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孤高のメス [2010年06月21日(Mon)]

 あまりにも臨場感溢れる手術現場と、真に迫るリアルな臓器が見る者を圧倒する。三流の設備しかない弱小病院の手術室という雰囲気が良く出ていた。また、術中のスタッフの動きは少しぎこちなさも感じられたが、それは敢えて演出したと思わせるような出来だった。なによりもすごいのは、リアリティを出すために医学用語や医療器械の呼び名を、医療現場で使うのとまったく同じように使用し、説明が一切なかったことだ。このお陰で、緊張感が一層高まり、その場所に実際に居るかのようなテンポと雰囲気を味わえた。

 そして、一番驚いたのは、その作られた臓器の出来具合と描写がすごいことである。高校生から摘出した肝臓は美しいと形容するに相応しい形と色であり、肝硬変を起こした肝臓はどす黒くごつごつした、まさに病的な肝臓である。医療関係者なら、まったく本物だと思えたことだろう。生体肝移植した肝臓が、一時止めた門脈を再開した際に血液が流れ出し、徐々にその色がピンク色に染まって行くさまは、感動を覚える。こんなにもリアリティを追及した医療映画も珍しい。

 勿論、ストーリーも実にいい。ある映画批評を見ると、筋書きが単純で詰まらないだの、恋愛的な要素も入ったほうが良かったという意見もあった。私は、そういうのは余計なものであり、あくまでも人間ドラマとしてのストーリーに拘ってシンプルにしたのが良かったと思う。しかも恋愛的な要素もあったではないか。あの手術室のヒロインナースは、堤真一演じる当麻医師に淡い恋心を抱いている。あれぐらいのほうが、却って映画の後味を良くするものだ。

 今の医療業界を見ていると、主人公の当麻医師のようなドクターには、なかなかお目にかかれないだろうなと思う。自分の身がどうなろうとも、あくまでも患者さんの命を優先して、向かって行く姿には感動さえ覚える。孤高のメスという題名は、よく出来ている。世の中の医師がすべて、当麻医師のようにあってほしいと思う。口では、患者中心の医療をと言いながら、ドクターの殆どは自分中心であり、病院や医薬品会社中心の医療が横行している。あの孤高のメスという題名は、今の医療の現状があまりにも酷いということを作者が訴えているのだ。当麻医師のような善良な医師が、孤高にならないような医療界にしていかなければならない。
口蹄疫と手足口病 [2010年06月11日(Fri)]
 またまた口蹄疫が発症したという。今度は宮崎県の都城市に発生して、農水省や県は慌しく対応に追われている。この口蹄疫対策費として、国の予算から何千億円という巨費が投じられようとしている。うーん、大変な出費である。感染を拡大させないための処置らしいが、と殺される牛や豚さんたちは可愛そうである。元々人間のために、せっせと餌を与えられて殺されて食べられる運命にあるというのは、何とも気の毒としか言いようがない。人間というのは、残酷というか罪なことをするものである。

 さて、この口蹄疫は人間には感染しないと言われている。偶蹄類と呼ばれる爪が偶数の家畜、つまり牛・豚・羊にしか感染しないという。しかし、広辞苑には稀に人間にも感染するとの記述があるらしい。さらに、ウィルス学の専門家によると、ごく稀ではあるが、濃厚接触により人間にも感染する可能性があるという。しかし、感染しても軽い発熱や水泡が出来る程度で、すぐに完治するらしい。だから、人間にはまったく心配ないというのだ。でも、人間に感染するというなら、こんなにも行動範囲が広がっている現代であるから、全国にこの口蹄疫が広がっても不思議ではないことになる。

 ところで、この口蹄疫の症状と手足口病の症状が非常に似通っているらしいというのだ。だから、人間が口蹄疫に罹患したとしても、手足口病だと誤診断されてしまうらしい。というか、どちらの疾病なのか、人間を診るドクターには診断がつかないということだ。そういえば、今年は手足口病が非常に多いという。それも子どもだけでなく、大人にも感染が多いという。これは、単なる偶然であろうか。実に不思議なことであるし、人間の手足口病と同じ症状だというのは何か深い意味があるように思えてならない。そもそも、牛や豚がこの口蹄疫に感染する原因は特定できたのであろうか。それが出来なければ、巨額の国費を投じることは、無駄になってしまうように感じる。

