ノーブレス・オブリージュという言葉を生まれて初めて知った。こういう仏語があることを知っている日本人は非常に少ないと思われるし、普段から使う人はいないことだろう。このフレーズを知ったのは、ラグビーの日本代表五郎丸選手に関するネット記事によってである。五郎丸選手は、他の選手と同じようにハードな練習と試合をこなしたうえに、マスコミの取材やTV出演にも快く応じている。かなりのハードスケジュールなのに、いつも笑顔で応対していて、好感が持てる。一方で、身体的かつ精神的な疲労を心配しているファンもいる。どうしてあんなにも無理をしているのかという問いに対して、ヤマハ発動機のラグビー部清宮監督は、彼がノーブレス・オブリージュを実践しているのではとコメントしたのである。
ノーブレス・オブリージュという言葉は、フランスの貴族のような高貴で財産にも恵まれた人々は、市民に対して貢献する義務を負うというのが本来の意味であった。それが転じて、社会的にも才能的にも恵まれて、経済的に豊な人々は社会に奉仕する責任と義務があるという意味になったと言われている。ライオンズクラブやロータリークラブ、JCの社会奉仕活動などは、この精神をいかんなく発揮していると思われる。つまり、五郎丸選手は自分達が大好きなラグビーを続けられるのは、ファンがあってのことだし、国民の多くの支持があるからこそである。社会に対して、ラグビーの素晴らしさを喧伝する役目を負うのは当然だとする考え方なのである。
五郎丸選手も素晴らしい精神を持っていると思うが、それをノーブレス・オブリージュという言葉を用いて評価している清宮監督もまた、見事な見識を持っていると言わざるを得ない。ご存知のように、あれほど図体がでかくてファイティングスピリットに富むラグビー選手であるが、ノーサイドの笛が鳴ると同時にお互いの健闘を称えあい、何年来の旧友のごとく抱き合ってお互いの友情を高めあう。何時見ても、あの潔さには感動を覚える。さらには、ラグビーというスポーツは完全なチームプレーによって成り立つ。だからこそ、『ワンフォアオール・オールフォアワン』という言葉に代表されるように、自分中心のプレーは非難されるし、そんな選手は淘汰されるのである。
そして、ラグビー選手というのが、ノーブレス・オブリージュという言葉を心に秘めて社会活動を実践しているということを新たに知り、ラグビーというスポーツとラグビー選手が益々好きにならざるを得ない。野球界には、このような社会奉仕活動をしている選手もいるが、多数派とは言えない。サッカー界でも社会貢献活動をしている者がいない訳ではないが、少数であるし義務的な活動になっている。他のスポーツ界では、この五郎丸選手のように、自ら進んで犠牲的な精神を持って社会貢献的な活動をしている例は少ない。やはり、ノーブレス・オブリージュの精神が浸透していないのかもしれない。
ノーブレス・オブリージュという考え方は、ある意味においては社会的に批判されるかもしれない。つまり、持てるものが持てないものに対する施しではないのか、上位目線からの自己満足に過ぎないのではないかという批判である。単なる偽善行為ではないかというのである。社会奉仕活動というとそんなふうに誤解されることが多いのも確かである。しかしながら、どんなに少なくても自分の貴重な時間や労力、そして財産を費やして人々の為に貢献しているという事実は否定できない。それが、何回も何十日も続き、結果何十年も続いたとしたらどうだろうか。例え最初は偽善であったとしても、行動そのものが自らの精神を変え、心や魂も浄化させずにはおかないであろう。だからこそ、古来よりノーブレス・オブリージュという精神が廃れずに続いてきたのである。
日本人は、人知れず徳を積むことこそが本当の美徳だとする考え方を持つ。欧米人のように、人前でも堂々とした態度で社会奉仕活動に勤しむことを好まない。どうしても偽善だと非難されるのを嫌う体質があるのだろう。しかし、人に知られようと知られまいと、非難されようと賞賛されようとも、そんなことは関係ないような気がする。困った人々を救い、人々の幸福の為に寄与し、人々が喜ぶ笑顔を見たいと思うのが、人間本来の生き方ではないだろうか。テロ行為だって、自分が社会から虐げられ見捨てられ不幸のどん底にあると思い、現世では幸福になることを諦めた人々が実施しているのである。こういう人々が救われて、人並みな幸福を手に入れられたらテロは根絶するに違いない。全世界の人々がノーブレス・オブリージユを実践し、恵まれない人々を救えたら、平和で幸福な社会が実現できると確信している。