系図を読み解く [2015年01月31日(Sat)]
これまで何度か取り上げている大仙寺木田院碑の前半には、「木田氏は清和源氏源満仲の流れをくみ(弟の満政の時から)、摂津多田郷に在ったが、承久年間の重長の時代に将軍頼経に従って軍功あり、美濃守に任ぜられ美濃木田庄を領し、ここに木田氏が始まった」とあります。 実家に伝わる木田太右衛門家の系図(木田中村之系図と満仲から始まる木田中村之本系図 略傳の二巻)によれば、木田三郎重長(鎮守府将軍従四位下山田治部太輔満政から数えて六代の出羽守従五位重遠三男、濃州東有武郷木田を領す)から始まって、応仁の乱の頃、木田又三郎義且の時に摂州多田庄に帰り塩川氏に仕えたとあります。この系図の奥書によれば、神保元仲の校正で正徳元年(1711)に作成されています。ちなみに、慶応元年(1865)にこの系図を写したものが名古屋大学図書館に所蔵されています。 写真は木田中村之系図の最初の部分
上記大仙寺の木田院碑の銘文は宝暦八年(1758)に、白隠禅師によって書かれたものですが、木田氏来歴の個所はこの系図に拠っているものと思われます。その銘文は続けて善氏の時には武士をやめ帰農し現在の多田神社の近くに居を構えたとあり、さらに重躬の代には浪華に移り商業を始めて成功したとあります(鉄屋庄左衛門と称し両替商を営む)。
この系図作成時期に近い時代の系譜(正しく記載されている可能性が高いと思われる)に注目し、17世紀から18世紀初めの江戸時代の人物について、大仙寺木田院碑や潮音寺(川西市東多田)石碑に登場する人物と照らし合わせることを試みています。 以下は特にこれまでつながりが明らかでなかった、潮音寺石碑に関わる人物関係を系図の最後の部分で辿ってみました(次の写真参照)。
潮音寺石碑の銘文には、中村源左衛門(摂州東多田村の人)が叔父の木田高吉(大坂に開いた舖が川崎屋)のもとで働くことになったが、天和三年(1683)十二月六日長崎へ向かう船の海難事故で亡くなった状況(碑文では人柱となったとある)や、生前の業績を称え顕彰する内容が刻まれています。ちなみに潮音寺はこの源左衛門を開基として建てられたお寺で、この石碑はお寺の説明によると、安永三年(1774)に、川崎屋五代目当主の木田徳蔵知義が功徳主として、その縁者代表として中村作右衛門為重が世話役となって立てられたそうです(石碑の最後に木田知義立石とある)。 上記の系図で、初代鉄屋(庄右衛門尉)を推定し、初代川崎屋の木田高吉(系図では四郎右衛門尉高吉)とその姉に当たる女(中村五郎兵衛妻、作右衛門母)を見つけることが出来ました。中村源左衛門は中村五郎兵衛の子であることより、高吉と叔父・甥の関係であることが明らかとなりました(川崎屋五代目の木田徳蔵知義はこの時点では未記入)。なお、中村家の系譜については、地元郷土史研究家の中西顕三氏が過去帳や墓碑銘などから作成されたものを参考にさせてもらいました。また、潮音寺の先代住職夫人や中村家の子孫の方からも貴重な情報を頂きました。この場を借りてお礼申し上げます。
同じ頃に大坂へ出て商業を始めた鉄屋と川崎屋は、明和年間(1764〜1771)に川崎屋徳蔵が十人両替となり、安永七年(1778)に木田重寛が、天明元年(1781)には川崎屋三右衛門が十人両替となっています。寛政八年(1796)には木田重厚が十人両替となっています。延享年間(1744〜1747)の調べでは、当時大坂には両替仲間と称されるものが660人、このうち本両替屋24人、更に十人衆と唱え幕府に対し表御用を勤めるもの8名がいたようです。(『大阪商業史料集成 第四輯』「両替屋雑記」より)。
十人両替については参考までに『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説を引用しておきます。 「江戸時代、大坂の両替商(本両替、南両替、銭両替)を統制するため、本両替仲間の行司から選任され、公用を勤めた代表的両替商。1662年(寛文二年)幕府が初めて小判の買い入れを天王寺屋五兵衛ほか2名の両替屋に命じ、1670年、鴻池、平野屋などを加えてその数が10名となったことから呼称されるようになった。しかし、10名は定数ではなく、7名ないし5名に減少した時期もあった。大坂を中心とした手形取引の統制や金銭相場の監督、本両替中の取り締まりを主業務としたが、幕府御用金調達には大きな役割を果たした。その選任は大坂町奉行が行い、報酬として帯刀が許され、家役が免ぜられた。」(岩橋 勝)
