シンポジウム「難波宮と大化改新II」 [2015年02月24日(Tue)]
先日(2/22)、大阪市立大学杉本キャンパスで、「難波宮と大化改新II」と題してシンポジウムが開催されました(昨年に続き2回目で前回の記事は下記を参照)。 https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/777 4人の講師と演題を上げておきます。 「孝徳朝のめざしたもの」 磐下 徹(大阪市立大学講師) 「条里制と地方行政区画」 岸本直文(大阪市立大学准教授) 「難波の宮と京の設計方法」 市川 創(大阪文化財研究所学芸員) 「前期難波宮と唐の太極宮」 村元健一(大阪歴史博物館学芸員) ここでは、磐下氏の講演より、大化改新により孝徳朝(宮は難波長柄豊崎宮、前期難波宮)が取り組んだ支配関係の重層構造解消に関連した考古史料(木簡)について載せておきます。 部民制(磐下氏の配布資料より写した次の図を参照)は、6世紀代に成立したとされるヤマト政権の支配制度(先ず中央豪族と地方豪族の支配関係があって、それを介して大王が地方豪族を支配する重層構造)で、孝徳朝はこれを解消して中央集権化を目指した。 二つの「五十戸」木簡(五十戸は里になる前の名称) ・飛鳥京遺跡跡出土木簡(649〜664年) 白髪ア五十戸(アは部でここはシラカベ五十戸) 部+五十戸は部民制の特徴であるのに対し、 ・石神遺跡出土木簡(乙丑665年)では、 (表)乙丑年十二月三野国ム下評 (裏)大山五十戸造ム下ア知ツ と、国+評+地名+五十戸と部がなく、部民制に基づかない支配体制がこの三野国(美濃国)では行われていたことを示すと考えられています(後には、国ー郡(700年までは評)−里となる)。但し、665年は天智(中大兄の称制)の時代であり、これがどこまで(孝徳朝まで)遡れるかは明らかではないが、少なくとも庚午年籍(670年)以前に部民制に拠らない「国ー評ー五十戸」制が存在したとみられています。 なお、部民制に関わる初見史料としては、岡田山一号墳(島根県松江市)出土の大刀銘「各田卩臣」(額田部臣)が知られており、この古墳は2年前に訪れたことがあります。「額田部」は額田部皇女(後の推古天皇)の養育に携わる部民で、額田部臣はその支配豪族(出雲にのみ見える)。その時の記事は、 https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/724 |
Posted by
katakago
at 07:10