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現地見学会(磐余池推定地) [2011年12月17日(Sat)]

 昨日(12/16)、朝日新聞朝刊の一面に掲載された記事です。

 古代の人工池「磐余(いわれ)の池」の推定地(橿原市東池尻町)で、池の堤跡と建物跡も出土したとのことで、今日、橿原市教育委員会により現地見学会が開催されました。磐余の池は、『万葉集』の歌にも詠まれており、現地を見に出かけました。

 次の写真は、建物跡の発掘現場の様子です。この建物については、新聞記事では宮殿関係の施設と推定する考えや、池の管理用の建物と考える説が紹介されています。



 次は、人工的に築かれた堤跡の発掘現場です。配布資料によれば、砂質土や粘土をほぼ水平方向に厚さ0.1〜0.3mの単位で深さ3.2m以上にわたり積み重ねられています。写真右側の工事用フェンスの右方向に池が広がっていたようです。


 『万葉集』には、大津皇子が処刑される時に、磐余の池の堤で涙を流して作られた歌一首として、次の歌が載せられています。
【歌】 百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (B-416)
【口語訳】 (百伝ふ) 磐余の池に 鳴いている鴨を 今日だけ見て 死んでゆくのか

 この間の事情について、『日本書紀』には次のような記事が載せられています。天武天皇崩御間もなく大津皇子の謀反が発覚し、逮捕され死を賜ったとあります。更に続けて、皇子は当時24歳で、妃の山辺皇女は髪を振り乱し、素足のまま駆けつけて殉死し、見る者はみなすすり泣いたと記されています。

 この歌の歌碑が近くの御厨司(みずし)観音手前の道路際に建てられています。次の写真は、この歌碑から発掘現場(上方中央部右寄り)を臨んだものです(新聞写真とは反対側から見たものです)。この辺り一帯が池であったと推定されています。

 ところで、この歌碑の碑面が汚されていたのが残念です。拓本を採るのに碑面に直接墨を塗りつけそのままにしてしまったようです(マナーが悪いし、方法も間違っている)。


 なお、大津皇子の人となりについては『日本書紀』には、「立ち居振舞は高く際立っており、言辞は優れて明晰である。成人してからは、分別があって学才に秀で、ことに文筆を好み、詩賦の興隆は、この大津に始まった」と記されています。
 漢詩集の『懐風藻』に、大津皇子の辞世の詩が載せられています。
  【読み下し文】
    金烏(きんう)  西舎(せいしゃ)に臨み
    鼓声(こせい)  短命を催(うなが)す
    泉路(せんろ)  寶主なし
    この夕  誰が家にか向ふ
  【口語訳】
    太陽は西に傾き
    夕べの鐘に短い命が身にしみる
    泉途(よみじ)を行くは一人の旅
    夕暮れはどこへ宿ろうとするのか
 この詩碑が吉備池そばの春日神社の境内に建てられています。



 『万葉集』には、大津皇子の屍を葛城の二上山に移葬した時に、姉の大伯皇女が悲しんで作られた歌が載せられています。
【歌】 うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む (A-165)
【口語訳】 この世の 人であるわたしは 明日からは 二上山を 弟として眺めるのか 

 この歌の歌碑が、吉備池の堤に二上山を背にして建てられています。
 
Posted by katakago at 18:15
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