• もっと見る

<< 2026年02月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
季節はずれの山菜採り [2010年06月08日(Tue)]
 日に日に山の緑は色濃さを増している。里山の山菜採りシーズンは終わりを告げている。まだ、ワラビやネマガリタケの竹の子などは採れるが、殆どの山菜は伸びきっていて食べれない。山菜が採れるのは、せいぜい2週間から3週間である。楽しかった山菜採りは、また来年の5月までお預けになる。今年の山菜は、天候不順で寒かったせいか、出るのも遅かったし、いつもの年よりは不作だったような気がする。

 しかし、山奥に行けば、まだまだ山菜が採れる。勿論、多かった残雪が最近消えたような処だから、相当に山奥まで行かなければならない。約2時間くらい歩いて登っていくようなところだから、熊さんの巣のような場所である。阿武隈川の源流とも言えるような奥深いところに、毎年山菜採りに訪れる。先日、行ったら山菜の最盛期で、エラ(アイコ=ミヤマイラクサ)、シドキ、ウド、ヨブスマソウなどが面白いように採れた。

 けれども、命がけの山菜採りである。熊が山菜を食べた跡や足跡があるし、唸り声を聞くこともある。道がない沢登りと沢下りであるから、滑落の危険もある。行きは良い良い帰りは怖いで、行くときは軽いリュックだが、帰りはこでっしりと詰まった山菜で肩が重くなり、沢を下るときにバランスを崩して転んでしまう。川を何度も渡るので滑って、川にはまることもしばしば。そんな思いまで行かなくてもと人は言うが、それでも行きたい。

 エラというのは、山菜の王様と呼ばれている。そのエラはなかなか採れないし、乱獲がたたり最近は細いエラしか採れない。ところが、実に太いエラがここでは採れるのである。そして、太いシドキがいくらでも採れる。山菜採りファンには堪らないところである。山菜のシロと呼ばれる自分だけの山菜採りの場所は、誰も教えたがらない。何度も行っている私でさえ迷うところだから、教えようもないような奥深い山である。一度は、迷ってしまい、方向を間違えたこともある。

 そんなに危険なことをするのはどうなのかと、よくお叱りを受けている。自分の社会的な立場を考えると、もし事故があったときの責任をどう取るのだと言われる。また、自分の夢が実現することが出来なくなるのだから、自重すべきだという意見も頂く。しかし、私はこのような山菜採りもまたひとつの禊(みそぎ)だと思っている。自分が、社会から必要とされているのであれば、けっして事故に遭わないし、これからの活動に支障を来たすことはないのだと。もし、事故に遭い一命を亡くすようなことがあれば、自分の使命はその程度だったのだと諦めたい。

 人間は、いつ死ぬのか誰も解らない。家を一歩出たら車に跳ねられることもある。家の中に居て、ダンプが突っ込んでくるかもしれないのだ。だから、いつも危険と隣り合わせなのである。危険から逃げていたら、人生を謳歌するなんてできない。少しぐらいの危険を跳ね返すくらいの運がなければ、社会貢献なんて出来ないと思っている。天や神を味方に出来なければ、だいそれたことなんて出来やしないのだ。山に入るというのは、死ぬ覚悟がいる。そんな覚悟がなければ、奥山に入り山菜採りなんか出来ない。季節はずれの山菜採りで、そんな身勝手な思いをしながら、楽しんできた。
卯の花と時鳥(ホトトギス) [2010年05月26日(Wed)]
 卯の花の匂う垣根に 時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて 忍び音もらす 夏は来ぬ♪ご存知のとおり、『夏は来ぬ』という童謡の歌詞である。日本の叙情を歌った童謡は多いが、この夏は来ぬという唄もまた、私たちに初夏の情景を思い出させてくれる懐かしい唱歌である。こういう情景は、もう都会で見られなくなっているし、ましてや時鳥の鳴き声がどういうものかも忘れるほど、聞く機会に恵まれないと思われる。寂しい限りである。

