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壱岐の古代史 [2012年02月10日(Fri)]

 二週にわたって、連続講座「古代史ぎっしり壱岐」と題する講演会に参加しました(主催は朝日カルチャーセンター中之島教室)。
 一回目(2/2)は、「魏志倭人伝に記された一支国 − 3世紀の壱岐を探る」(皇学館大学教授 荊木美行先生)で、二回目(2/9)は、「壱岐島の巨石墳と新羅外交」(国立歴史民族博物館教授 広瀬和雄先生)です。このあと更に二回予定されています。


 まず一回目は、3世紀頃の倭国の様子を記した中国側の文字資料(いわゆる「魏志倭人伝」)を読みながら、当時の壱岐(原文では、一大国または一支国)の実態を探ろうとするものです。なお、「魏志倭人伝」は、中国三国時代(220〜280)の正史『三国志』の一つ『魏志』の東夷伝倭人条の略称です。著者は晋の歴史学者の陳寿(233〜297)です。

 倭国に関する記述は全体で約2000文字の短いものですが、冒頭(以下読み下し文)、「倭人は帯方(たいほう)の東南の大海の中に在り。山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百餘国。漢の時朝見(ちょうけん)する者有り。今、使訳(しやく)通ずる所、三十国。」で始まり、狗邪韓国(くやかんこく)、対馬国に続き、一支国について57文字で次のように述べられています。すなわち、「また、南して一海を渡る千餘里、名づけて瀚海(かんかい)と日う。一大国に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里可り。竹木叢林多く、三千許りの家あり。差(やや)田地有り、田を耕すも猶食うに足らず、亦南北に市糴(してき)す。」とあります。弥生時代は低湿地で水田には不向きな場所も多く、食料を求めて南北に交易しなければならなかったようです。原(はる)の辻遺跡やカラカミ遺跡からは朝鮮半島との交易で得たとみられる中国貨幣や・鉄製品・朝鮮半島の土器が多数出土しているそうです(平成22年に壱岐市立一支国博物館がオープン)。原の辻遺跡は、深江田原(ふかえたばる)に広がる大規模環濠集落で、遺跡からは東アジア最古の船着き場跡が発見されています。


 二回目は、壱岐島に多数ある古墳とその横穴式石室の考古学的調査に基づき、6世紀後半から7世紀前半頃の壱岐島と新羅との関係について広瀬先生の説をお聴きしました。
 まず、壱岐島の古墳分布と特徴について、小さな壱岐島に約300基もの古墳が存在(長崎県下の6割強、対馬にはわずかに10数基)すること、その大多数は6世紀後半〜7世紀前半頃のもので(石室の腰石の大きさ、その上の石積みの段数により編年される)、うち6基の大型横穴式石室(前方後円墳2基、大型円墳4基)の集中分布は九州全域でも突出している(大型のものは九州全体でも20〜30程度)とのことです。広瀬先生は、「このような古墳の爆発的増加は、壱岐島の中の在地的要因だけでは理解できない」、という問題意識からその背景を考えてみようとの立場です。
 6基の大型の首長墓と残りの多数の群集墳(中間層の小型古墳)の比較では、大きさや副葬品で格差はあるものの(首長墓の副葬品には新羅土器や、緑秞陶器なども)、その横穴式石室の構造は共通の形式が採用されていることから、首長層と中間層はその社会的階層を超えて共通意識・イデオロギー的一体性を保持していた集団と考えられ、古墳の出現も終焉も同時期であることから、6世紀後半頃、福岡平野の首長層による多数の中間層を率いての壱岐島への移住が行われたとみられています。その背景には、中央政権がこれらの首長らに新羅に対する軍事と外交を軸にした国境政策をあたらせたとの見解です。そして、これらの大規模な古墳造営の様子は新羅からの使者にも見せつける意図もあったのではとみられています。
 なお、この当時の状況について『日本書紀』には、崇峻4年(591)「二万餘の軍を領て、筑紫に出で居る」とあり、推古10年(602)「来目皇子をもて新羅を撃つ将軍となす。軍衆二万五千人を授く」などの記事が載せられています。



 壱岐には、三年前に出かけたことがありますが、その時は、『万葉集』の遣新羅使人歌に関心があり、そのゆかりの場所を訪ねるのが目的でした。遣新羅使は、天武4年(675)から開始され、『万葉集』には、天平八年(736)に派遣された人々の旅中の歌が合計145首も載せられています(巻15)。このうち壱岐関係では、壱岐の島に着き、雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)が思いがけなくも悪疫に冒されて死去した時に作った歌一首と短歌二首が載せられています。なおこの頃、痘瘡(天然痘)が次第に蔓延し、天平9年(737)には多数の死者を出しており、これが雪宅満の死因ではないかと考えられています。
【歌】 石田野に 宿りする君 家人の いづらと我を 問はばいかに言はむ (N-3689)
【口語訳】 石田野(いわたの)に 旅寝する君よ ご家族に どうしたのですかと 尋ねられたら何と言おうか

 次の写真は、その折写した一首目の短歌の歌碑です。


 この時の大使は阿倍朝臣継麻呂、副使は大伴宿禰三中で、途中、海難、伝染病(天然痘か)などのさまざまな苦難に遭遇しています。大使は帰途対馬で病没し、副使も発病のため拝朝が二カ月も遅れています。その帰朝報告では、「新羅の国がこれまで通りの礼儀を無視し、わが使節の使命受け入れなかったこと」が奏上されています(『続日本紀』)。
Posted by katakago at 15:02
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