 あくまでも仮説としてではあるが、口蹄疫にしても手足口病にしても、人間、家畜共に自己免疫力が低下していることが原因ではないかと考えられる。高級ブランド家畜の餌は、非常に贅沢になっている。配合飼料はそれこそ栄養の高いものであり、短期間で良質な脂肪がつきやすい高脂肪・高タンパク質・高糖分の餌を与えている。一方、苦笑したくなるが、人間の食事もまったく同様なのである。つまり、偏った高栄養の食べ物を食べることにより、生活習慣病になりやすくなり、強いては免疫力を低下させてしまっているのである。農水省や宮崎県では、今回の口蹄疫の感染力が異常に強かったと言っているが、そうではなくて免疫力が低下したと見るべきであろう。

 特に、大規模畜産農家では狭い場所に多くの家畜を飼っていて、運動不足になっているし、狭い空間に押し込められているために、相当なストレスを抱えている。人間もまったく同じ状況におかれているのだ。つまり、人間も狭い都会の空間に押し込められて、偏った高栄養の食事を与えられ、便利な生活により運動不足になって、多くのストレスにさらされているのである。生活習慣病にならない訳がない。免疫力が低下するのも当然である。毎日満員電車に揺られ通勤しているサラリーマンの表情と、狭い牛舎に押し込められている牛の悲しい表情が何故かクロスオーバーしている。牛は、広い牧場で放牧して伸び伸びと育てるのがいい。人間も、自然が豊かで広い土地がある田舎で暮らすのがいいのだ。口蹄疫と手足口病の流行は、私たちに生き方の間違いを警告しているとしか思えない。
手足口病が流行の兆し! [2010年06月03日(Thu)]
 手足口病が流行しているらしい。子育てを経験してない人はご存知ないかもしれないが、小児疾患である。口の周囲や手のひらや足の柔らかい部分に水泡が出来る病気である。風邪のような、頭痛や喉の痛み、または嘔吐症状が出ることもあるらしい。内臓障害も起こす場合もあるらしいので、要注意だ。ウィルス感染症であり、ひどくなると髄膜炎に至るケースもあるとのこと。重症化や長期化の兆しがあったら、早めの受診がお勧めだ。

 最近、こういったウィルス感染症が増えているし、しかも小児だけでなく高校生や大人にも感染している傾向がある。麻疹(はしか)が高校生の間で集団感染したり、大人が感染することも少なくない。昔は、小児にしか感染しなかった疾病が大人も罹患してしまうというのは、不思議なことである。ウィルスそのものが強くなってしまったのか、はたまた人間の自己免疫力が落ちたのか解らないが、由々しき事態である。その原因究明と抜本的対策が望まれる。

 あくまでも仮説ということで申し上げれば、あまりにも現代の生活環境が清潔になり過ぎたきらいがあり、それが原因になっているように思えて仕方がない。つまり、この世の中、抗菌グッズ、消毒剤や殺菌剤、過剰に滅菌した食物、強力な殺菌剤入りの洗浄剤、殺菌効果のある空調設備、等々が大量に出回っていて、雑菌がなくなってしまっているようだ。そのため、普段から雑菌やウィルスにさらされることがなくなった現代人は、雑菌やウィルスに慣れていないため、少しのウィルスにより感染するようになったのではないだろうか。

 勿論、ウィルスそのものも強力化していることも考えられる。他の菌やウィルスが少なくなった為に、我が物顔で活躍しているのかもしれない。そういえば、こんなこともテレビで言っていた。アレルギー症増加の原因のひとつが、空気環境の中に動物の糞が少なくなったせいだと言うのだ。そうすると、最近増加している疾病の原因は、あまりにも環境が浄化されたことによるかもしれないのだ。人間は、いろんな菌の中で暮らしていて、それこそ菌のおかげで健康を保つことが出来るのに、過剰に殺菌してしまったことによって逆に健康を害しているということになる。

 人間の免疫力というか自己治癒力というのは、とても不思議な力を持つ。そもそも、病気や怪我が完全治癒するのは、あくまでもその本人の自己治癒力や免疫力が働くからである。どんな名医や治療でも、本人の自己治癒力がなければ完全な治癒は起こしえないのである。よしんば、病状が対症療法で改善したとしても、自己治癒力がなければ完全な治癒はしないし、再発してしまう。その自己治癒力や免疫力というのは、トレーニングをしなければ育たない。だから、世の中の環境をまったく無菌化・無ウィルス化したとしたら、感染症がなくなるかもしれないが、万が一にも外宇宙ウィルスが持ち込まれたら、ひとたまりもないのだ。やはり、適度な菌やウィルスが蔓延り、常にさらされることによって免疫力や自己免疫力が維持されたほうが良いと思う。