 本日、安全巡回パトロールを実施していたところ、卯の花が既に咲いているのを見つけた。まだ蕾のものが多かったが、間もなく満開になり、鮮やかな白い花びらが私たちの目を楽しませてくれることだろう。そう言えば、先日会社の裏山で時鳥が鳴いていた。確実に夏はやってきているということを実感する。卯の花と時鳥は、初夏の訪れを告げる風物詩として、和歌などに詠まれているらしい。万葉集にも卯の花の歌が24首あり、その大半に時鳥が詠まれているという。昔の人たちは、季節感を実によく感じて和歌にしたためたものだと思う。

 卯の花というのは、別名空木(うつぎ)とも言う。枝を折ってみると解るのだが、中空のようになっていて、芯の部分は発泡スチロールのようなもので埋められている。だから、空木という名が付けられたのだと思う。中央アルプスに、空木岳という名峰があるが、この山には空木が多く自生している。この空木と言う木、西日本と東日本で、まったくその評価が分かれる。西日本では、この木はとても好かれていて、庭木にする家庭が多いが、東日本では嫌われていて、庭木にする家庭は少ないのだ。

 何故かと言うと、こういう理由らしいのだ。空木は軽い木であるから、三途の川を渡り黄泉の国へ行く際、杖にするようにと棺おけの中にこの空木を杖にして入れる風習が、東日本の田舎にはあったのである。であるから、間もなくお迎えを受け入れるご年配の方たちは、この空木を極端に嫌うのである。ある時小さい孫たちが、おじいちゃんやおばあちゃんに、きれいな花があったよと空木の花の枝を持ち帰ったらしい。誉められるかと思いきや、烈火のごとく怒り出したという。おらたちをそんなに棺おけに入れたいのか、お母さんがそんふうに教えたのかと、鬼のような顔をして孫たちを追い回したらしい。そういうことから、東日本では今でも空木を嫌うのだという逸話が残っている。

 一方、時鳥は実に特徴的な鳴き声で親しまれている。ご存知のように、「テッペンカケタカ」と恰も言っているように鳴くのだ。ウソだと思うなら一度聞いてみてほしい。本当に、そのように言っているとしか思えない。昔の人は、想像力が豊かだったんだろうと思う。こういう鳴き声だというから、私たちはそう聞こえるが、まったく知らない人は、こんな言葉は思いもつかない。私の裏山にも間もなく、この時鳥が鳴き始めるに違いない。毎年、必ずこの時期になると、「テッペンカケタカ」と早朝から鳴いて、目覚めさせてくれる。

 万葉集の中には、卯の花と時鳥を両方詠んだ歌が多いと前述したが、大伴家持のこんな歌があるらしい。卯の花も、いまだ咲かねば、霍公鳥(ほととぎす)、佐保(さほ)の山辺(やまへ)に、来鳴(きな)き響(とよ)もす という歌である。卯の花はまだ咲かないのに、時鳥はもう既に鳴いている、という情景を詠んだ歌らしい。昔は、こういう和歌が出来る豊かな自然がいたるところに残っていたのである。今の都会には、このような自然はもはやない。卯の花の咲き誇る情景を目にする為に、そして時鳥の鳴き声を日常的に聞きほれるためにも、是非とも田舎暮らしをお勧めしたい。
山吹の花と太田道灌 [2010年05月11日(Tue)]

山吹の花が満開である。目にも鮮やかな黄色が、緑の葉の合間に映える姿は、実に見事なものである。その山吹の花を見ると、いつも思い出すのが「七重八重、花は咲けども山吹の、実の一つだになきぞ悲しき」という太田道灌ゆかりの古歌である。実は、自然の山に咲く山吹の花は、その多くが一重咲きである。八重咲きの山吹は少ないのであるが、それはそれ、歌道にはとんと疎い私も、この和歌だけはいつまでも忘れない。何故かというと、太田道灌の、とある伝説と共に語り継がれているからである。

