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難波宮発掘調査60周年記念講演会 ー 難波宮と大化改新 [2014年02月24日(Mon)]
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 今年は難波宮発掘調査が始められて60年にあたります(山根徳太郎博士が大阪市立大学退官後に調査を始めたのが1954.2.20)。これを記念して、昨日講演会とシンポジウムが開催されました。主催者(大阪市博物館協会・大阪市立大学・なにわ活性化委員会)によると、定員250名のところ1000人ほどの申し込みがあり参加者は抽選となったそうです。幸い私は抽選で選ばれて参加することが出来ました。
 4名の研究者による演題は次の通りです。
「大化改新と孝徳朝」 磐下 徹 氏(大阪市立大学講師)
「大化の薄葬令と古墳の終末」 岸本 直文 氏(大阪市立大学准教授)
「大化改新と宮殿建築の新しいカタチ」 李 陽浩 氏(大阪歴史博物館学芸員)
「周辺部の発掘成果からみた前期難波宮」 高橋 工 氏(大阪文化財研究所調査課長)

 難波宮の所在地は戦前までは不明であったが、それを突き止めたのが故山根徳太郎博士です。1953年、大阪城南側の法円坂住宅工事現場から鴟尾(しび)が発見されたのをきっかけに、1954年から発掘調査が行われました。宮殿遺跡は重なった2期のものに分かれ、地層の上下関係や遺構の重なり具合から先に作られた宮殿を前期難波宮、後の宮殿は後期難波宮と呼ばれています。前期難波宮は飛鳥時代(7世紀)中頃に造営され、後期難波宮は奈良時代(8世紀)前半に造営が開始されたと考えられています(大阪歴史博物館編『前期難波宮』より)。
 前期難波宮の北限の谷から見つかった木簡には、「戊申(ぼしん)年」と書かれ(国内最古の紀年銘木簡)、同じ場所から出土した土器が7世紀中ごろのものであることより、この年は648年と考えられ、前期難波宮は大化改新(645年)後の650年に造営が開始された、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮であると考えられています。孝徳天皇の崩御(654年)により都は飛鳥に戻りますが、天武天皇の時代(天武十二年,683)に複都制の詔が出され難波宮が複都とされます。朱鳥元年(686)に、難波大蔵より出火・宮室罹災の記事が『日本書紀』に記されています。ここまでが前期難波宮で、後期難波宮は、聖武天皇が神亀三年(726)に難波宮再建に着手してから、延暦三年(784)に桓武天皇が長岡京へ遷都のため難波宮殿舎を解体、移築するまでとされています。

 講演内容未消化ながら、興味があった内容について当日の資料も参考にしながら以下メモに残しておきます。
(磐下氏の講演から)
「大化改新」は、645年6月の蘇我氏本宗家の滅亡(乙巳の変)に端を発する一連の国政改革で、大宝律令完成(701年)に象徴される中央集権国家体制成立の起点とされています。20世紀の「大化改新」論では、天智天皇や天武・持統天皇を8世紀の律令国家の起点として高く評価する一方、孝徳朝の評価は低くみられていました。
 その後新たな検討材料(王宮の遺構や一次資料としての木簡)をもとに、21世紀の「大化改新」論が展開されることになった(以下はその研究基点)。
・公民制の成立
 石神遺跡出土乙丑年(天智四年,665)木簡
  釈文:乙丑年十二月三野国ム下評
     大山五十戸造ム下ア知ツ 従人田ア児安
 →孝徳朝(大化五年,650)に全国的な「国ー評ー五十戸」制が施行(8世紀の国ー郡ー里制に通じる律令制的人民支配が成立)
・官僚制の成立
 前期難波宮(孝徳朝)の遺構に見られる整然とした朝堂・曹司域
 →「難波朝廷之立礼」等を実行した儀礼空間、執務空間の存在(冠位制、官司・官職大系の存在)

(岸本氏の講演から)
 薄葬令(646年の旧俗改廃の詔)は改新諸政策の一つで、考古学的な立場から改新の実態解明に迫ろうとするもの。
 最有力墓(斉明天皇陵とみられる牽牛子塚古墳など)は別として、7世紀前葉の墳丘規模は12〜40尋(1尋=1.5m)で、7世紀中頃以降はほぼ15m以下になるとのことでした(薄葬令が実行されているとの見解)。

(李氏の講演から)
 『日本書紀』には数多くの造営記事がありますが、建物の姿にまで言及したものは難波長柄豊碕宮で、「秋九月に、宮を造ること已に訖りぬ。其の宮殿の状、殫(ことごとく)に論(い)ふべからず(その姿は言葉に出来ないほど素晴らしい)。」と記されています。建物や配置計画には、先進的・画期的な要素が認められるとのことです。以下はその特徴的な点。
・天皇の居住域(内裏)と官人達が参集し政務や儀式を行う空間(朝堂院)を明確に分離
 内裏は軒廊で繋がれた前殿と後殿からなり、このような配置は「工字殿」ともいわれ(東アジア的にみても最も早い部類)、天皇の出御方法と関連するとみられています。朝堂院は、中央に広大な庭(ここで儀式が行われ)と、その周囲に14堂(あるいは16堂)の朝堂があり場所ごとに建物規模が異なり、その規模の違いは着座する官人の冠位の違いを示している可能性があるとのことでした。
・中軸線(南北軸)と左右対称の建物配置
中軸線上に重要な建物が集中し、この線上を通ることが権力の中枢を通ることを意味し、空間的ヒエラルキーが政治的ヒエラルキーへと転化する様子を読み取れると述べられていました。
・建物類型(ビルディングタイプ)
古代建築・宮殿での最古の例として、八角殿・大型門・複廊(翼廊)・軒廊等
 孝徳天皇崩御後、都は飛鳥に戻りますが、そこでの宮殿はこのような先進的な考えは用いられておらず、藤原宮で継承されてゆくことになったようです。

 講演の後行われたシンポジウムの様子
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 後期難波宮大極殿の復元基壇と礎石(難波宮跡公園にて)
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 復元基壇と難波宮跡公園(大阪歴史博物館10階から撮影)
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 大阪歴史博物館は内裏西方官衙跡の上に建てられており、難波宮跡の傍には大阪城があります。
 博物館10階より眺めた大阪城(お城を上から眺めるには絶好の場所)
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 なお難波宮発掘60年記念行事はこのほか、大阪市立大学公開講座(「難波宮発掘60年と山根徳太郎博士」,3/3)や大阪歴史博物館の特別展(「大阪遺産 難波宮 ― 遺跡を読み解くキーワード ー」,6/21〜8/18)が予定されています。


Posted by katakago at 16:45
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