 さて、都会の環境は無菌化に向かっていると思って間違いないだろう。周りを見渡してほしい。電車のつり革や手すり、売っている物、食べ物、すべてが抗菌・殺菌のものである。このような環境に置かれた人間の、免疫力や自己治癒力が低下するのは当たり前である。あまりにも、神経質になっているような気がしてならない。菌やウィルスだって生きているのであるから、共存共栄するような考え方で良いように思える。田舎には、まだまだ菌やウィルスが豊富に残っている。このような環境で逞しく育ったほうがいいように思うのは、私だけではあるまい。



ムンテラ [2010年05月28日(Fri)]
 ムンテラという言葉を聞いたことがあるであろうか。医療用語であり、医師が患者さんに病状を説明することを言う。元々、ドイツ語でありムントMunt=口と、テラピーTherapie=治療をつなげた言葉で、直訳すると口での治療となる。つまり、言葉で治療するという意味であり、患者さんを言葉で言いくるめるという意味にも取られやすい。したがって、病院によってはムンテラという言葉を使用禁止にしている場合もあるらしい。病院の中では、医療関係者の間だけで使われていて、患者さんには使用しない言葉である。

 このムンテラであるが、医師はインフォームドコンセントが重視されていることもあり、かなり丁寧にする傾向にある。昔は、「黙ってオレの治療を受け入れなさい、嫌なら治療をしませんよ」という態度をする医師が多かったが、最近は病名の告知も包み隠さずするようになった。ましてや、後で訴訟を起こされるのを極端嫌う傾向もあり、必要以上に丁寧なムンテラをするようになった。患者さんの権利意識も高まっていて、かなり神経質な態度でムンテラする医師も多い。中には、ムンテラした内容を、患者さんや家族がメモするのさえ嫌う医師もいるらしい。そんな愚かな医師もいるというのは、情けないことである。

 さて、そんなムンテラであるが、どうも困った傾向にあるらしい。治療後に苦情を言われたり訴訟を起こされたりするのを避ける為なのか、最悪の治療結果を事前に告げることが多い。さらには、治らないということを告げる傾向にあるという。例えば、余命なんかも最短の期間を告げるというのだ。また、手術の予後も悪く言う傾向にある。それでなくても、病気になって沈みがちな患者さんに、悪い結果をことさら言うのは、どうなのだろうか。かえって、病気を治すという気力を削いでしまわないだろうか。治療を受ける前に、がっかりさせることを言ったら、治療効果がなくなるように思えて仕方ない。

 どうして、医師はそんなに弱気になってしまったのであろうか。確かに訴訟を起こされるからと、自己保身のためという意味もあるが、それ以上に何か別な意味があるような気がする。おそらく医師たちは、悪意があってしているのではなく、無意識のうちにであろうが、最悪の治療結果を告げる。そうすれば、もしその最悪の治療結果以上に良くなれば、自分の治療効果が予想以上にあり、名医ということになる。予想した以下の治療結果になったら、ヘボ医者として蔑まれる。だとしたら、医師はどちらの治療予想をするだろうか。悪い治療結果を予想するに決まっている。

 しかし、本当の名医は自信を持って良い治療結果を告げるのである。特に神の手と呼ばれるような、世界的な名医は決まって、「大丈夫ですよ、治ります。心配ないですよ」と患者さんに告知する。そして、結果もその通りになるのである。患者さんは、安心して先生に身を委ねるし、精神的にもリラックスするので、手術の予後も実にいいのである。だから、益々名医の治療結果はあがることになるのである。ところが、自信のない医師は、最悪の結果ばかりを言うものだから、患者さんは益々不安になり、ストレスも高まり治療結果は予想したとおりになりやすいのである。