 その伝説とはこういうストーリーである。ある日鷹狩りに出かけた太田道灌は、にわか雨に出会う。ある農家の軒先で雨宿りを請い、出てきた見目麗しい少女に蓑笠を借りたいと伝えたとのこと。その少女は一度奥に入って出てきて、何も言わずに、手にした一枝の山吹の花を差し出したと言う。太田道灌は蓑笠を借りたいと申したのに、山吹の花を差し出したのはどういうことかと、かなり立腹して帰城したという。その話を臣下に話したところ、家来の1人がその意味を説明してくれた。後拾遺和歌集の中に収められている、兼明親王の著名な古歌がくだんの山吹を詠んだ和歌である。

 少女が山吹の花を差し出したのは、 「蓑笠はないのです」ということをその和歌に託して、道灌に伝えたかったのである。実のひとつだになきぞ悲しきという言葉に、蓑ひとつだになきぞ悲しきという意味を掛けたのである。実に奥ゆかしいというか、風流な行動であろうか。その意味を知った道灌は、自分の教養の無さをおおいに恥じ、爾後歌道をたしなんだという。道灌の素晴らしいのは、怒りを自分の胸の内にしまい込み、相手を恨むことなく謙虚に内省し、自分を磨く方向に持って行ったことである。人間はかくありたいものである。

 和歌のたしなみを持たない浅学薄才の私が、どうしてこの和歌を知ったのかというと、その出典は落語である。有名な『道灌』という古典落語があり、落語の大好きな私はこの落語を通してこの伝説と和歌を知ったのである。それ以来、山吹の花を見るとこの和歌が思い出される。つくづく思うのは、大都会に暮らす人々がこういう山吹の花を普段目にすることはないだろうし、和歌を思い出すことも出来ないということである。季節の移り変わりを間近に実感することにより、風流を感じるものであるに違いない。今、白河地方の里山は日々その色が変化していて、萌黄色に染まっている。そんな季節が、私は大好きだ。
地震・雷・火事・親父 [2010年05月07日(Fri)]
 地震・雷・火事・親父と昔から言われている。世の中で怖い順に、列挙した有名な言葉である。でも、今では親父は怖い存在でなくなったように思える。親父の代わりにおふくろまたは妻と言っても過言ではないようにも感じる。火事も自分で気をつけていれば防げるような気がする。ただし、最近は放火も多いので、実に困っている。雷は、街中であれば怖くない。高山で雷に出会うと最悪である。なにしろ、落雷というよりも、地を這うように雷がやってくる。山での雷には遭いたくない。相変わらず一番怖いのは、やはり地震と火山噴火であろう。大震災級の地震や火山噴火が一旦起きると、防ぎようがない被害を受けてしまう。

 さて、そんな地震と火山噴火であるが、いつ起きるのかが予測出来たとしたら、ある程度被害を防ぐことが出来る。火山活動は、ある程度予測が出来るようになったが、突然やってくることもある。地震の予知は、お手上げの状況にある。だから、怖いということもある。それでも、最近は長いスパンであれば、大地震が起きるであろう確率を政府機関が予測している。東海と東南海地震は、間違いなく起きるだろうと予測されている。また、宮城県沖地震も30年以内に起きる確率はかなり高いと予測されている。

 ちなみに、どのくらいの確率で起きるのかというと、宮城県沖地震が30年以内に起きる確率は、なんと99%と言われている。同じく東海地震が87%、東南海地震は60%、首都直下型地震は70%である。この確率はとんでもなく高くて、相当危険性が高いのであるが、多くの人々は、この危険性を認識していない。東海地震が起きることをある程度知っている人も多いが、宮城県沖地震や首都直下型地震が起きる確率をご存知の方は、本当に少ないと言われている。

 さてそれでは、火災や交通事故による死亡確率と比較してみることにする。交通事故により今後30年以内に死亡する確率はというと、僅か0.2%である。同じく30年以内に火災による死亡確率は、なんと0.24%である。こうやって比較してみると、いかに地震の起きる確率が異常に高いかが認識できる。だとすれば、私ならば地震が起きる可能性が高い地域には、絶対に住みたくない。ましてや、都心部や仙台市街地、東海地方の名古屋や静岡などの都会には住みたくないと思うのが当然である。

