今朝の空(朝焼け) [2013年09月30日(Mon)]
最近、日の出の時間が遅くなったせいか、起床の時間が夏の頃よりも遅れがちです。今朝(5:47)東の空に朝焼けが見られました(気づいてから数分で消えましたが)。
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犬養孝先生を偲ぶ会(十五年祭) [2013年09月29日(Sun)]
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フジバカマが咲き始めました [2013年09月27日(Fri)]
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ヨメナ(うはぎ)の花 [2013年09月25日(Wed)]
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定期尺八演奏会のお知らせ [2013年09月23日(Mon)]
5年半ほど前から、カルチャーセンターの尺八講座を受講しています。その講座で講師をされている星田一山先生が主宰される都之雨社(としゅうしゃ)の定期尺八演奏会に、今年も出演することになりました(今回で3度目)。演奏曲目は「千鳥の曲」(吉沢検校 作曲)で、これは出演者全員で暗譜で演奏することになっています。演奏には15分程かかる曲で全部覚えるのは大変です。毎週受講するカルチャーセンターでも各自の練習曲に加え、この曲を覚える練習も年初から少しづつ続け、9月からは時間の半分ほどがその練習に充てられています。来月からは、筝と一緒のリハーサルも行うことになっています。
日時:平成25年11月10日(日) 開場 12時 開演 12時30分 場所:兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール
案内チラシ(写真は昨年「春霞」(本曲)を演奏した時のもの)
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第46回万葉の明日香路に月を観る会 [2013年09月22日(Sun)]
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第26回濱田青陵賞受賞記念講演会(市 大樹氏) [2013年09月22日(Sun)]
濱田青陵賞は、岸和田市にゆかりの考古学者濱田耕作(号 青陵)博士の業績を称えるとともに、考古学の研究で業績のあった新進の研究者や団体を表彰するもので、1988年に岸和田市と朝日新聞社によって創設されたものです。今回の受賞者市 大樹氏(大阪大学准教授、42歳)の受賞理由は、「考古学と木簡などの研究を重ね、古代国家の研究を大きく前進させた」となっています。市氏は、2009年に阪大に移られるまでは、奈良国立文化財研究所(飛鳥・藤原宮跡発掘調査部)に勤務され、出土して間もない多数の木簡の整理研究に従事されてこられました。 市氏については、これまで二度講演を聴く機会がありました。一回目は朝日カルチャーの阪大中之島講座(木簡を読む ー 飛鳥時代の木簡 ー、2010.1.19,26))、二回目は今年(5/27)の立命館大阪プロムナードセミナー「災害・戦災の歴史 − その教訓に学ぶ」(日本古代の災異と復興)です。そこであらためて今回の受賞講演も聴講したく岸和田市まで出かけました(9/21)。
記念講演をされる市氏(演題は「木簡から日本古代国家の形成過程を考える」)
講演の中で、「木簡研究の醍醐味は、木簡の出土した遺跡・遺構との関わりの中で、木簡の資料的価値を最大限に引き出し、既存の文献資料と照らし合わせることによって、新たな史実を掘り起こすことにある」と述べられていました。以下講演の中で興味のあった個所のメモを資料も参考にして残しておきます。 7世紀の日本は朝鮮半島から多大な影響を受けていたが、7世紀末に藤原不比等が台頭すると、新羅路線から唐風化路線への転換が図られ、701年には大宝律令が制定され、約30年ぶりに遣唐使も任命され、最新の中国制度を直接摂取しようとする志向が強くなった(朝鮮半島方式から中国同時代方式へ)。こうした転換は、木簡からもうかがえるとのことでした。その一例として、701年の大宝令施行をうけて、コホリの表記は朝鮮系の「評」から中国系の「郡」に一斉に切り替えられたことが、出土木簡の調査から明らかになった。 日本古代国家の地方行政区分は、クニ ー コホリ ー サトという重層構造をとっていましたが、藤原宮跡から出土した木簡には「己亥年十月上捄国阿波評松里」と書かれていました。その己亥年は699年にあたる(この年に「評」字が使われていたことを示す同時代資料)。その後、藤原宮跡からは、700年に相当する「庚子年」の荷札木簡も出土し、現在まで多数の木簡が出土しているが、地方行政区分のコホリは、700年までは「評」、701年以降は「郡」で例外は全くないとのことです。『日本書紀』の改新の詔(646年に出された)の記述は、大宝令の知識にもとづいて「郡」と表記されたことが明らかになり、郡評論争に完全に決着が付けられた(以上、市 大樹著『飛鳥の木簡ー古代史の新たな解明』より)。
受賞講演の後、記念シンポジウム「解き明かされる国家の原像」が行われることになっていましたが、夕方に明日香村で行われるイベントに参加するため途中退席しました。
後ほど、配布資料でパネリストの方々の資料を見ましたが、そのうちのお一人の千田 稔氏(奈良県立図書情報館館長)の、「国家という幻像 『古事記』から読む」は興味深い内容で、あらためて聴く機会があればと思いました。
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9月の植物園見学会 [2013年09月20日(Fri)]
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ヒガンバナが咲き始めました [2013年09月17日(Tue)]
