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中之島フェスティバルタワー移転特別講座 [2013年01月09日(Wed)]
 2005年の春から、朝日カルチャー中之島教室で坂本信幸先生の万葉集の講座を受講していますが、中之島フェスティバルタワーの完成により、今年からその18階の教室に移転しました。6日にはその「おひろめの会」と無料の特別講演会があり参加しました。講座整理券の配布前から長蛇の列で入手できるか危ぶまれましたが、幸い希望した坂本先生と和田先生の講座を受講できました。

写真はカルチャーセンターが移転した中之島フェスティバルタワー
IMG_2486m.jpg

 坂本信幸先生(高岡市万葉歴史館館長)の演題は、「新年の万葉歌と越中万葉かるた」で、講演の終わりには越中で詠まれた歌のかるた取りも行われました。以下は講演の中からの抜粋です。
 『万葉集』の最後に載せられているのは、大伴家持の次の歌です。
【歌】 新(あらた)しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事 (S-4516)
【口語訳】 新しい年の初めに立春が重なった。今日降る雪のようにますます重なれ良い事よ。
 題詞には、三年(天平宝字三年、759)正月一日に、因幡国の庁にして、饗(あへ)を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首、とあります。
 当時『儀制令』「元日国司条」に、「凡そ元日には、国司皆僚属郡司等を率ゐて、庁に向ひて朝拝せよ。訖(をは)りなば長官賀を受けよ。宴設くることは聴(ゆる)せ」とあり、元日には地方官庁でも国守が国郡司と共に朝賀の式を行い、宴が催されました。家持はこの年、因幡国守として元日を迎えその宴の場で詠まれた歌です。
 ところで、天平宝字三年正月一日は太陽暦の二月六日で24節気の立春にあたり、この日は元日に立春が重なる歳旦立春(19年に一回めぐる)で、さらに雪は豊年の瑞兆でこれらが重なった目出度さが歌に詠まれています(大濱真幸氏の論文も紹介されました)。
 中国の『文選』「雪賦」(謝惠連)に、盈尺則呈瑞於豊年(尺に盈(み)つれば則(すなわ)ち瑞を豊年に呈し)とあり、『詩経』「信南山」に、豊年之冬必有積雪とあり、これらが日本に伝わり、大雪を豊年の瑞兆とする信仰になったと考えられています。天平十八年(746)正月元正太上天皇の御在所での雪掃きの宴で葛井連諸会が次の歌を詠んでいます(この時、家持も末席に侍して応召歌を詠んでいる)。
【歌】 新しき 年の初めに 豊の稔 しるすとならし 雪の降れるは (P-3925)
【口語訳】 新しい 年の初めに 今年豊作の 前触れをするのでありましょう こんなに雪が降るのは


 和田萃先生(京都教育大学名誉教授)は、「古代史」と「考古学」の接点、と題して講演されました。講演の主題は遺跡から発掘調査で発見された「木簡」についてです。国内での最初の出土は昭和36年の平城宮跡からで(泥水の中から40点の木簡)、先生は京大の学生時代から木簡の発掘調査・釈読に携われてこられました。墨で字が書かれた木片は廃棄された後、自然流路や溝、土坑などから泥にまみれ粘土にパックされた状態で発見されるとのことで、地下水が豊富な場所でないと残らないとのことです(これまでに出土している木簡は約36万点)。
 以下、今回の講演で話された、藤原宮典薬寮跡から発見された「多治麻内親王」と表記された木簡についての講演の抜粋です。
IMG_0003m.jpg

  写真(当日配布の資料より)の木簡の左右は割られた状態で、しかも離れた場所から発見されたそうですが、岸俊男先生はこの二つはくっつくと判断されたそうです。右片に、多治麻内親王(但馬皇女)の宮の政人(家従)の正八位下の陽胡甥から、左片には、薬草を支給されたい。車前子(おおばこ)と西辛(さいしん)と久参(くじん)の三種です、と書かれています(読み下し文は、猪股静彌著『万葉百話木簡は語る』より)。車前子(おおばこ)は煎じて服用すると健胃強壮剤、西辛はウスバサイシンで鎮静・頭痛薬、久参(くじん)は現在のクララで根は健胃駆虫薬(『万葉百話木簡は語る』より)。
この木簡に記されている多治麻内親王(但馬皇女)は天武天皇の皇女で、『万葉集』に4首の歌を残しています。そのうちの一首に次のような歌があります。
【歌】 人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る (A-116)
【口語訳】 人の噂が うるささに これまで 渡らなかった 朝の川を遂に渡ることか
題詞には、但馬皇女が高市皇子の宮に在った時に、ひそかに穂積皇子と関係を結び、そのことがすっかり顕れたので、作られた歌一首とあります。
 このような歌を詠んだ但馬皇女が上記木簡に記された三種の薬を請求していますが、病気はどのようなものであったか興味が持たれます。『万葉百話木簡は語る』の著者猪股静彌氏は、「病気は不明としか言いようはないが、彼女が『万葉集』に残したただならぬ恋の関係と、歌の心痛を思う時、それは現代の神経症にかかわる病気ではなかったろうか」と述べられています。この木簡の発見により、『万葉集』には書かれていない但馬皇女の一面を知ることが出来ます。
Posted by katakago at 14:10
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コメント
5年前迄伊丹に単身赴任してました。雨の日も欠かさず猪名川の堤を散歩して、帰宅しない休日はよく植物園に行き、沢山の花を見せていただき、ありがとうございました。猪股繋がりで猪野静弥著作「万葉集ー草木と鳥と生活の歌」を読んでいます。そこに但馬皇女の病気云々の記述からネット検索した次第です。但馬皇女の病名推定はその後どうなったのでしょうか。
Posted by:猪股  at 2018年05月21日(Mon) 09:00

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