 ところが、最近になって都心部のマンションに人気が集中しているという。やはり、職住が近いところに住むと通勤時間が少なくて済むし、買い物やレジャーに便利なこともあり、都心部のマンションが売れているらしい。判断基準が安全第一ではなくて、便利さを求めた結果であろうが、地震の起きる確率を考えたら、空恐ろしい感じがする。地震の起きる確率を認識していて、都心部のマンションを選択しているのなら仕方ないと思うが、おそらく地震が起きることを忘れて、安全だと勘違いしているのではないかと思われる。昔から、災害は忘れた頃にやってくるという諺がある。しかも、地震・雷・火事・親父と言われるように、地震は一番怖いということを、けっして忘れてはならないのである。ここ白河なら、安心して住めると思うのだが…
自然と人間 [2010年04月30日(Fri)]
 昨日は時間があったので、見ようと前から思っていた地球交響曲第3番を鑑賞した。アラスカでヒグマに襲われ、一命を落とした写真家星野道夫氏とその仲間たちを紹介していた。TV局のクルーと一緒にヒグマの取材をしていて、事故に遭ったという。ヒグマの写真を撮り続けていて、いつか襲われるかもしれないとインタビューに答えていた彼の映像にびっくりした。彼は、自分の未来を予想していたのであろう。豊かな自然の中に長く住んで居ると、精神は研ぎ澄まされてきて、自分の未来さえも見えてくるのかもしれない。

 人間という生き物は、自然によって生かされている。現代人は、そんな当たり前のことを普段忘れ去ってしまっている。特に、都会の便利な生活に馴れ過ぎてしまうと、自然なんてものは、生活するのに必要だなんて思わないし、どちらかというと風雨や雪などは生きるのに邪魔なものにしか感じられなくなる。だから、自然とは人間が克服すべきものという欧米的な自然観を、知らず知らずのうちに持ってしまうのであろう。

 そもそも、古来からの日本人の自然観は、自然とは共に生きるものであり、人間の力ではどうしようもないものだとする。であるから、自然とは時に人間に対して多大な被害やしっぺ返しをする存在として認識していたのだ。自然=神として、かしこみもうす存在であった。つまり、自然とは人智を越えた存在なので、畏敬するしかなかったのである。自然とは、人間の力ではどうしようもないのであり、そのまま受け入れるしかなかったのである。

 そういう自然観の中で、人間は自然に対して謙虚にならざるを得なかったし、自然と共に生きるという道を選んだのであろう。現代において、自然に対する謙虚さを忘れ、傲慢な態度を取り始め、そして、それは一般の生活態度にまで及んでしまった。そんな人生観が、自然だけでなく周りの人間に対しても、傲慢な態度を取るに至ったという分析も間違いではないだろう。そのお陰で、家庭でも職場でも、そして地域においても人間関係は最悪の状態になり、様々な問題を惹起してしまっていると言えよう。

 それなら、どうしたら解決されるかというと、やはり人間は自然立ち返るしかないと断言できる。偉大なる自然の中では、いかに賢い人間と言えども、完全に無力である。そのことを自然に身を置くことにより実感して、謙虚になりえるのである。その感覚は、いくら机上で学んでも、理解できない。あくまでも、体感・実感しなければ分からないことである。地球交響曲を監督している龍村仁氏も、熱っぽくそのことを語っている。出来れば、子供のうちから自然が豊かな田舎で育てることが必要だが、せめてGWに田舎に連れて行き、自然に親しませてはどうだろうか。
東南海地震被害予測(読売新聞) [2010年04月22日(Thu)]
3地震同時発生、想定死者・静岡で8100人

 内閣府は21日に開かれた中央防災会議で、「東海」「東南海」「南海」の3地震が同時に発生した場合の都府県別の被害想定を初めて公表した。

 政府が今年9月に計画している3地震の同時発生を想定した総合防災訓練をにらんでの公表。8100人の静岡県や4900人の高知県など死者数が1000人超となるのは6県にのぼると推計され、中井防災担当大臣は会議後、3地震の同時発生を想定した対策大綱などの策定を検討する意向を示した。

