講演会「難波の万葉歌」 [2013年04月26日(Fri)]
昨日(4/25)、大阪府立大学で「万葉の道を歩く」の7回目の講演会が開催され聴講しました。今回は村田右富実先生が「難波の万葉歌 ー 大和の表玄関を詠む −」と題して講演されました。
村田先生の講演配布資料より当時の難波宮に関する事項を以下に引用しておきます。、難波は瀬戸内海の最奥に位置し、大和川・淀川水系が交わるその地理的位置から内外交通の要衝の地として重視されてきた。大化元年(645)に始まった「大化の改新」に伴って行われた難波遷都で、白雉三年(652)に完成した「難波長柄豊崎宮」は、孝徳天皇崩御後、都が飛鳥に遷った後も難波の地に存続し、天武十二年(683)の複都制の詔によって飛鳥と並ぶ都となったが、朱鳥元年(686)失火により全焼した。その後、聖武天皇の即位〜行幸を機に、神亀三年(726)、藤原宇合が知造難波宮事に任じられ、難波宮の再建が本格化した。
講演では、神亀二年に聖武天皇が難波宮に行幸された時に、当代の宮廷歌人(笠金村・車持千年・山部赤人)が詠んだ長反歌(巻六928〜934)を中心に解説されました。万葉歌の掲載順に、金村は難波宮を讃える歌を詠み、千年は遊覧の地である住吉(すみのえ)の風光を讃え、赤人は「御食(みけ)つ国」としての淡路の奉仕の様を詠んでいます。 なお、『萬葉集釈注』でも、当代宮廷歌人が主題を分担して織りなした一連の作であるとみられています。
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Posted by
katakago
at 18:10