9/10にヒガンバナの花茎の写真を掲載しましたが、その花が咲き始めました。ちょうど明日から見学会を開催しますので良いタイミングです。 万葉歌に、いちし(原文は壱師と表記)と詠まれている植物にヒガンバナを充てる説があります(牧野富太郎ほか)。次の歌一首のみ詠まれており、その解説は一昨年の記事に載せています。 【歌】 道の辺の いちしの花の いちしろく 人皆知りぬ 我が恋妻は (J-2480) 【口語訳】 道のほとりの いちしの花のように はっきりと 人々は知ってしまった 私の恋しく思っている妻のことを ↓ https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/172
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at 22:09
台風が通り過ぎて [2013年09月16日(Mon)]
この三連休は、天気予報を睨みながら農作業に追われました。土曜日は雨が降りだす前に遅れていたジャガイモの植え付けを済ませ、日曜日は雨の合間に畔の草刈り、今日は台風が過ぎ去った後の植物園と畑の片づけで三日間が過ぎてしまいました。
朝方、風が弱まり雨も小降りになったので畑の見回りに出かけたところ、第二果樹園(バークを敷き詰めたところ)や植物園の分園にしている畑(2枚目の写真)も水浸しになっていました。このような状況は初めて経験することで(夜中に相当降ったものと思われます)、まずは排水作業にあたることになりました。裏山の植物園では、竹が何本か折れていたのでその片づけにも時間がとられました。今週は植物園の見学会を開催することになっているので、迎えるための準備(園内の手入れと資料作り)も行いました。
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at 20:40
果実の収穫(プルーンとナツメ) [2013年09月13日(Fri)]
6年ほど前に植えたプルーン(ヨーロッパスモモ)の実(上の写真)を収穫できました。6月頃のニホンスモモに比べ完熟時期は遅いようです(花の時期はほぼ同じころでしたが)。
ナツメも次の写真のような実を付けています。株元には昨年(?)落下した種子が発芽して小さな苗が育っています。
『万葉集』巻十六に、ナツメが詠まれた次のような歌があります(解説は下記のURLを)。 【歌】 玉箒 刈り来鎌麻呂 むろの木と 棗が本と かき掃かむため (O-3830) ↓ https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/163
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at 08:22
ハギの花も咲きだしました [2013年09月11日(Wed)]
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at 11:45
畦道に咲く花 [2013年09月10日(Tue)]
昨日は早朝から畔の草刈りを行いましたが、ニラの花が咲いていたのでそこだけ刈り残しておきました。 ニラは万葉歌では、くくみら(原文は久君美良と表記)として詠まれており、歌の解説は以前の記事に載せています。 【歌】 伎波都久の 岡のくくみら 我摘めど 籠にも満たなふ 背なと摘まさね (M-3444) ↓ https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/162
別の畔道では、彼岸花の花茎が伸びてきていました。来週の現地見学会には咲いていてくれればと思っています。
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at 09:52
近つ飛鳥博物館の講演会(9/8) [2013年09月09日(Mon)]
『日本書紀』推古天皇条に、「二十一年の冬十一月に、掖上池・畝傍池・和珥池を作る。また、難波より京に至るまでに大道(おほち)を置く。」とあります。 今回の大阪府立近つ飛鳥博物館主催の講演会(9/8)は、この推古二十一年(613)の難波〜飛鳥間大道設置1400年にちなんで、「大阪が古代史で果たした役割を考える」と題して開催されました(於 りそな銀行大阪本店地下講堂)。参加募集定員500名に対し700名ほどの応募があったそうです。実は今回の講演受講券はカルチャーセンターでの受講仲間から頂いたものです(当人が都合が悪くなったとのことで)。万葉集を始め日本書紀や古代史関連の講座を受講しているので、それぞれの講座の受講者から知らない情報も教えてもらえ有り難いです。
白石太一郎先生(近つ飛鳥博物館館長)の演題は「国土開発の時代ー推古朝の再評価ー」で、考古学からみた推古朝(593〜628)について話されました。6世紀の終わりごろには、それまで約350年間ほど造り続けられてきた前方後円墳の造営が停止され、その後は大型の方墳と円墳が造られるようになった(その時期が推古朝に当たる)。この変化は、これまでの畿内の大首長の首長連合によるヤマト政権(古い政治体制)から、新しい中央集権体制への移行ととらえられています。当時の東アジア情勢は、589年に隋が中国全土を270年ぶりに統一し、その後高句麗に攻め入り、朝鮮半島諸国や倭国にとっても大きな脅威となっていた時代で、政治体制の変化を促したとみられています(律令体制の礎が築かれた)。 畿内地域で大規模開発が実施され(溜池・古市大溝などの灌漑設備・道路や古代寺院の造営)、直線道路網が形成されたのは推古朝で、難波〜飛鳥間大道は、丹比道(竹内街道)ー当麻道ー横大路がそれに当たるとみられています(岸俊男説を支持)。「難波から大和への道」と題して講演された和田萃先生(京都教育大学名誉教授)もほぼ同じ見方でした。この大道は当時の外交の窓口である港(難波)と飛鳥を結ぶもので、外交窓口の掌握は権力維持に必須であったとみられています。 和田先生の講演の中で、推古二十一年以前の飛鳥への主要路は、難波から船で河内湖を経て大和川を遡るルートが想定されるとのことでした。但し、大和川途中にある亀瀬岩は難所でここで一旦船を下りて再び船で飛鳥に向かったとみられています(『日本書紀』推古天皇十六年条に記される、隋の使者裴世清が難波から海石榴市(桜井市)に向かったのはこのルートと想定される)。この水運ルートに代わる陸路として整備されたのが、推古二十一年の「大道」と考えられています。なお、この「大道」については、別の説(渋河道ー竜田道ー太子道)も紹介されました(柏原市立歴史資料館館長の安村俊史説))。