これまでの関連記事 ・大仙寺の木田院碑 https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/783 https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/836 https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/879 ・両替商 https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/939 ・潮音寺の石碑 https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/944
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講演会「有間皇子と紀伊国」 [2015年01月29日(Thu)]
更新が遅れましたが、今月中旬(1/15)、大阪府立大学で「万葉の道を歩く」第12回目の講演会がありました。村田右富美先生が「有間皇子と紀伊国〜万葉と歴史のはざま〜」と題して講演されました。
有間皇子に関しては、『日本書紀』では斉明天皇四年(658)条に、天皇が紀温湯(きのゆ)に行幸中の留守の間に皇子が謀反の決意を蘇我赤兄に漏らし(十一月三日)、その直後赤兄の手に捕えられ(同五日)紀温湯の中大兄皇子のもとに送られ(同九日)、十分な詮議もなく藤白坂で絞首刑となった(同十一日)ことが記されています(事件の急展開の一方、斉明天皇の帰京は二カ月近く経ってからの翌斉明五年(659)一月三日)。この事件については、中大兄の指示による有間皇子抹殺のための赤兄による挑発とする説もあるようです。
『万葉集』では、斉明四年紀伊行幸時の歌が巻一の雑歌に4首(巻九にも1首)ありますが、いずれも事件とは関係のない旅の中での明るい歌です。 有間皇子関係の歌としては、巻二の挽歌に皇子が自ら悲しんで松の枝を結ばれた時の歌二首に続き、後の人が結び松を見て皇子を偲んで詠んだ歌が載っています(巻九にも1首)。 まず有間の皇子の歌は、 【歌】 岩代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば またかへり見む (A-141) 【口語訳】 岩代の 浜松の枝を 引き結んで 幸い無事でいられたら また立ち帰ってみることもあろう 【歌】 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る (A-142) 【口語訳】 家に居れば 器に盛る飯を (草枕) 旅にあるので 椎の葉に盛るのか
長忌寸意吉麻呂が結び松を見て悲しみ咽んで作った歌二首(大宝元年の行幸時の作とみられている) 【歌】 岩代の 崖の松が枝 結びけむ 人はかへりて また見けむかも (A-143) 【口語訳】 岩代の 崖の松の枝を 結んだという 有間皇子は立ち帰って また見たことであろうか 【歌】 岩代の 野中に立てる 結び松 心も解けず 古思ほゆ (A-144) 【口語訳】 岩代の 野中に立っている 結び松 その結び目のように心も解けず 昔のことが思われる
山上臣憶良の追和する歌一首 【歌】 翼なす あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ (A-145) 【口語訳】 御魂は鳥のように 行き来しながら 見てもいらっしゃるだろうが 人には分からないだけで 松は知っていよう
大宝元年、紀伊国に行幸があった時、結び松を見て作った一首 (柿本朝臣人麻呂歌集の中に出ている。大宝元年(701)九月十八日に文武天皇が紀伊に行幸) 【歌】 後見むと 君が結べる 岩代の 小松が末を また見けむかも (A-146) 【口語訳】 後に見ようと思って 皇子が結んでおいた岩代の 小松の梢を また見たであろうか
大宝元年(701)十月に、太上天皇(持統)と大行天皇(文武)とが紀伊国に行幸された歌13首(雑歌の部)の中に、 【歌】 藤白の み坂を越ゆと 白たへの 我が衣手は 濡れにけるかも (H-1675) 【口語訳】 藤白の み坂を越えるとて (白たへの) わたしの衣手は 濡れてしまった
