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記紀フォーラム ― 壬申の乱と神武伝承、記紀が語る藤原京 [2012年11月24日(Sat)]
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 今年は古事記編纂1300年にあたり、これまでいくつかの記念行事が開催されています。昨日(11/23)も橿原市とクラブツーリズム(株)主催で記念イベントがあり(於かしはら万葉ホール)、午後から出かけて来ました。第一部は和田萃氏(京都教育大学名誉教授)による「壬申の乱と神武伝承」と題する講演、第二部は「記紀が語る藤原京〜天武天皇が目指した都〜」をテーマに和田氏と菅谷文則氏(橿原考古学研究所所長)との対談が行われました(コーディネーターは玉城一枝氏)。

 壬申の乱については、『日本書紀』巻二十八の天武天皇 上 に詳しく記されています。西暦672年に、天智天皇の弟である大海人皇子と天智の長子である大友皇子(近江朝廷側)とが天智死後の皇位継承をめぐって争った古代史上最大の戦乱です。大海人皇子が勝利して翌673年に飛鳥浄御原宮で即位し天武天皇となりました。
 大規模の戦闘範囲は近畿から東海地方のかなりの地域に及び、講演では『日本書紀』の記事やこれをもとに作成された大海人・近江(大友)両軍の行動図を参考にしながら話されました。
 吉野を出発してからの大海人軍の進路は場所と月日が記載されており、菅谷氏はかつて実際にこのルートを荷物を担いで歩く実地調査を行って移動の日程を確認されたそうです(対談で話されてました)。
 『万葉集』にも、天武天皇の長子である高市皇子が全軍を指揮して戦った様子が、柿本人麻呂により高市皇子の挽歌に詠まれています(A-199)。
 また、『日本書紀』によれば、この戦いのおり美濃国安八磨評の湯沐令(ゆのうながし)の多臣品治が、大海人軍の指示により不破道を塞ぐ役割を担ったとあります。なお、品治は『古事記』を撰上した太安万侶の父にあたるとされています。

 藤原京は持統天皇が694年に遷都してから、710年に元明天皇が平城京に遷都するまでのわずか16年間の都でしたが、京域は大和三山を取り込む広大な区域で、都大路によって区画された日本最初の都城とされています。
 『万葉集』には、藤原宮の造営に関わる儀礼歌(藤原宮の役民が作る歌@‐50)が載せられています。この歌からは、宮殿造営の木材を近江の田上山(たなかみやま)から伐り出し、それを宇治川に流して運んだことが分かります。『萬葉集全歌講義』によれば、田上山からの木材運搬経路は、大戸川→瀬田川→宇治川→木津川(泉川)・・・佐保川→泊瀬川→明日香とみられています。 
Posted by katakago at 19:48
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