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地域活動・・・悔いなしとは行かなかった。 [2020年10月12日(Mon)]
地域活動・・・悔いなしとは行かなかった。

我が部落の公民館活動休止の連絡がきた。
春から休んでいるがさらに来年2月までは活動しないということである。
まっ当然と理解を示すが、

一つだけ疑問を呈す。

「こう言うときだからこそ!
自主防災組織活動を考えてみる機会ではないか?
と言う微かな自問である。
災害は順風満帆、不足が無い環境下とかで発生するものではない。
今回のコロナ禍はその意味で貴重な体験である。
いろんなシミュレーションを想定しながら「出来ることを考えて見る」
一昨年は、強い台風襲来で中止された。
これも本来なら良い環境対応機会であった。

役員の方々には苦衷同情するが、暇人の我が儘な受け方には苦笑せざるを得ない。

さて翻ってもう一つ地域活動への疑問である。
本当に地域活動が、
住民相互の親睦を図り、
健康と文化の向上につながる?
かどうかである。

愚拙は40数年間地域活動や社会活動に生き甲斐と奉仕精神(独りよがりかも)で踏ん張ってきたが、2年前に病のためリタイヤした。
その癖に「否」である。

その間、様々な軋轢や葛藤、親子交えての断絶・・・
等々を眺めてきた。
一切参加することなく、我関知せず、ひたすら仕事と家族の事、趣味に暮らす人たちこそ、生き甲斐暮らしを掴んでいるのではないか。

対して、地域活動のリーダーは、
事業展開の手順や、各種会議の都度に批判・攻撃され、四苦八苦している。
一度受けたが最後退任の道さえ閉ざされる。

しかも、である。数年前、否、十数年前のことまで延々と陰口・批判は続く。〇〇地獄・・・・とは、我が地域の蔑称である。

まっ結果的に「好きでやってるから」で終わりだが、
そんな愚拙を支えたのは、あの嫌いな左翼活動家「上野千鶴子氏」の提案である。

青年会議所の活動指針でも利用したが、我々町内会の或るグループでも規約に入れていた。

「 楽しく生きよう 」

   1.やりたい人がやる。やりたくない人はやらない。 
   2.やりたい人はやりたくない人を強制しない。   
   3.やりたくない人はやりたい人の足をひっぱらない。

まさにでありました。

行政に関連する範囲まで含む地域活動はそうも行かないが、何とも大事な要素が込められているものと思う。

役員や参加者にはご苦労様、ありがとう・・・
役員や参加者への批判中傷はしない。
例えば、参加できなくても協力できることはやる。


リタイヤした地域活動だが、コロナ禍を乗り越えて進化充実されることを祈る・・・・

学者 考 [2020年10月12日(Mon)]
川勝静岡県知事の暴言と、
学術会議が行政改革の対象となるヤブヘビ

愚老、生涯的に
学者とだけは言われたくないね?
いわゆる学術会議で図らずも露呈した、「学者」考であります。

例えば、
作曲家が・・・「家」を名乗るのに恐れおののいた話とか聞きましたが、
作曲者ではあるが「家」までは届かないと自らを律した著名人・・・
柔術から柔道へ、つまり「道」を名乗る過程での研鑽・・・
さて、それでは学者は何としようかね〜

憲法学者なども醜いばかりですしね〜

学者は学ぶ者・・・つまり発展途上的位置付け?
票かは如何?
で、研究開発など実績のある方は「いわゆる学者」として尊敬したいが、その尊名は?
博士??? 巷ではバカセといわれたりするしね〜

まっ、政府がどうのこうのではなく「自分たちが自分たちの尊厳をかけて創る新団体」を考えることが望ましい・・・
ほどほどの資金力でね。
金があると、そこには悪(左翼)が住み着くきらいがあるようだから・・・
ゆくゆくはみんな乗っ取られる・・・
それが今の日本の現実です。
特亜特権で日本廃絶・・・

◆我々岩手の田舎では、人を褒める場合に「あの人は学者だから」と言う表現には、「あの人は口先だけだから」と言う、実践力ゼロの軽蔑の意味合いが込められる場合が多いこともありますね・・・

では、以下、
本文 1

−私的憂国の書− さん
http://yukokulog.blog129.fc2.com/blog-entry-3977.html

 選挙で選ばれた政治家には任期があるから、一度選んで後悔しても、一定期間は批判しつつ、我慢も続けなければならない。我々日本国民が、悪夢の民主党政権で経験した失敗だ。恐らく、少なくない静岡県民の皆さまも、今、このことを実感されているのではないかと思う。


本文 2
日本学術会議内の共産党の息のかかった活動家は学者ではない!
2020年10月11日 | 学問

−草莽隊日記−

日本学術会議のメンバーのように、政治的なイデオロギーにこだわり、それを武器にして学問の自由を主張する者たちが真の学者といえるのだろうか。

それはまさしく活動家の部類ではないだろうか。

日本共産党の民主主義科学者協会に属しながら、その一方で国の機関の公務員として提言するなどというのは、アクロバットの極みであり、そもそも不可能なことではないだろうか

▼もう一度私たちは、マックス・ウェーバーの『職業としての学問』(尾高邦雄訳)を読み返すべきだろう。
ウェーバーは「預言者や扇動家は教室の演壇に立つべき人ではない」と言い切っている。

「預言者や扇動家に向かっては普通『街頭に出て公衆に説け』と言われる。

というのはつまりそこでは批判が可能だからである。

これに反して、自己の批判者ではなく自己の傾聴者にのみ面して立つ教室では、預言者や扇動家としての自己は黙し、これに代って教師としての自己が語るのでなければならない」と主張したのである

▼「党派的意見にとって
都合の悪い事実の如きを承認するように教える」こと
が学問であるというウェーバーの意見にこそ、学者は耳を傾けるべきなのである。

学者が集まって国に提言や助言をする組織であるならば、なおさら様々な意見があってしかるべきである。それを許容できないようでは、民間にするか廃止するかしかないのである。
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