 人間は、予想したとおりの未来になることが多い。特に悪い結果を予想すると、そうなる場合が多い。おそらく無意識下でそう思い込みやすいのであろう。そうすると、無意識がその未来を実現しようと働いてしまうのである。だから、ムンテラはけっして悪い結果ばかりを告げてはいけないのだ。ましてや、医師自身も自分で言ったその言葉を自分の耳で聞いているのだ。無意識のうちに、その結果になる行動をしてしまう傾向になる。言葉は言霊である。言葉にしたとたんに一人歩きするのである。名医は、良い治療結果を告げるし、ヘボ医者は悪い結果をことさら告げる傾向にあるということを知っていると、医師の選択を誤らない。悪い結果ばかりを言う医師に当たったら、セカンドオピニオンを選択したほうが良い。ムンテラの仕方で、医師の良し悪しが解るのだ。
病は気から [2010年05月25日(Tue)]
 病は気からと言う言葉の意味は、病気になったときに、自分でも軽いと思ったり治ると信じると、軽く済むしすぐに良くなる、という意味で使われることが多い。しかし、最近の医療関係者の間では、まったく別の意味で使われることが多いのだ。つまり、病気になる原因の殆どが自分の気持ち・考え方からであり、精神的な部分が影響しているという考え方である。したがって、病気になったのは自分の考え方や生き方がどこかおかしいところがあり、それを変える必要があるということになる。そして、人間本来の正しい生き方にすれば、病気も治るし二度と病気にもならないという考え方になるのだ。

 そんなことはない、そういう病気もあるが、それはごく一部分の病気だけであると反論する人も多いことだろう。しかし、WHO世界保健機関を初めとして日本の大学や研究機関においても、この病いは気からという考え方が、相当に浸透していて、市民権を得ようとしている。その証拠に、WHOの健康の定義がまさに変えられようとしている。健康の定義に、身体・精神・社会的という三つの定義に加えて、spiritualという概念が新たに入れるべきだという意見が大勢を占めている。spiritualというと、誤解を受けやすい言葉であるが、魂的か霊的という日本語訳になると思われる。

 言ってみれば、このspiritual(魂的)という言葉こそが、病は気からという言葉と同じ意味のような気がする。世界的に見ても、精神的なものが病気の発生に影響していることが判明しつつある。だから、西洋医学一辺倒から代替医療を取り入れた複合的医療が隆盛しているし、西洋医学の限界が見えてきて、東洋医学的な考え方が多くの医師の間でも取り上げられる傾向にある。がん治療分野においても、化学療法・手術・放射線療法では匙を投げた症例でも、生きがい療法で劇的に改善した例も多く見られる。

 最近、病は気からということが科学的にも証明される傾向にあるのは、喜ばしいことだ。しかし現状は、西洋医学偏重の医療により、多くの患者さんが、通院するごとにむやみに強い薬を処方されたり薬の数が増えてしまったりという、大変な状況に置かれてしまっている。だから、一度飲み始めた薬は永遠に飲み続けなければならないという中高年者が多いのだ。これは、医師が対症療法だけに頼ってしまっていて、完全なる治癒を目指していない証左とも言えるのではないだろうか。生かさず殺さずというような医療が、平気で行われている現状が見え隠れしているように思えてならないのだ。

 そもそも、医療保険制度は大いなる矛盾を孕んでいる。完全に治癒させてしまうと、患者さんが減ってしまい、医療機関と薬品会社等の収入が減ってしまうのである。したがって、経営が成り立たなくなり、経営破たんしてしまう。完全に治癒させることによる成功報酬は得られないのである。誰が考えたって、完全に治さないほうが収益があがる仕組みになっているのである。医師や薬品会社に悪意がなかったとしても、完全治癒と対症療法のどちらを選択するかは、明白になる。であるから、当然医療関係者は病は気からということを認めたがらない。だから、病は気からであると、声を大にして唱えている医師は、本当に善良な医師だということが解る。

 日本ではこのような医療費の浪費が、こうして横行している。だとすれば、患者さん自身が賢くならなければならないのである。西洋医学も緊急避難的に必要であることは認めざるを得ない。でも、慢性疾患は、殆どが自分の考え方・生き方を変えれば、完全治癒するのである。特に、自律神経系のバランスを調整して、体温を上げて免疫力を高めれば、殆どの病気は治ると善良なる医師は自信を持って語る。新潟大学医学部教授の安保徹先生は、その代表である。勿論、その為には食事や環境も大切である。癒しのフィールドに身を置くことも大切である。田舎に住んで、食生活を変えて、考え方・生き方を変えやすい環境にすることも大事だ。健康でQOLを保って暮らすなら、田舎がいい。病は気からなのだと、自分を信じて生き方を変えてみようではないか。
口蹄疫事件に思う [2010年05月19日(Wed)]
 宮崎県で起きた口蹄疫事件により、畜産農家は壊滅的な打撃を受けているという。国の検疫体制というか防御体制、または県の防疫体制に重大な欠陥があったのではないかという指摘がされているようだ。こういう時に一番被害を被るのは、一般の農家である。気の毒である。でも、鳥インフルエンザ事件の時もそうだったが、こういう事件があると、その後の防疫体制だけが話題になって、そもそもの原因についての考察がおろそかになりやすい。

