映画の楽しみ方
[2015年02月08日(Sun)]
映画は実に面白いと思う。しかし、世の中には映画そのものを楽しむよりも、映画そのものを批判したり批評したりすることを無上の喜びと感じる人もいるようだ。それも一つの映画の楽しみ方ではあるが、何となくそれでいいんだろうかと不思議に思う自分もいる。何故ならば、映画を批評的に観るということは、良い部分を探すこともあるにはあるだろうが、どちらかというと悪い部分や劣っている部分を探すということである。映画の脚本、演出、演じ方、演技の技能、音楽、洋服、道具、キャスティング、いろんな部分の基準を予め設定し、それに見合うのか見合わないのかを見極めようと真剣に映画を観ている様子を想像したら、実に可哀想だなと思ってしまう。
映画評論家で映画の批評を飯のタネにしているなら、こういった観方も当然である。アマチュアである私らが、こういうふうに映画を批判的に観たとしたら、そちらに心が持っていかれてしまい、映画を純粋に楽しむことが出来なくなりはしないかと心配してしまうのである。そして、こういう人は映画を観てきた後に、SNSやフェイスブックなどで映画批評を事細かに書き記している。映画を観ている間も、どんな批評を書くかで頭が一杯になっているに違いない。何の為に映画を観ているのか解ったものではない。映画を楽しむという本来の歓びを忘れているとしか思えないのである。
映画はひとつの芸術であり、しかも私達に気付きや学びをさせて自己成長を手助けしてくれる手段でもある。映画の技術や出来栄えなんて、私たちにとってはたいした意味を持ち得ない。一方、エターティンメントの一つだから、私たちにとことん楽しみを提供させてくれるだけでいいとする意見もある。だとしても、映画の出来具合を細かい所まで、チェックする必要はないだろう。インターネットが発達した現代だから、日本人の皆が総批評家になって映画の批評をすべきだと説くネット評論家もいるかもしれない。しかし、こういう映画の観方をしていたのでは、映画そのものの大切な主題を見逃してしまうかもしれないし、感動できないかもしれない。実にもったいないではないだろうか。
映画の楽しみ方は人それぞれだから、どのように観たっていいじゃないかという人も多いに違いない。しかしながら、映画を企画して作り上げた映画人たちの強い想いというものはあろうかと思う。映画をひとつの娯楽として純粋に楽しんでもらいたいということと、映画を観て何かを考えるきっかけにするとか、何かの気付きや学びをすることでより豊かな人生を獲得して幸せになってもらいたいと思っている映画人も少なくないだろう。そんな願いを込めて映画を真剣に作っている人もいるかとも思う。それなのに、映画のテクニックがどうのこうのという部分にばかり気をとられて感動もせず、映画本来の楽しみ方が出来ないというのは、魂を込めて作った映画製作者達から見たら、残念なことに違いない。
感動するということは、どういうことだろう。多くの人々は何か素晴らしい体験経験をして、心がうちふるえることが感動だと思っているのではないだろうか。しかし、本当の感動とは少し違うらしい。あいだみつをさんは、「感動とは、感じて動くことなんだよな」と書き記している。天台宗の宗祖である伝教大師最澄も同じことを仰っておられる。ただ心で感じるだけでは不十分で、そのことを身体の動き、または行(ぎょう)として行なわないと、本当の感動ではないと説いているのである。映画を観て、感動するということは感涙したり嗚咽したり、またはその感動を人に伝えたり日記に書いたり、はたまた感動したことを自分の行動規範に取り入れて実践することが、本当の感動であるということらしいのだ。
映画を観て、その映像技術や演出の巧拙、演技の能力や稚拙さ、キャスティングの間違いなどの粗探しをしていては、感動なんておぼつかないであろう。そうすると、感じて動くということなんて、絶対に出来そうもないのである。映画を観ながら登場人物に感情移入して、登場人物の気持ちになり切って共感したり共鳴したりしなければ、感動することは叶わない。映画にどっぷりと入り込まないと、主人公の感情を共有することが出来ないように思う。こういう共感を何度も繰り返すことで、人は『慈悲』の心を育てていくことが出来るのではなかろうか。相手の悲しみを我がことのように感じる『慈悲』の心を持てない人々が増えているのは、映画やドラマを観る時に第三者として客観的にしかも批評的に観る人が増えたからではなかろうか。だから、映画は純粋に楽しんでほしい。