なお、大阪府立近つ飛鳥博物館では、秋季特別展として「考古学からみた推古朝」が開催される予定です(10/5〜12/8)。
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根菜類の試し掘り [2013年09月05日(Thu)]
先月までは雨が少なかった中で、サツマイモやラッカセイは順調に育っています(写真手前がサツマイモで後方がラッカセイ)。今日試しに一株づつ堀上げてみたところ、写真のような出来でした。
クリやカキと一緒に、秋の味覚を順次子供たちにも届けてやれそうです。
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at 18:45
雨上がりの空に虹が [2013年09月04日(Wed)]
このところ雨の日が続いています。水遣りが助かっていますが、出来れば分散して降ってほしいものです。草も一斉に伸び出すものと思われ、また草刈りかと気が重くなります。 夕方晴れ間が出たので畑の見回りに出かけたところ、虹がかかっていました。あわててカメラを取りに戻って写真を撮りました。
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ケイトウの花 [2013年09月03日(Tue)]
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第5回やまとフォーラム基調講演(9/1) [2013年09月02日(Mon)]
昨日(9/1)は、畿央大学(奈良県北葛城郡広陵町)で開催の「第5回やまとフォーラム」で、基調講演を坂本信幸先生が行われるというので出かけて来ました。畿央大学を含む学校を運営する学校法人冬木学園の主催で、地域貢献事業の一環として行われています。今回のフォーラムでは教育・文化・健康などの分野で13講座が設けられていました。私は基調講演のみを聴講しました。
畿央大学は西方に葛城連山を臨む万葉ゆかりの地にあり、坂本先生の基調講演は「葛城の万葉歌と大伯皇女の歌」と題して行われました。以下に講演メモを残しておきます。 講演の前半では、葛城の地名が詠みこまれた歌が紹介されました。地名としては、大坂(大和から河内へ越える坂道で二上山の北側を行く穴虫越えと考えられる)、二上山(ふたがみやま)、城上(きのへ)、百済の原・百済野、広瀬川、片岡、葛城山です。ここではそのうち次の一首を載せておきます。 【原文】 春楊 葛山 発雲 立座 妹念 (柿本人麻呂歌集 J-2453) 【読み下し文】 春柳 葛城山に 立つ雲の 立ちても居ても 妹をしそ思ふ 【口語訳】 (春柳) 葛城山に立つ雲のように、立ってもすわっても、ずっとあの娘のことばかり思う。 原文は十文字で表記され(助詞・助動詞・活用語尾などが省略)、万葉集短歌では最小の文字数の歌です。柿本人麻呂歌集歌で、このように省略した表記の歌は略体歌、そうでない歌は非略体歌と呼ばれています。
講演の後半は、大伯皇女(おおくのひめみこ)の歌が取り上げられました。 大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀傷して作らす歌二首 【歌】 うつそみの 人なる我(われ)や 明日よりは 二上山を 弟(いろせ)と我(あ)が見む (A-165) 【歌】 磯の上に 生ふるあしびを 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに (Aー166) 作者の大伯皇女は天武天皇の皇女(母は大田皇女)で、斉明天皇七年(661)百済救援の途中備前国大伯(大伯海)で生まれたと『日本書紀』に記されています。天武天皇二年(673)に伊勢斎宮となり、朱鳥元年(686)十月に、弟の大津皇子の謀反が露見して皇子が死を賜った後、十一月に帰京した(『日本書紀』)。万葉集には6首の短歌を残しています。上の2首を含めいずれも弟大津皇子を思って詠んだ歌です。 残りの4首も次に載せておきます。 大津皇子、竊かに伊勢神宮に下りて上り来る時に、大伯皇女の作らす歌二首 【歌】 我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし (A-105) 【歌】 二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ (A-106) 大津皇子の薨ぜし後に、大伯皇女、伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上る時に作らす歌二首 【歌】 神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに (A-163) 【歌】 見まく欲り 我がする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに (A-164)
万葉歌ではこの場合のように、歌が詠まれた事情が題詞や左注に説明されている場合も多く、その歴史的な背景も踏まえて読むと、一層味わい深いものとなります。
なお、大津皇子関連の講演は次のURLを ↓ https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/528
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at 16:35