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天皇陵の成立ー八角墳成立の意味するもの [2013年02月18日(Mon)]
 朝日カルチャーセンター芦屋教室で、白石太一郎先生(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)による、「天皇陵の成立ー八角墳成立の意味するもの」と題する講座があり聴講しました(2/16)。白石先生の講座は、一昨年(2011.12.1)の「考古学からみた斉明天皇陵」も聴講していましたので、興味がありました。

 次は、当日の配布資料より、『延喜式』巻二十一の諸陵寮の関連個所
IMG_0001m.jpg
 右から順に、押坂内陵(舒明天皇)、大坂磯長陵(孝徳天皇)、越智崗上陵(皇極・斉明天皇)、山科陵(天智天皇)、檜隈大内陵(天武天皇)、同大内陵(持統天皇を合葬)、眞弓丘陵(草壁皇子、後に岡宮天皇と追尊)、檜前安占岡上陵(占は古の誤り、文武天皇)が記されています。

 陵の場所については宮内庁と学界で見解が異なるもの(舒明・斉明・文武など)がありますが、舒明陵となっている段ノ塚古墳(桜井市)、斉明陵と考えられる岩屋山古墳と牽牛子塚古墳(明日香村)、天智陵となっている御廟野古墳(京都市山科)、天武・持統陵とされている野口王墓古墳(明日香村)、文武陵と考えられている中尾山古墳(明日香村)はいずれも八角墳です。なお斉明天皇陵については、白石先生は、岩屋山古墳は天智時代に造営されたもので(『日本書紀』天智四年条の記事)、牽牛子塚古墳は文武時代に修造されたもの(『続日本紀』文武三年条の記事)と考えられています。
 上記のように7世紀中葉から8世紀初頭までの間の大王墓は、不明な点の多い孝徳陵(大阪府太子町上ノ山古墳)を除きいずれも八角墳が採用されていますが、その意味するところについても話されました。
 7世紀までの大王は首長連合の盟主的存在で、墳墓の形式は規模は違っても同じ前方後円墳であったのが、推古朝以降律令制の中央集権国家が樹立される過程で、一般の豪族層から超越した存在として、墳墓の造営においても違いを示すため大王(天皇)の墓ー八角墳が造られるようになったとのお考えでした。また、これら八角墳を造営した天皇は舒明から文武まで、蘇我氏とは関係のない(反蘇我または非蘇我系)勢力の天皇であったとの指摘もあり注目されます。
 
 八角墳をイメージするため天武・持統陵墳丘復元図(当日の資料にもありました)を掲載
IMG_0002m.jpg


 白石太一郎編『天皇陵古墳を考える』に今尾文昭氏が「天武・持統陵(野口王墓古墳)の意義」と題する一章を載せられていますが、その中で、「八隅知之 我(吾)大王乃(之) やすみしし わがおほきみの」と詠われた万葉歌についても触れられています。その最初の例は、舒明天皇が宇智の野で狩りをされた時に、中皇命が間人連老に奉らせたもの(@-3)です(ほかにも持統天皇の吉野行幸時に柿本人麻呂が詠んだ長歌(@-36,38)などがある)。天皇の支配ー治政が国土の隅々(八隈)まで及ぶことを意味して詠われており、その最初の例が大王墓における八角墳採用の最初である舒明天皇に奉られた歌であることに注目されています。

 参考までに白石先生の前回の記事(2011.12.2)は
            ↓
URL https://blog.canpan.info/inagawamanyo/daily/201112/02


Posted by katakago at 14:30
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