映画評論家で映画の批評を飯のタネにしているなら、こういった観方も当然である。アマチュアである私らが、こういうふうに映画を批判的に観たとしたら、そちらに心が持っていかれてしまい、映画を純粋に楽しむことが出来なくなりはしないかと心配してしまうのである。そして、こういう人は映画を観てきた後に、SNSやフェイスブックなどで映画批評を事細かに書き記している。映画を観ている間も、どんな批評を書くかで頭が一杯になっているに違いない。何の為に映画を観ているのか解ったものではない。映画を楽しむという本来の歓びを忘れているとしか思えないのである。
映画はひとつの芸術であり、しかも私達に気付きや学びをさせて自己成長を手助けしてくれる手段でもある。映画の技術や出来栄えなんて、私たちにとってはたいした意味を持ち得ない。一方、エターティンメントの一つだから、私たちにとことん楽しみを提供させてくれるだけでいいとする意見もある。だとしても、映画の出来具合を細かい所まで、チェックする必要はないだろう。インターネットが発達した現代だから、日本人の皆が総批評家になって映画の批評をすべきだと説くネット評論家もいるかもしれない。しかし、こういう映画の観方をしていたのでは、映画そのものの大切な主題を見逃してしまうかもしれないし、感動できないかもしれない。実にもったいないではないだろうか。
映画の楽しみ方は人それぞれだから、どのように観たっていいじゃないかという人も多いに違いない。しかしながら、映画を企画して作り上げた映画人たちの強い想いというものはあろうかと思う。映画をひとつの娯楽として純粋に楽しんでもらいたいということと、映画を観て何かを考えるきっかけにするとか、何かの気付きや学びをすることでより豊かな人生を獲得して幸せになってもらいたいと思っている映画人も少なくないだろう。そんな願いを込めて映画を真剣に作っている人もいるかとも思う。それなのに、映画のテクニックがどうのこうのという部分にばかり気をとられて感動もせず、映画本来の楽しみ方が出来ないというのは、魂を込めて作った映画製作者達から見たら、残念なことに違いない。
感動するということは、どういうことだろう。多くの人々は何か素晴らしい体験経験をして、心がうちふるえることが感動だと思っているのではないだろうか。しかし、本当の感動とは少し違うらしい。あいだみつをさんは、「感動とは、感じて動くことなんだよな」と書き記している。天台宗の宗祖である伝教大師最澄も同じことを仰っておられる。ただ心で感じるだけでは不十分で、そのことを身体の動き、または行(ぎょう)として行なわないと、本当の感動ではないと説いているのである。映画を観て、感動するということは感涙したり嗚咽したり、またはその感動を人に伝えたり日記に書いたり、はたまた感動したことを自分の行動規範に取り入れて実践することが、本当の感動であるということらしいのだ。
映画を観て、その映像技術や演出の巧拙、演技の能力や稚拙さ、キャスティングの間違いなどの粗探しをしていては、感動なんておぼつかないであろう。そうすると、感じて動くということなんて、絶対に出来そうもないのである。映画を観ながら登場人物に感情移入して、登場人物の気持ちになり切って共感したり共鳴したりしなければ、感動することは叶わない。映画にどっぷりと入り込まないと、主人公の感情を共有することが出来ないように思う。こういう共感を何度も繰り返すことで、人は『慈悲』の心を育てていくことが出来るのではなかろうか。相手の悲しみを我がことのように感じる『慈悲』の心を持てない人々が増えているのは、映画やドラマを観る時に第三者として客観的にしかも批評的に観る人が増えたからではなかろうか。だから、映画は純粋に楽しんでほしい。
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映画は、不思議なものでありまして、映画製作者たちが自分達が意識しないことを知らす知らずのうちに描いてしまうことがあります。それは、スピリチュアルな深層無意識がなせる技だと思うのですが、そういう感覚を受け取るには、還元分析主義の見方では、絶対に無理だと思うのです。そんな映画の奥深い部分まで楽しむには、映画にどっぷりと浸からないと出来ないかなと思います。