大宝元年は有間皇子事件から43年後ですが、悲劇的な最期を遂げた皇子の事は当時の人々にも伝承されており、紀伊行幸途中に岩代を通る際には、皇子の結び松と伝えられる松を見て皇子を偲んで歌が詠まれたようです。 岩代や藤白の地は20年ほど前に訪れたことがありますが、今回の講演を機にあらためて現地に出かけてみたいと思っています。
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katakago
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万葉歌の表記と韓国の玩具 柶戯(ユンノリ) [2015年01月28日(Wed)]
今年初めの井手至先生の万葉講座(1/13)で、次の歌の訓について朝鮮の玩具”柶戯(しぎ)”の実物を持参して解説されました。この関連の歌はこれまでも出てきていましたが、この度私もその実物を入手出来ましたので、その写真とともにあらためてここに取り上げておきます。
柶戯は、裏表のある四本の柶を同時に投げて、その下向き、上向きの数によって盤の上に駒を進めて遊ぶ玩具。
【歌】 左小壮鹿之 妻問時尓 月乎吉三 切木四之泣所聞 今時来等霜 (I-2131) 【読み下し文】 さ雄鹿の 妻問ふ時に 月を良み 雁が音聞こゆ 今し来らしも 【口語訳】 雄鹿が 妻問いする時に 月が良いので 空を飛ぶ雁の声が聞こえる 今来たらしいな 四句目の「切木四之泣所聞」の切木四の訓について、上記の柶戯に関連して解説されました。この玩具は当時日本でも用いられていたようで、樗蒲(ちょぼ)ともいわれ、平安時代の辞書『和名類聚抄』には和名を加利宇知とあり、日本ではカリウチと称されていたようです。そこで、切木四をカリと訓み、他にも「切木四哭之(かりがねの)」の例があります(E-948)。
柶戯の4本の目に拠って次のような表記(戯書)があります(諸伏をマニマニ、一伏三起(向)をコロ、三伏一向をツク)。
以下その例を挙げておきます。 【歌】 吾恋者 千引乃石乎 七許 頸二将繋母 神之諸伏 (C-743) 【読み下し文】 我が恋は 千引きの石を 七ばかり 首に掛けむも 神のまにまに 【口語訳】 わたしの恋の重荷は 千人引きの大石を 七つばかり 首に掛けるほどに苦しいのも 神の思召しとあらば
【歌】 春霞 田菜引今日之 暮三伏一向夜 不穢照良武 高松之野尓 (I-1874) 【読み下し文】 春霞 たなびく今日の 夕月(づく)夜 清く照るらむ 高松の野に 【口語訳】 春霞の かかっていた今日の 夕月は 明るく照っていることだろう 高松の野でも
【歌】 梓弓 末中一伏三起 不通有之 君者会奴 嗟羽将息 (K-2988) 【読み下し文】 梓弓 末の中ごろ 淀めりし 君には逢ひぬ 嘆きは止まむ 【口語訳】 (梓弓) 末の中頃 通っていらっしゃらなかった あなたにお逢いできました もうため息も出ないでしょう
次は長歌の一部を 【歌】 菅根之 根毛一伏三向凝呂尓 吾念有 妹尓縁而者 ・・・・(L-3284) 【読み下し文】 菅の根の ねもころごろに 我が思へる 妹によりては ・・・・ 【口語訳】 (菅の根の) 心を込めて わたしが思う 妹とのことなら ・・・・
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katakago
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サントリー山崎蒸留所見学 [2015年01月20日(Tue)]
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小山田遺跡現地説明会(1/18) [2015年01月19日(Mon)]
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紅花染め(続)− 染色工程を踏まえて詠まれた万葉歌 [2015年01月18日(Sun)]
