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忍阪・宇陀を歩く(毎日文化センター学外講座) [2014年11月10日(Mon)]
 一昨日(11/8)、毎日文化センターの万葉学外講座(講師は市瀬雅之先生)があり参加しました。月一回の講座で、うち年二回の学外講座があります。
 コースは、近鉄大和朝倉駅(集合10:10)→ 忍坂山口坐神社 → 忍坂坐生根神社 → 玉津島明神 → 舒明天皇陵 → 鏡王女墓 → 大伴皇女墓 → 忍坂〜大宇陀(奈良交通バス) → 大宇陀道の駅(昼食)→ 阿騎野・人麻呂公園(中之庄遺跡)→ 万葉公園(かぎろひの丘)→ 阿紀神社 → 神楽岡神社 → 大宇陀〜榛原駅(奈良交通宇バス)→ 墨坂神社 → 近鉄榛原駅(16:40頃到着)

 
 忍坂の舒明天皇陵に向かう途中、大宇陀の方向を望む
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 生根神社の歌碑  
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【歌】 隠来之 長谷之山 青幡之 忍坂山者 走出之 宜山之 出立之 妙山叙 惜 山之 荒巻惜毛 (L-3331)
【読み下し文】 こもりくの 泊瀬の山 青旗の 忍坂の山は 走り出の 宜しき山の 出立ちの くはしき山ぞ あたらしき 山の 荒れまく惜しも
【口語訳】 (こもりくの) 泊瀬の山の (青旗の) 忍坂の山は 裾引きの 好もしい山で たたずまいの 見事な山だ もったいない この山の 荒れてゆくのが惜しい

 舒明天皇陵を過ぎて鏡王女墓に向かう山道で
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 鏡王女の万葉歌碑(揮毫は犬養孝先生)
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【歌】 秋山之 樹下隠 逝水乃 吾許曾益目 御念従者 (鏡王女 A-92)
【読み下し文】 秋山の 木の下隠り 行く水の 我こそまさめ 思ほすよりは
【口語訳】 秋山の 木陰をひそかに 流れて行く水のように わたくしの方こそ深く思っているでしょう あなたが思ってくださる以上に
 作者の鏡王女は、従来額田王の姉かとされたが、舒明天皇陵の域内に在ることより舒明天皇の皇女ではないかとする説があります。初め、天智天皇に愛されたが、のちに藤原鎌足の正室となっている(ちなみに興福寺の前身山階寺は鎌足病気のさい王女の発願により開基)。鎌足と結婚する前に、天智天皇との歌の贈答があり、これはその答歌で、天智天皇の歌は、
【歌】 妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを(A-91) 
【口語訳】 あなたの家だけでも いつも見られたらよいのに 大和の国の 大島の嶺に あなたの家がありさえすればよいのに


 大宇陀では、柿本人麻呂の安騎野の万葉歌碑を巡りました。
 阿騎野・人麻呂公園で(写真後方中央は馬上の人麻呂像)
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 この場所(中之庄遺跡)は、平成7年度(1995)の発掘調査によって、弥生時代、飛鳥時代、中・近世の三時期にわたる遺構が見つかり、飛鳥時代のものとしては掘立柱建物跡(11棟以上)、竪穴住居跡(3棟)等が見出されています(遺構の時期は出土土器から7世紀後半〜末)。古代の狩猟の地であった安騎野の重要施設と推定されています(園内には掘立柱建物の復元と馬上の人麻呂像も)。
 
 万葉公園(かぎろひの丘)で
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 以下は軽皇子が安騎野に宿られた時に柿本朝臣人麻呂が詠んだ歌(歌碑の写真とともに)
 万葉公園(かぎろひの丘)の歌碑(長歌) 
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【歌】 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷為 京乎置而 隠口乃
 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而 (@-45)
【読み下し文】 やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 京を置きて こもりくの 泊瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に はたすすき 篠を押しなべ 草枕 旅宿りせす 古思ひて
【口語訳】 (やすみしし) わが大君の (高照らす) 日の神の皇子軽皇子は 神であるままに 神らしく振る舞われるべく 天皇のいらっしゃる 都をよそに (こもりくの) 泊瀬の山は 真木が茂り立つ 荒い山道だが 岩石や 邪魔な木を押し倒し (坂鳥の) 朝越えられて (玉かぎる) 夕方になると 雪の降る 安騎の大野に すすきの穂や 小竹を押し伏せて (草枕) 旅寝をなさる 日並皇子がここに来られた時のことを偲んで
 犬養孝著『万葉の旅 上』には、「草壁皇子(日並皇子)は、母持統天皇の三年四月に亡くなられた。この歌はその後に草壁皇子の遺児軽皇子が、宇陀の安騎野に狩に行かれたときお供をした人麻呂の作である。草壁皇子は生前、同じ宇陀に狩に出られた(巻二-191)。軽皇子の安騎野行は、けっしてただの狩猟ではなくて、「古思ひて」ともあるように、父君追慕の狩の旅である。時は、巻一の配列の順序から考えて、持統六年(692)の春以後、その年の冬の頃と推定される」とあります(六年とすると軽皇子は当時10歳で、15歳の時に持統が譲位して文武天皇となる)。 

 万葉公園(かぎろひの丘)の歌碑(反歌) 揮毫は佐佐木信綱(昭和15年建立)
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【歌】 東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ (@-48)
【口語訳】 東方の 野にかげろうの 立つのが見えて 振りかえって見ると 月は西に傾いている
 『万葉の旅 上』には、「この歌は、山野の草枕での回想に夜を徹してしまった荒涼と寒気と悽愴の黎明の感慨として理解されなければならない。(中略) このような事情のなかでの山野の夜明けであって、それだけに凄みも増し、東方の薄明るい光と、西方のまだ黒々とした中の薄暗い月光とのコンポジションは、かえって作者の感慨を拡大させ、遠くはるかに深々としみとおらせてゆくものがある」とあります。
 この歌に取材した壁画の作者中山正實氏は、この景観にあらわれる日時を中央気象台に問い合わせ、実地に攻究し、持統六年十一月十七日(692年12月31日)とし、その暁方、かげろひが東に立ち(日の出前1時間)、月が西に傾く時を、午前5時50分と推定した(澤瀉久孝著『萬葉集注釋』より)。

 阿紀神社の歌碑(反歌)
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【歌】 阿騎乃野尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 去部念尓 (@-46)
【読み下し文】 安騎の野に 宿る旅人 うちなびき 眠も寝らめやも 古思ふに
【口語訳】 安騎の野に 仮寝する旅人は くつろいで 寝てなどいようか 故皇子のいらした当時を思うと 

 神楽岡神社の歌碑(反歌)
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【歌】 真草苅 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曾来師 (@-47)
【読み下し文】 ま草刈る 荒野にはあれど もみち葉の 過ぎにし君の 形見とそ来し 
【口語訳】(ま草刈る) 荒れ野ではあるが (もみち葉の) 今は亡き皇子の 形見の地としてやって来られた

 反歌は次のもう一首があります(この歌の歌碑は今回のコースには無かった)。
【歌】 日並の 皇子の尊の 馬並めて み狩り立たしし 時は来向かふ (@-49)
【口語訳】 日並の 皇子の尊が 馬を並べて 狩りを催された 同じその時刻になった

 なお、この「安騎野のかぎろひ」に関しては、以前に和田萃先生の講演の記事で触れています。
      ↓
https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/472


Posted by katakago at 15:40
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