 東海地震は駿河湾周辺、東南海地震は静岡県沖から紀伊半島沖、南海地震は紀伊半島沖から四国沖を震源とし、それぞれ100〜150年間隔で発生しているマグニチュード8クラスの巨大地震。1707年の「宝永地震」は3地震の同時発生と推定されている。同会議の専門調査会は、東海地震、東南海・南海地震が発生した場合の都府県別の被害想定を2003年に公表していたが、3地震の同時発生を想定した被害想定については、全国の被害総数を公表したのみで、都府県別の値は未公表だった。

 今回公表された被害想定は、風速15メートルの強風下で朝5時に地震が発生し、全国の死者数が最大となるケース。その場合、全国の死者数は2万5000人に上り、このうち、静岡、高知、和歌山、三重、愛知、徳島の6県で死者数が1000人を超えるという。

 最も被害が大きい静岡県では、建物倒壊による死者が6600人、津波、火災、土砂災害による死者がそれぞれ500人と予想されている。また、津波の被害が甚大と想定されるのが和歌山県と高知県で、住人の避難意識が低い場合、死者はそれぞれ3300人と2900人に達するという。

(2010年4月22日06時53分 読売新聞)

■以下、この記事に関する感想
この報告では、浜岡原発による二次災害や、地域に多くある石油LNG施設の爆発炎上による災害を考慮には入れてないらしい。震度6強以上の地震に果たして耐えられるのかどうかは不透明だとする専門家は多い。新潟県で起きた地震でも、原発の地震に対する脆弱性が指摘されていた。堅い岩盤であれば、揺れは相当抑えられるが海岸近くにある該当施設は、揺れが増大すると見られる。これは、内閣府が出している資料も認めている。それなのに、一切考慮していないというのは、おかしいのではとする人たちも多いようである。いずれにしても、原発やエネルギー施設を管理する人は、謙虚になりもう一度耐震強度を見直してほしいものである。
地震の発生予知は当たるのか? [2010年04月21日(Wed)]
 いろんな人から、近々大震災級の地震が起きるから注意しろというメッセージが入ってくる。ええ、本当に起きるのかと半信半疑ながら、ずっと地震の予知をしているサイトでは、間違いなく起きるとしている。こういうサイトはいかがわしい処だろうと思う人も多いが、実は過去の大きな地震を予測しているサイトも多い。また、個人的に予知している人もかなりの数に上る。勿論、外れることもあるし、人騒がせな人がいるのも事実である。

 ところが、今回はそういう予知サイトの人々でなくて、かなり社会的地位や名誉のある人々が予想している点が大変気になるところである。例えば、公立学校の校長先生やある役所の地位のある人、大学の先生というような自然科学に対する知識が豊富な人がこぞって予想しているのである。そういう人々は、いざ地震が起きた場合のことを考えて、水や食糧を1ケ月分くらい備蓄しているという。科学的な根拠もあるので、信用度も高いらしい。本気で地震が起きると思っているらしいのだ。

 私はというと、半分信じているというところだろうか。ある程度の予測はあるものの、ここ白河については地震の被害もないだろうからと、安心しているせいかもしれない。ここ白河は、震度6弱以上の地震が30年以内に起きる確率は、0.1%未満だと政府機関が発表している。さらに内閣府では、ここ白河の地盤が相当に固いので、揺れが大きくなる可能性は極めて低いというデータを示している。だから、地震が起きないし起きても揺れないと、国が証明してくれているようなものである。だから、ここ数日間はなるべく白河から出ないようにしていたし、外出を控えたいと思っている。