 今回の口蹄疫も、リスクマネジメント上、緊急性の対策が重要視されるのが当然であるが、今後のことや他地方での発生抑制を考えれば、原因についての研究も並行してされるべきであろうと考える。メキシコで発生した豚インフルエンザについても、いつのまにかウヤムヤになってしまった感がある。今回の口蹄疫発生対策に、1,000億円という巨額な公費が投じられようとしているのであるから、原因の特定をしてほしいものだ。

 こういった家畜の伝染病が起きると思うのは、果たしてこれだけ大きな畜産業が日本に必要なのだろうか?という思いである。生活習慣病の予防が大事だと言われ、特に西洋食から和食へと見直されてきている風潮があるのに、牛肉や乳製品、鶏卵や豚肉・鶏肉などの生産が、本当に必要なのだろうかという疑問がある。欧米の知識者階級では、既に肉食を控えて野菜・魚中心の食事になりつつある。日本でも、肉食から野菜食へのシフトが望まれる気がする。昔のように、肉は必要最小限の摂取で良いのではないだろうか。無益な殺生は慎んでほしいものである。

 また、今回の口蹄疫事件ではワクチン接種が検討されているという。しかし、その副作用が大きくて、ワクチンを打った牛や豚も処分されるという。ワクチンの副作用というのは、そんなに大きいの?と自然とそんな疑問が湧く。勿論、人間に対するワクチンと動物に対するワクチンの安全性は違うと反論するかもしれないが、基本的にはワクチンである。人間には、あんなにも沢山の種類のワクチンを平気で打ちながら、動物に打つのを躊躇するというのはどういうこと?と素朴な疑問を持つのは私だけではないはずだ。

 先般の新型インフルエンザも大量のワクチンを輸入して無駄になった。危険性に気付いた国民が忌避したからだ。残ったワクチンは、どうなったのか?厚労省の甘さについて、追求した議員もいないし、そのワクチンの危険性を指摘した政治家はいない。最近話題になっている子宮頸がんの予防ワクチンは、栃木県大田原市の中学生に実験的に投与が始まった。欧米では、その効果と危険性が疑問視され、ワクチン投与がベンディングされているにも関わらずである。どんなワクチン投与においても、副作用は必ずあると言われている。特に、ワクチンの投与がアレルギー反応を加速させているという情報もあるらしい。

 この口蹄疫事件は、付随していろんな問題を提起してくれているのである。日本の農政、消費者行政、医療行政はおしなべて、国民中心ではなくて業者中心主義である。今回の口蹄疫事件に対する県や国の対策が後手に回ってしまったのも、元を正せばそういう行政の姿勢から出たことであろう。であるから、今度の口蹄疫事件を教訓にして、今後は国民目線・消費者中心主義に則って政治を行ってほしいものである。
がん哲学外来 [2010年04月13日(Tue)]
 がん哲学外来という専門外来があるという。順天堂大学の樋野教授という病理学の教授が開設したらしいが、この外来では何と治療らしい治療をしないらしいのだ。えっ、と不思議がる人が多いかもしれないが、投薬するわけでもなくメンタルケアーをするわけでもないという。ただ、患者さんと向き合い話を聞いて、いろいろと相談を受けるとのことだ。癌に罹患した患者さんが、自分と向き合い、自分の癌という病気と向き合い、どう生きるのか、どう死ぬのかということを哲学するサポートをするだけということだ。西洋医学の殿堂とも言える大学病院で、こんな外来が出来たのが驚きである。

 そもそも、ガンという病気は何ものなのであろうか。がん細胞は常に出来ては、すぐに破壊されていくという運命らしい。そのサイクルが何らかの変異によって、作られたがん細胞を破壊するメカニズムが滞った時にがん細胞が増殖して、ガンを発症するという。つまり、がん細胞は常に身体の中に作り出されているということになる。別な言い方をすれば、自分自身でがん細胞を作っているということであろう。でもそれは、あくまでも無意識のうちに、自分で作り出したものである。わざと作り出しているのではないということであり、自分でコントロールできるものではないということである。

