障がい者なんて不必要だ?
[2016年07月29日(Fri)]
7月26日の未明に起きた、あまりにも残忍な無差別殺人事件は、多くの人々を震撼させた。施設を辞めさせられた腹いせもあったらしいが、この犯人は、「この世に障がい者なんていらないんだ」とも嘯いていたと漏れ聞く。そして、今回はあえて重複障がい者を狙ったという。これが真実だとすれば、障がい者施設で働いていたにも関わらず、どうしてこんな低劣な価値観を持ってしまったのかと呆れるばかりだ。何故こんなにも低い価値観の人間に成り下がってしまったのか、親もそして学校でも、しっかりとした人間教育をしてこなかったのかと悔やむことしきりである。
障がい者は社会の役に立たない存在だから、そして障がい者のために多くの税金を使うのはもったいない。故に障がい者はこの世に不必要だと思っているのはこの犯人だけではないような気がする。障がい者や介護老人は、特定の施設に生活するケースが多い。社会の中に当たり前に存在せず、目にしたり関わったりすることが少ない。だから、殆どの人は障がい者の方々と心から触れ合ったり話し合ったりする経験をしない。心の交流がないのだから、不要な人達だなんて不遜な考えになるのも仕方ない気がする。私は、十数年に渡り障がい者の方々と、不十分ながら交流してきた。障がい者の方たちは、けっして無用な人達ではないことを、身を持って知っているのだ。
人間を超越した偉大なる宇宙の創造主が、この世に存在する意味のないものを生み出す訳がない。この世には障がい者の方々も含めたいろんな生物多様性を持った存在が必要なのではなかろうか。この生物多様性があるからこそ、我々人類は多くの気付きや学びをすることが出来るし、それは障がい者の方々も同じである。米国では、障がい者の方々や様々なハンディキャップを持たれた方々を「チャレンジド」と呼ぶ人が多数存在する。この世に生まれた意味が、ハンディキャップを持たない人々よりも、より大きなチャレンジをすることが可能だという意味である。
我々だって、よくよく観察すれば不完全なところが多数存在する。いたらない点や身勝手で自己中心的な貧しい心を持っている。今回犠牲になられた重度の知的障がい者の方々が、本当に純粋で清らかな心を持っていて、けっして他人を傷つけようとはしないことを知っている。そんな姿を見て、我々は自分の至らなさに気付き反省することもある。障がい者の方々こそ、この世に存在する意味があるのであり、けっしてなくなってはならない貴重な存在であると確信している。
さらに、障がい者の方たちは自分たちの抱えたハンディキャップを認め受け容れて健気に生きていらっしゃる。私たちはそういう姿に心を打たれ、自分の勇気を奮い立たすことだってあるのだ。または、知的障がい者の方々が、自分のインナーチャイルドを素直に悪びれず、なんの躊躇もせずに見せてくれる姿を見るに付け、なんと自分は自分を偽って生きているんだろうと反省することが多々ある。知的障がい者の方々は、偽善的な行動をあまりしない。それに比べて、私たちがいかに偽善的な行為をしていて、いい人間を演じていることに恥ずかしさを覚える。
このように、障がい者の方々がいるからこそ、私たちは自分の至らなさや未熟さを思い知らされるのである。そして、障がい者の方たちと我々が交流することで、彼らもまた多くの気付きや学びをしていると思う。私たちもまた、心に大きな障害を抱えていることを彼らはしっかりと見抜いているのである。そのことを彼らは態度には出さないで、私たちを温かく迎えてくれているのだ。このような事実を、我々はしっかりと受け止め、二度とこのような悲惨な事件が起きない様に、子どもたちに障がい者との交流の場を提供し、教育をしっかりしていかなければならない。
障がい者は社会の役に立たない存在だから、そして障がい者のために多くの税金を使うのはもったいない。故に障がい者はこの世に不必要だと思っているのはこの犯人だけではないような気がする。障がい者や介護老人は、特定の施設に生活するケースが多い。社会の中に当たり前に存在せず、目にしたり関わったりすることが少ない。だから、殆どの人は障がい者の方々と心から触れ合ったり話し合ったりする経験をしない。心の交流がないのだから、不要な人達だなんて不遜な考えになるのも仕方ない気がする。私は、十数年に渡り障がい者の方々と、不十分ながら交流してきた。障がい者の方たちは、けっして無用な人達ではないことを、身を持って知っているのだ。
人間を超越した偉大なる宇宙の創造主が、この世に存在する意味のないものを生み出す訳がない。この世には障がい者の方々も含めたいろんな生物多様性を持った存在が必要なのではなかろうか。この生物多様性があるからこそ、我々人類は多くの気付きや学びをすることが出来るし、それは障がい者の方々も同じである。米国では、障がい者の方々や様々なハンディキャップを持たれた方々を「チャレンジド」と呼ぶ人が多数存在する。この世に生まれた意味が、ハンディキャップを持たない人々よりも、より大きなチャレンジをすることが可能だという意味である。
我々だって、よくよく観察すれば不完全なところが多数存在する。いたらない点や身勝手で自己中心的な貧しい心を持っている。今回犠牲になられた重度の知的障がい者の方々が、本当に純粋で清らかな心を持っていて、けっして他人を傷つけようとはしないことを知っている。そんな姿を見て、我々は自分の至らなさに気付き反省することもある。障がい者の方々こそ、この世に存在する意味があるのであり、けっしてなくなってはならない貴重な存在であると確信している。
さらに、障がい者の方たちは自分たちの抱えたハンディキャップを認め受け容れて健気に生きていらっしゃる。私たちはそういう姿に心を打たれ、自分の勇気を奮い立たすことだってあるのだ。または、知的障がい者の方々が、自分のインナーチャイルドを素直に悪びれず、なんの躊躇もせずに見せてくれる姿を見るに付け、なんと自分は自分を偽って生きているんだろうと反省することが多々ある。知的障がい者の方々は、偽善的な行動をあまりしない。それに比べて、私たちがいかに偽善的な行為をしていて、いい人間を演じていることに恥ずかしさを覚える。
このように、障がい者の方々がいるからこそ、私たちは自分の至らなさや未熟さを思い知らされるのである。そして、障がい者の方たちと我々が交流することで、彼らもまた多くの気付きや学びをしていると思う。私たちもまた、心に大きな障害を抱えていることを彼らはしっかりと見抜いているのである。そのことを彼らは態度には出さないで、私たちを温かく迎えてくれているのだ。このような事実を、我々はしっかりと受け止め、二度とこのような悲惨な事件が起きない様に、子どもたちに障がい者との交流の場を提供し、教育をしっかりしていかなければならない。
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