先週行った紅花染めの液が残っていたので、布の種類を取りそろえてあらためて染色を行ってみました。上の写真の左(上、下)は製品の異なる絹の布、右は木綿のガーゼマフラー(上)と木綿の布(下)。染色は一回だけの操作で木綿の方がよく染まりました。絹を濃く染めるには染液を取り替えて何度も染める必要があるようです(次回に挑戦)。 万葉歌にはベニバナは、くれなゐ(原文は紅・呉藍などと表記)として29首詠まれていますが、そのなかで染色工程を踏まえて詠まれたと思われる歌があるのでいくつか載せておきます。 【歌】 紅の 深染めの衣 下に着て 上に取り着ば 言なさむかも (F-1313) 【口語訳】 紅花の 濃染(こぞ)めの衣を 下に着て あとで上に取り着たら 人がとかくうわさするだろうな 巻七の譬喩歌「衣に寄する」にある歌で、「紅の深染めの衣」は入念に深い色に染め上げた紅花染めの衣で艶麗な女性を譬え、「上に取り着なば」は世間に公にして結婚したら、の意を表すと解されています。
【歌】 紅の 八入の衣 朝な朝な なれはすれども いやめづらしも (J-2623) 【口語訳】 紅の 八入に染めた衣のように 朝ごとに馴れてきたが ますますかわいい 巻十一の寄物陳思(物に寄せて思ひを陳ぶる)歌で、「八入(やしほ)の衣」は、何回も繰り返して染めあげた衣で、入(しほ)は、染色の際色が濃くなるように染液に衣を浸す回数。上二句は、逢うたびごとに愛情の濃さが増すことの比喩の序(『新編日本古典文学全集 萬葉集』より)。
【歌】 紅の 深染めの衣 色深く 染みにしかばか 忘れかねつる (J-2624) 【口語訳】 紅の 濃染めの衣のように 濃い色に 心にしみ込んだせいか 忘れられなくなった ここでは紅花染めの染料が衣に染み込むように、相手が自分の心に深く入ったと詠まれています。
【歌】 紅の 深染めの衣を 下に着ば 人の見らくに にほひ出むかも (J-2828) 【口語訳】 紅の 濃い染めの衣を 下に着たら 人が見ている所で 赤く透けて見えはしないだろうか 譬喩歌で、『萬葉集釈注』では、「紅の深染めの衣」は美しい女を、「下に着る」にその女とひそかに契りを結ぶことを譬えて、そのことが挙動におのずから現れるのを懸念している、と解説されています。
ベニバナの赤色色素(カルタミン)を取り出す前に水で溶出される水溶性の黄色色素(サフラワーイエロー)でも染色してみました(写真の左上下が絹、右が木綿のガーゼマフラー)。
こちらも素材によって染まり具合が異なりました。
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五輪塔(木田氏中興塔)拓本の軸装完成 [2015年01月10日(Sat)]
昨年11月23日に採拓したのを軸装に依頼していたものが完成しました。正面の「木田氏中興塔」と右側面の碑文を併せて一本の軸としました。 碑文の原書は伝わっていないのですが、慶応元年(1865)に写されたものが、現在、名古屋大学付属図書館に所蔵されていることが分かりました(実家に伝わる「木田中村之系図・木田中村之本系図」の写しと一緒に所蔵。こちらがメインの文書)。昨年末そのコピーを送ってもらいました。 拓本からは、この五輪塔の建立者は、木田新左衛門重規と読めるのですが、写しのコピーでは木田新左衛門重親となっていました(写し間違いか?)。この塔は寛政二年(1790)十二月の建立で、この時期の木田家に関わる人物を他の資料から探し出せればと思っています。
昨春、大仙寺の木田院碑を見つけることが出来て以来、その碑文を頼りに祖先に関わる資料を収集してきました。今年はこれまでの知見をまとめて次の世代に残せればと思っています。とりあえず本の題名と目次を考えてみました。 『木田家のルーツを尋ねる ー 石碑の銘文に導かれて ー 』 目次 はじめに 木田氏中興塔の銘文 木田院碑(大仙寺)の銘文 木田氏の系譜 大坂の両替商 鉄屋庄左衛門 白隠禅師と木田種重 潮音寺の碑文 資料編
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木田氏ゆかりの寺を訪ねて [2015年01月04日(Sun)]
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新しき年の初めの雪 [2015年01月01日(Thu)]
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