 ガンになりやすい人となりにくい人がいる。それは、生まれつきの遺伝子も関係しているが、主に食事などの生活習慣による影響と、生き方の違いによる影響によると言われている。特に、ガンになりやすい性格があるのだ。C型的性格と呼ばれる人は、ガンになりやすい。ひと言で言うと、いわゆる『いい人』である。自分の中にふつふつと湧いてくる悪い感情を我慢して、周りの人々に対する配慮から、常にいい人を見せている人である。真面目で誠実で優しいから、人々から信頼され好かれる。こういう人をC型人間と言い、ガンになりやすいし、重い病気になり短命になることが多いという。

 ということならば、このC型性格を緩めて生きれば、ガンになりにくいということになる。以前、NHKTVのプロジェクトXで、拡張型心筋症になってバチスタ手術を受けた人がしみじみと語った言葉がある。病気になって、生き方が劇的に変わった。おかげで、人間にとって何が大切かを教えてもらった気がすると語り、病後に生き生きとした人生を送っていた。つまり、死を覚悟する病気をすることにより、生き方や人生を見直すことが出来たらしい。ガンという病気も、実は自分の生き方を変える為に、わざわざ無意識の自分が、自分の身体の中に作り出したと言えないわけでもないだろう。がん哲学外来というのは、そんな気付きをするための外来だと思われる。がんという病気は、死と隣りあわせだ。だからこそ、自分の生き方を変えるきっかけになりうるのだろう。

 このがん哲学外来のルーツを探ってみると、驚くべき事実にぶつかる。今から60年前くらいに活躍した病理学者がいる。吉田富三博士という研究者で、東京大学の医学部教授や医学部長、癌研の所長を歴任している、世界的に著名な学者である。彼は、こんな言葉を残しているという。「がん細胞で起こることは、人間社会でも必ず起こる」と。けだし名言である。がんという病気を、60年も前に哲学的に捉えていたのである。彼は、福島県の浅川町に生まれ育った。白河市の近くにある鄙びた町である。現在、吉田富三記念館が建てられて、彼の功績を称えている。順天堂大の樋野教授は、その精神を受け継いでいるという。そして、福島県立医科大学で、月1回このがん哲学外来が開かれるというニュースが流れた。がんに苦しむ人々には、朗報である。
インフルエンザワクチンは要らない? [2010年01月10日(Sun)]
 欧州各国でインフルエンザワクチンの需要が低迷し、供給過多になっている。ドイツやフランスなど各国では、政府から薬品会社への注文を取り消すという事態になっている。製造薬品会社は、あてにしていた販売がなくなり収益見込みの修正を余儀なくされたり、新興国への売り込みに躍起になっているという状況らしい。

 何故こんな事態になったかという原因については、報道によると当初2回と予定していた接種回数が1回で済んだ為としている。しかし、そんな訳はない。その対象者は子どもだけであり、絶対的に不足すると予想されていて、一般者の接種には回らないとされていたのである。それが余ってしまうというのは、どうしても解せない話である。

 ワクチンが余剰になってしまった真相は、実はこんな理由だと噂されている。新インフルエンザの世界的大流行(パンデミック)が起きるとされていた。その危機を煽ったのはWHOであるが、それは製薬会社と結託した研究者からの情報を鵜呑みにしたからではないかと言われている。そもそも、この新型インフルエンザは従来のインフルエンザと比較しても、感染力や重症化する危険性も高くなく、それほど大騒ぎするほどのことはなかったらしい。

 それが世界的に大騒ぎするようになったのは、医療レベルや衛生状態の低いメキシコで発生して死者が多数出て、これは大変だということからである。この辺の事情がどうもおかしいと気付き始めた人々も多いらしいが、真相は解らない。しかし、現状から言えるのは、新型インフルエンザの危険性が、従来のインフルエンザとたいして違わないということだ。大騒ぎした割には、なんか拍子抜けした感がある。

 欧州の各国の良識ある人々は、新型インフルエンザの危険性に疑問を持っていて、インフルエンザワクチンの副作用にも注目していたらしい。感染とワクチンの副作用の危険性を天秤にかけたら、明らかに副作用の危険性が高いと、ワクチン接種を思い留まったので、ワクチンの需要が減ったと見るべきだとする専門家が多いとのことだ。日本でも大騒ぎした割には、今までのインフルエンザと同じだったと安心すると同時に、どうも何かに踊らされたのではないかと気付き始める人もいることだろう。冷静に判断して、ワクチン接種を思い留まる人も増加するのではないだろうか。
天国と地獄 [2010年01月01日(Fri)]
あけましておめでとうございます。