 さて、地震の予知は外れたほうがいいに決まっている。でも、地震予知サイトを眺めていると、どうやら地震が起きてほしいと願っているような人が多いようだ。勿論、予知を信じて振り回されるのは困るが、予知が当たったとしても、それを信じて事前に準備しておけば、被害が少なくて済む。特に、生命に関わるような地震ならば、信じて行動した人と信じなかった人では、大きな違いが出てくる。ここ何日間かは、地震が起きない場所に行くことを心がけたいものである。連休期間お出かけする場合も、白河のように安全な処に行くことを勧めたい。
花見と桜 [2010年04月07日(Wed)]
 この時期になると、花見をしたくなるのは日本人なら当然だろう。幼少時には、美味しいものにありつけるから花見を待ち望んでいたし、若い頃は花見と称して酔って騒ぐのが目的だった。50代ともなると、純粋に桜を愛でたいと思うようになっている。逆に、花見弁当なんかは質素でもいいし、酔って大騒ぎしている花見客を見ると、眉をひそめたくなる。もう少し、桜そのものを楽しんでもいいのではないかと思えてくる。やはり、年を重ねたせいであろうか。

 首都圏で花見の名所と言うと、代表的な処では上野公園である。花見の時期になると、多くの花見客でごったがえす。週末ともなると、酔客で大騒ぎであるし、歩くのもままならないくらいの人出になる。不景気ということも影響しているのかもしれないが、お店での花見でなく、昔ながらのゴザならぬブルーシートを敷いての花見の宴が、それこそ花盛りである。こうなってしまうと、風流などという言葉は似合わない。花びらが舞うのを見て、哀れを感じるなどということは、及びもつかないのが残念である。

 それじゃ、地方の花見はどうかというと、同じように花見の宴を催している場所は多い。しかし、それでもあれほど多くの人はいないし、静かに花見を楽しもうということも可能である。ここ白河は、有名な花見の場所としては二箇所ある。ひとつは、白河小峰城があるお城山公園と南湖公園(なんここうえん)である。どちらも、ソメイヨシノの古木や紅枝垂れ桜があり、それはそれは美しい桜絵巻を披露してくれる。また、県内三大名桜と呼ばれるうちのひとつ、乙姫桜もある。これは、妙関寺の境内にある伊達政宗公ゆかりの紅枝垂れ桜である。乙姫の衣のように、ピンクの色が鮮やかであることから名づけられたと聞き及ぶ。

 白河市内には、この他にもたくさんの桜の名所がある。各お寺や小中学校の庭には、桜が植えられていて、子どもたちは勿論、市民の目を楽しませている。特に、白河実業高校の桜は見事であるし、第一小学校への坂に植えられている桜もまた見事である。しかし、不思議なことに地元の人々は、あまりにも美しい桜が各所にある為に、その有難さを実感していないのである。非常にもったいないことではあるが、生まれてからこのかた、小さい頃から当たり前のようにずっと見続けてきたものは、あって当然なのである。だから、ちっとも有難がらないのである。有難いという言葉の語源のとおりであろうと思われる。

 であるから、他所から来た者にとっては、非常に有難いのである。特に、首都圏や都会から来た方たちにとっては、垂涎の的となるような桜が沢山あるので、本当に堪えられないという。なにしろ、桜だけでなくその桜があるシチュエーションがいいのである。お城や仏閣を背景にした桜は、何とも言えない雰囲気である。遠く那須連峰を借景にして、湖面に映る桜とのコンビネーションは、満点である。いくら立派で美しい桜でも、その背景や周りにある雰囲気が大切なのである。特に、桜というのは華やかさと同時に哀れさやわびさびをも表現する。散り際の潔さもまた美しい。桜というのは、その周りの風景と共に愛でるものである。今年もあと10日ほどすれば、白河ではそれらの風景を楽しめる。待ち遠しいものだ。
センス・オブ・ワンダー [2010年04月04日(Sun)]
 あまりにも有名な「沈黙の春」を著したレイチェルカーソンの、隠れた名作『センス・オブ・ワンター』を知っている人はあまりないようだ。センセーショナルな内容の沈黙の春に比較すると、あまりにも地味な作品だからかもしれない。でも、内容的にはとても素晴らしいエッセイである。人々が心豊かに生きるために必要な、驚きの感性(センス・オブ・ワンダー)をどうしたら身に付けられるかを、美しい自然の写真と共に、切々と説く名作である。

