特別講演「東大寺修二会の声明」 [2023年05月14日(Sun)]
昨日、フェスティバルホールで「東大寺修二会の声明」特別公演が行われ出かけてきました。寺外での公開は14年ぶりで、東大寺開山良弁(ろうべん)僧正1250年御忌記念として企画されました。参加者は2000人以上で、5月20日には東京の国立劇場でも公演が行われます。 東大寺の修二会は毎年3月(旧暦2月)に二月堂で営まれる法要で、別火(前行、2/20〜2月末)、本行(3/1〜3/14)の日程で行われます。行法は、11人の練行衆(籠りの僧)が本尊の十一面観音(二月堂には大観音、小観音の二体の本尊)に、日ごろの過ちを懺悔して菩薩の法力を讃え、天下泰安、風雨順時、五穀成就、万民快楽(けらく)を祈って、菩薩の功徳を授かる「十一面観音悔過法要」と言われるものです。この修二会は、東大寺の開山良弁僧正の高弟であった実忠和尚(かしょう)が、天平勝宝四年(752、大仏開眼の年)に始めたもので、以来戦火の中でも休むことなく続けられ、「不退の行法」と言われています(今年で1272回目)。 以前(2012年)に、二月堂内陣で行われた行法の様子を、外陣で格子越しに見学したことがあります。その時の関連記事は次のURLに載せています。 https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/270
修二会は六時(ろくじ)の行法とも呼ばれ、一日を「日中・日没(にちもつ)・初夜・半夜・後夜(ごや)・晨朝(じんちょう)」の六つの「時(じ)」に分けて悔過作法が行われ、今回の公演では、練行衆しか立ち入れない二月堂内陣の様子を舞台上に再現して、「初夜の悔過作法」、「初夜の大導師作法」、「走り」、「後夜の悔過作法」、「後夜の大導師作法」、「後夜の 咒師(しゅし)作法」、「晨朝の悔過作法」が上演されました。声明は節のついたお経で、11人の練行衆により抑揚をつけて唱えられ、時に鈴や鐘、法螺貝の音も加わって、一種の仏教音楽をなしていると言われています。この度、改めて四時間以上にわたって間近で聴くことが出来ました。
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katakago
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にっぽん文楽 in 難波宮(10/19) [2015年10月20日(Tue)]
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katakago
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音楽劇「綺譚 生田川」を鑑賞 [2013年06月02日(Sun)]
昨日午後、兵庫芸文センター(阪急 中ホール)で上演された音楽劇「綺譚 生田川」を鑑賞しました(写真はそのプログラム表紙と朝日新聞に掲載された紹介記事)。
摂津国菟原郡(現在の兵庫県芦屋市から神戸市の東部にかけての地)の東部、葦屋(あしのや)の辺りに住んでいた菟原処女(うないおとめ)にかかわる説話があります。美人であったため二人の男性 ― 千沼壮士(ちぬおとこ)と菟原壮士(うないおとこ)から求婚されますが、片方を選べばもう一方が悲しむので、自らは自殺したというものです。この伝説を題材にした文学作品がいくつか知られています。古くは『万葉集』の歌にも詠まれ、平安時代には歌物語である『大和物語』の第147段の「生田川」に取り上げられ、それをもとに室町時代には謡曲「求塚」がつくられ(観阿弥作)、明治時代には森鴎外の戯曲「生田川」があります。 今回は謡曲「求塚」をもとに音楽劇に仕立てられました(作・演出は岡本さとる)。主演は元宝塚歌劇団の大和悠河で、菟原処女を熱演し見ごたえのある舞台でした。
『万葉集』では、田辺福麻呂・高橋虫麻呂・大伴家持の三人が歌に詠んでいますが、ここでは伝説の内容が語られる、高橋虫麻呂の長歌を少し長くなりますが載せておきます。 【歌】 葦屋の 菟原処女の 八歳子の 片生ひの時ゆ 小放りに 髪たくまでに 並び居る 家にも見えず 虚木綿の 隠りて居れば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の問ふ時 千沼壮士 菟原壮士の 廬屋焼き すすし競ひ 相よばひ しける時には 焼き大刀の 手かみ押しねり 白真弓 靫取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向かひ 競ひし時に 我妹子が 母に語らく 倭文たまき 賤しき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隠り沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 千沼壮士 その夜夢に見 取り続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ 叫びおらび 地を踏み きかみたけびて もころ男に 負けてはあらじと 掛け佩きの 小大刀取り佩き ところづら 尋め行きければ 親族どち い行き集まり 永き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと 処女墓 中に造り置き 壮士墓 このもかのもに 造り置ける 故縁聞きて 知らねども 新喪のごとも 音泣きつるかも (H-1809) 【口語訳】 葦屋の 菟原処女が 八歳の 子供の頃から 小放りに 髪を結い上げる年ごろまで 近隣の 家にも姿を見せず (虚木綿の) こもりきりなので 見たいものと もどかしがって 取り囲んで 求婚した時のこと 千沼壮士と 菟原壮士が 小屋を焼いて 勢い込んで争い 共に求婚を したその時に 焼き鍛えた大刀の 柄を握ってのし歩き 白木の弓と 靫を背負って 水にでも 火にでも入ろうと 立ち向い 争った時 この処女が 母に語ることに 「(倭文たまき) 数ならぬわたしのために ますらおが 争われるのを見ると 生きていたとて 結婚できそうにありません (ししくしろ) 黄泉でお待ちしよう」と (隠り沼の) それとなく告げて 嘆き悲しみ その処女が死んでしまったところ 千沼壮士は その夜夢に見 引き続き あとを追って行ったので 先を越された 菟原壮士は 天を仰ぎ 叫びわめいて 地を蹴り 歯ぎしりして力み あいつめに 負けてなるものかと 肩に掛ける 長剣を取り佩き (ところづら) 追っかけて行ってしまったので 身内の者たちは 寄り集まって 永久に 記念にしようと 遠い未来まで 語り伝えようと 処女墓を 中に造り置き 壮士墓を その両側に 造って置いた そのいわれを聞いて 真実は知らないが 最近の喪のように 声をあげて泣いてしまったことだ
現在、神戸市東灘区御影塚町に処女塚(おとめつか)古墳があり、その東西に求女塚(もとめつか)古墳があります(東灘区住吉町と灘区都通)。処女塚は前方部を海に、東西の求女塚は処女塚の方に前方部を向けています。妻争いの伝説はこれらの古墳群を見て形成されていったとの考えもあるようです。虫麻呂の歌で墓が述べられる部分に下線を入れておきました。 この場所へは昨年四月の「飛鳥を愛する会」の現地講座で訪れ、影山先生から説明を聞きました。その記事には田辺福麻呂の反歌を載せています。 ↓ URL https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/316
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katakago
at 12:46