 何かと慌しい大晦日ですが、読みかけの『極北クレーマー』という小説を昨日読み終えました。この本は、日本の医療崩壊に警鐘を鳴らす力作ですが、物語としても面白い内容でした。日本の医療を破壊したのは、厚労省を初めとした官僚機構そのものだろうと思っていましたが、現役医師の作者も歯に衣を着せぬ痛烈な論調で批判してました。その巻末のほうに、こんな逸話がありましたので、紹介します。

 地獄というものは恐ろしい所だというイメージが定着していますが、実際はそうではないそうです。美味しい食べ物が豊富にあって、地獄に落とされた者は、食べ放題なのだそうです。しかしながら、それらの御馳走をつまむ箸は、とてもとても長いので自分の口に運ぶことが出来ないそうです。目の前の豪華な料理を目の前にしながら、空腹を満たすことが出来ずに悔しい思いをしているのが、地獄なのであります。

 天国というのは、実はその地獄のすぐ傍にあるのです。やはり同じように豪華で美味しい食べ物が豊富にあって、長い箸が置いてあるだけです。しかし、天国においては誰もがその食べ物を口にして幸せな気分になっています。何故かと言うと、その長い箸を使って、お互いに食べさせ合っているからです。地獄では、自分の空腹を満たそうという自己中心的な思いだけで、回りの人に食べさせることをせず、いつまでも皆が空腹です。

 この逸話から思ったのは、私たちのNPOやボランティア活動というのものが、このような天国のような社会を作り上げることなんだという認識でした。今の私たちは、自分だけの幸せを求め過ぎて、ともすると地獄に向かいかけてしまいます。回りの人々を幸せにしていくことこそが、自分の幸福に結びつくことなのだという認識を広めていくことこそが、私たちの使命なのではないでしょうか。

 周産期医療・小児医療や救急医療の崩壊が騒がれていますが、医療行政だけにその責を負わせるのは誤りではないかと思います。実は、そんな状況を作り出してしまったのは、私たち国民の意識なのではないかとも考えられます。そして、その破壊されてしまった医療を再生するのも私たち国民なのだろうと確信しています。現代社会を天国か地獄かどちらにするのかを選択するのは、私たちなのですから。

本年もよろしくお願いします。
保育所設置の緩和措置 [2009年11月10日(Tue)]
 都市部においては、保育所に入りたくても入れない、いわゆる待機児童がとても多いとのこと。田舎のほうだと定員の空きがあるのだが、都市部に人口や若者が集中しているという理由から待機児童が多い。さらにはこの不景気によって共働きが増えて、益々保育所への入所希望が増えているという。

 大都会に不足している保育所を増やすために、設置基準を緩和するとの声明をついに政府が出した。児童1人当たりの面積基準を緩和して、狭い面積の保育所も設置できるようにするという苦肉の策らしい。確かに土地の高い大都会ならではの緊急避難的政策として、歓迎する向きも多い。しかし、本当にそれでいいのだろうか。何のための基準なのかということを、もう一度熟慮してからでも遅くないだろうと考える。

 そもそも、この面積基準が出来たのは、児童の健全保育のためには、1人当たりの最低限の面積がこれだけ必要だということで決められた筈だ。その基準が決められた背景には、パーソナルスペースという考え方がある。人間が生きるためには、ある程度の空間が必要で、その空間に他人が入りこむと、無意識の中で他人を排除したがるという考え方が重要だ。ある程度の空間があり安心すると、逆に他人と繋がろうとする意識が芽生える。つまり、乳幼児期においても、ある程度の空間を確保しないと、他人とつながろうとしなくなる怖れがあるのだ。

 だから、単純に面積の緩和だからいいのではないかというのは、とても危険な考え方だといえる。乳幼児時期という健全な精神が芽生える大事な時期だからこそ、空間を確保してあげないと、やがてとんでもないことになると考えられるのだ。そもそも、大都会に暮らしている人々も、空間的に逼迫している状況を鑑みると、やはり同じように精神的に圧迫されて生活しているように思える。やはり、子育ても生活するにも、空間確保ができる田舎がいいのだという結論になる。 
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