 レイチェル・カーソンは農薬などの無節操な使用による環境破壊に警鐘を鳴らした人である。先進国における農薬被害を、最小限に留めた功績は多大なものがある。米国においては、その後、農薬会社と結託した共和党政権が、大々的な反レイチェル・カーソン宣伝活動を展開して、彼女の功績を貶めたが、日本を始めとして多くの国では、彼女のおかげで農薬による健康被害を防げたと言っても過言ではない。そのレイチェル・カーソンが、ある事情で養育するようになった甥と共に過ごす自然の中で気付いたことを、淡々と記したのがこの本である。

 この本の中で、こう記した一節があるので紹介しよう。「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない『センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性』を授けてほしいとたのむでしょう」と綴られている。何と素晴らしい考え方ではないだろうか。

 彼女は、この本の中で、こうも言っている。このセンス・オブ・ワンダーを、大人になっても持ち続けることができたなら、くだらないものや無価値なものなどに心を奪われることもなく、人間としての大切なものを見失わずに生きていけるとも断言している。つまり、大人になって、モノや金、ギャンブルや様々な欲望などに惑わされることがない人生を送る為には、センス・オブ・ワンダーを身に付けることが肝要だと説いているのだ。そして、このセンス・オブ・ワンダーを身に付けるのは子どものときであり、傍らにこのセンス・オブ・ワンダーを授けられる大人がいる必要があるとも力説している。

 現代の大人や若者たちが、お金やモノに心を奪われてしまい、本来大切な心豊かな生き方を出来なくなったのは、このセンス・オブ・ワンダーを身に付けることなく育ってしまったからではないだろうか。こういう時代が来ることを、レイチェル・カーソンは予想していに違いない。だとすれば、豊かな自然がないところで子どもを育てるべきではないという結論を導きだすことになる。したがって、子育てはやはり田舎でするべきだ。この大切なセンス・オブ・ワンダーを育むのは、都会では無理である。田舎暮らしでなければ、このセンス・オブ・ワンダーを豊かにすることは出来ないのだから。

※レイチェル・カーソンがこよなく愛した花、それがこのゴゼンタチバナだ
満月と地震の関係 [2010年03月29日(Mon)]
 満月というのは、地震が起きる確率が高いという説があるらしい。月の引力が影響するという説だ。満月と対極にある新月の際も同じだという。地震予知のサイトでは、最近の動物や魚の異常行動によって、大地震が起きると予測している。こういう手のサイトは、いつものことだからと、聞く耳を持たない人々が多いが、ある程度は予測して地震に対する備えをしておいたほうがいいだろう。

 月齢によって潮の満ち引きが影響して、大潮と小潮が起きることは周知のことである。昔から、月齢によって漁師は漁の計画をしていた。大潮の時に釣れる場所や魚と、小潮のときのほうが釣れるのもある。月の引力によって海水が隆起したりするのは、すごいことだ。一方、地面や地下にもその影響があると言われている。一説によると、なんと満月のときは地球のたわみが最大40センチにもなると言われているらしい。

 地球の断層付近のたわみが最大値になったときに、満月や新月の影響によって、そのたわみが弾けるということは起こりうる。したがって、大地震が起きるというのは、その時期に多くなるということだ。今、まことしやかに語られているのは、ここ何日間の間に、大きな地震が起きそうだという噂である。もし、それが本当ならば気を付けなければならない。明日の午後あたりが、その満月になるという。

 出来ることならば、地震が起きそうな時間は、海岸や埋立地、そして大都会には居ないほうがいい。地震の被害に遭いやすいからだ。特に首都圏の都心部からは、出来る限り避けたいものである。ビルの崩壊も危ないし、なにしろ安全な避難場所がないのである。最初の地震でも被災するが、実は二度目三度目の大きい余震によって被災する例が多い。一度目の揺れで弱くなったビルが倒れる例が、実に多いのだ。もし可能ならば、地震の災害が少ない白河にでも避難することをお勧めしたい。
プロフィール

Naturalさんの画像
リンク集
https://blog.canpan.info/inakagurasi/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/inakagurasi/index2_0.xml