな意味で使用したのかは知る由もないが、おそらくはこんな意味で用いたのではないかと自分勝手に判断して、使用させてもらっている。毎年、ある公民館の事業として登山教室を企画させてもらっている。勿論、企画者としてだけでなく年間6回の実技の登山にも、登山ガイドとして参加させて頂いている。結構人気の教室で、20名だけの限定人員ということもあり、申し込み当日は朝の5時半から並ぶ人もいるようで、すぐに定員一杯になるそうだ。数年前には、座学もあって公民館において机上講座もあったのだが、皆さん実技を楽しみにしているということで、毎回実技をメーンにして、バスで移動している最中に講座をさせてもらっている。登山で必要な知識についても話をしているが、山の哲学についても「心は哲、山は哲」という表題で話させてもらっている。

 山は哲ということは、山や登山は哲学そのものだという意味だと思うが、何故そうなのであろうか。おそらくそんな事を考えながら山を登る人は、極めて少数者に違いない。そもそも山に登る理由は、殆どの人が趣味として楽しむ為であろうし、眺望や花などの自然を楽しんだり頂上を征服したりするという自己満足の為だと思われる。山が好きで登っているし、身も心も健康になりたいと登っているのだから、山が哲学だなんて余計なお世話だと思う人も多いだろう。確かに、その通りである。山を楽しむだけでいいだろうし、登山に哲学なんて必要ないと思うのも当然だと思う。自分も、若い頃は山が哲学だなんて思うことは一度もなかった。

 ところが、毎年40座から50座の山頂を踏み、30年近く登山に勤しんで還暦を迎えるような年齢になると、不思議なことに山は哲学だという考え方に、いつの間にかなってしまったみたいである。登山道が厳しい数々の山を登り、苦難困難とも言えるような経験を多く積んで行けば行くほど、山はやはり哲学なのだと確信してしまう自分がいる。おそらく、日本の登山が山岳修行から始まったように、山に登るという行為そのものが自分自身の魂の浄化や成長を促していると実感するからではないかと思うのである。登るだけで10時間以上も要するようなハードな山や、登山道の殆どが岩場で鎖場とはしごが連続するような危険と隣り合わせの登山道を登っていると、自分が生きるうえで必要な気付きや学びを山は与えてくれるのである。

 つまり、自分がいかに未熟な存在であり、人間として謙虚さや素直さが足りず、自我(エゴ)や煩悩というようなものに毒されている存在であるという実感を、山から嫌というほど与えられるのである。何故、そんな気分になるかというと、私たちは下界にいると自分自身と向き合う時間が持てないのだが、山を黙々と登っていると、知らず知らずのうちに自分自身と謙虚な心で対話出来るからではないだろうか。日本で山岳修行がどうして栄えたのかというと、身体的な苦難を経験することが悟りを開くのに近道だと、修行者や修験者が体感したからではないだろうか。六根清浄という言葉が示す通り、自分自身に身についた余計な物(煩悩やエゴ)を磨き削いで、本来の研ぎ澄まされた自己を確立出来るのではないかと思うのである。「人は心、山は哲」だという実感を持てたら、もっと山の楽しみが増えるし、自分の大きな成長が実現するに違いない。
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