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近つ飛鳥博物館の講演会(9/8) [2013年09月09日(Mon)]
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 『日本書紀』推古天皇条に、「二十一年の冬十一月に、掖上池・畝傍池・和珥池を作る。また、難波より京に至るまでに大道(おほち)を置く。」とあります。
 今回の大阪府立近つ飛鳥博物館主催の講演会(9/8)は、この推古二十一年(613)の難波〜飛鳥間大道設置1400年にちなんで、「大阪が古代史で果たした役割を考える」と題して開催されました(於 りそな銀行大阪本店地下講堂)。参加募集定員500名に対し700名ほどの応募があったそうです。実は今回の講演受講券はカルチャーセンターでの受講仲間から頂いたものです(当人が都合が悪くなったとのことで)。万葉集を始め日本書紀や古代史関連の講座を受講しているので、それぞれの講座の受講者から知らない情報も教えてもらえ有り難いです。

 白石太一郎先生(近つ飛鳥博物館館長)の演題は「国土開発の時代ー推古朝の再評価ー」で、考古学からみた推古朝(593〜628)について話されました。6世紀の終わりごろには、それまで約350年間ほど造り続けられてきた前方後円墳の造営が停止され、その後は大型の方墳と円墳が造られるようになった(その時期が推古朝に当たる)。この変化は、これまでの畿内の大首長の首長連合によるヤマト政権(古い政治体制)から、新しい中央集権体制への移行ととらえられています。当時の東アジア情勢は、589年に隋が中国全土を270年ぶりに統一し、その後高句麗に攻め入り、朝鮮半島諸国や倭国にとっても大きな脅威となっていた時代で、政治体制の変化を促したとみられています(律令体制の礎が築かれた)。
 畿内地域で大規模開発が実施され(溜池・古市大溝などの灌漑設備・道路や古代寺院の造営)、直線道路網が形成されたのは推古朝で、難波〜飛鳥間大道は、丹比道(竹内街道)ー当麻道ー横大路がそれに当たるとみられています(岸俊男説を支持)。「難波から大和への道」と題して講演された和田萃先生(京都教育大学名誉教授)もほぼ同じ見方でした。この大道は当時の外交の窓口である港(難波)と飛鳥を結ぶもので、外交窓口の掌握は権力維持に必須であったとみられています。
 和田先生の講演の中で、推古二十一年以前の飛鳥への主要路は、難波から船で河内湖を経て大和川を遡るルートが想定されるとのことでした。但し、大和川途中にある亀瀬岩は難所でここで一旦船を下りて再び船で飛鳥に向かったとみられています(『日本書紀』推古天皇十六年条に記される、隋の使者裴世清が難波から海石榴市(桜井市)に向かったのはこのルートと想定される)。この水運ルートに代わる陸路として整備されたのが、推古二十一年の「大道」と考えられています。なお、この「大道」については、別の説(渋河道ー竜田道ー太子道)も紹介されました(柏原市立歴史資料館館長の安村俊史説))。

 なお、大阪府立近つ飛鳥博物館では、秋季特別展として「考古学からみた推古朝」が開催される予定です(10/5〜12/8)。
 


Posted by katakago at 15:50
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