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親鸞 [2010年04月18日(Sun)]
 親鸞は、浄土真宗を起こした宗祖である。その若いときの半生を描いたのが、五木寛之の書いた小説「親鸞」である。この手の小説というと、あまりにも仏教の教説の解説的なものになりやすいきらいがあり、退屈なものが多い。しかし、この「親鸞」は新聞に連載されていたせいか、非常にドラマチックな内容になっていて、読むものを惹き付ける。若き親鸞の苦悩や生き様を描写していて、なかなか面白い。とは言いながら、専修念仏の大切なエッセンスは抑えてあり、仏教を学ぶきっかけにはなるように思う。

 親鸞は悪人正機説というあまりにも有名な教えを説いている。「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」というあの言葉である。私は、この説がどうしても納得できないでいた。浄土真宗の住職にも、どうしても理解できかねると反論をしながら尋ねたことがある。丁寧に説明はしてくれたが、どうにも腑に落ちないでいた。悪の限りを尽くした極悪人が何故極楽往生を遂げることが出来るのであろうか。それなら、この世で善を積めと教えている意味がないではないかと憤りまで感じていたのである。

 この小説を読むと同時に、親鸞についてのいくつかの論文を読んで、何となく親鸞の言わんとしていることが、おぼろげながら理解できるような気がしている。この悪人正機説もそうであるが、『他力本願』という言葉の意味するところも、理解しつつあるように思う。この悪人正機説や他力本願という教えは、とても誤解を受けやすい。その真意を理解するのは、難しい。私も、50半ばという齢に達したおかげで、ようやく解りかけたのである。若い人に理解を求めるのは、所詮無理というものであろう。

 ここでいう悪人というのは、おそらく煩悩を捨てきれない我々凡人のことであろう。悟りを開くことが出来るのは、ごく少数であり多くの人は、欲望や執着を捨てきれないでいる『悪人』である。そういう悪人でありながら、誰でも南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰依します)という念仏を一心に唱えることにより、救われて極楽浄土に行けるのだと説いているのだ。そして、他力本願の対極にある自力本願は、危ういと言う。何故なら、この世で善を懸命に積むというのは、救われたいと思うからである。その心の奥底にあるのは、やはり欲望や執着を捨てきれないからこその善行だというのだ。極楽往生できるかどうかは、自分で決めることではなくて、もっと大きな力によって決められるのだという。つまり、他力本願なのだと説いているのである。一心に念仏して、身を任せるのが大切だということらしい。

 この世は不安の社会だと言われている。皆不安を抱えて生きているから、パニック障害やうつ病になるのではないだろうか。それは、とりもなおさず自分が今抱えている何かを失ってしまうのではないかという不安である。職や住まい、地位や名誉、お金やモノ、愛する人や幸せなど、今持っているものを亡くしてしまうのではないかという不安である。だからこそ、今あるものを無くさないように無理をしてしまうのであろう。つまり、欲望や執着に惑わされる悪人なのかもしれない。そういう人も間違いなく救われると説いたのが親鸞である。親鸞が説くように、我々の力ではいかんともしがたい大きな何かによって生かされ、そして極楽浄土に導かれるというのなら、不安を捨てて、身を任せてもいいのかもしれない。
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