アジアカップの決勝点シーンを見て想う。ついでにベストキッド
[2011年01月31日(Mon)]
サッカーのアジアカップの決勝戦。日本対オーストラリアは、途中出場した日本に帰化した在日韓国人の李選手のゴールが決勝点となり、日本が優勝しました。
それにしても、このアジアカップ。アジアの複雑さというか、国境や国籍、どこまでがアジアかなど、様々な線引のことに気づかされました。
李選手は、かつて、韓国代表を目指していたそうですが、その時、韓国で在日韓国人をさげすむ「パンチョッパリ」という悪口まで言われたりしたそうです。日本でも、在日ということで差別を受けやすいのに、韓国に行っても差別されるというのはなんとも言えません。
結果としてU-19韓国代表の選考に落ち、今度は日本に帰化し、日本で北京オリンピックを目指す事に。
韓国戦で、長谷部が怪我をしなければ、出てきていたはずだったのですが。出てきたら、出てきたで、ご家族や親戚はどのような気持ちになったのでしょう。
先日、関西に戻っていたのですが、関西には在日専門の介護ヘルパーの派遣業者を見かけました。在日一世も、普段は日本語で生活しているわけですが、痴呆が始まると母語しか話せなくなり、日本語でコミュニケーションを取れなくなるそうです。そうなると、在日、2世、3世、4世は家庭内での介護が困難になってしまうそうです。そこで、その問題を解決するための専門の介護ヘルパーが必要になってくるのだそうです。
在日の2世、3世、4世って、どこにアイデンティティを持っていくのか、単純にはいかないようです。
一方、オーストラリアの方ですが。こちらも、複雑。今回はだいぶん減ったのですが、旧ユーゴのクロアチア系の選手が多いチームだったんです。オーストラリアのサッカーのレベルを上げたのは旧ユーゴから亡命してきたクロアチア系のおかげと言われるぐらいです。
クロアチア系のおかげで実力が上がり、FIFAワールドカップに出やすいように、オセアニアでなく、アジアサッカー協会に加盟し、なんでアジアカップにオーストラリアが・・・という事になっています。ヨルダンとオーストラリアでは地球の裏側って言いたいほどの距離があります。
決勝の審判は、旧ソ連のウズベキスタン人。アジアなんですが、ヨーロッパ的な所もある。その一方で、ヨルダンに近いトルコはヨーロッパなんですよね。
そして、決勝トーナメントの最初に当たったカタールですが、アフリカや南米から帰化した選手が出場。
帰化と言えば・・・
さっき、たまたま、映画「ペッストキッド」の1作目をDVDで見ていたのですが。
あの作品は、いじめられていた少年を、年老いた日系アメリカ人が空手を教えて、いじめた相手に自分を認めさせるという内容。
この中に、ミヤギが妻と子供の命日に酒を飲むシーンがある。
沖縄からハワイの開拓民として移民したミヤギは、第二次大戦中に、日系人にも関わらずアメリカ軍の軍曹として日本と闘っていた。その一方で、身ごもっていた妻は、日本人の収容所に送られ、満足な医療を受けられなかったため、出産の時の合併症でおなかの子供と共に命を落とす。
帰化して国のために戦っても、国は最低限の医療を保障してくれない。
それを知った少年は、なにも出来ない。
これを見ていると、帰化するって、メリットってなんなんだろうという気になってしまう。
エンターテイメント作品の中に、マジョリティが知らない、マイノリティの問題を織り混ぜたことで、作品に深みが出てきたように思う。
ちなみに、ジャッキーチェンの出てくるリメイク版も良くできています。アクションシーンは見事。近代化の象徴としての自動車に翻弄される人々というのが興味深い。
余談ですが。アジアカップの試合前の国家が流れるシーンでも注意してみると、国家を口ずさんでいない選手が多いチームがけっこうありました。帰化した選手はたいがい口ずさめていません。
日本は、中田英寿選手が歌わなかったと右翼から攻撃を受けた事件があって以降、口パクはしているのですが、よく聞くと歌っている声も聞こえます。他の国に比べて音程を外し方が少ないです。日の丸のメロディーの音域は日本人成人男性の音域とあっていないそうで、7割がうまく歌えないという話を聞いたことがありますが。けっこう頑張っているかも。
いっぽう、他の国は歌えても音痴がけっこう多い気がします。
国家とか民族とか、地域の境目って本当に複雑。
代表初ゴールが決勝点…帰化5年目の李忠成(読売新聞 - 01月30日 21:38)
青いサムライたちが苦しい戦いを次々に乗り越え、アジアの頂点に立った。
日本代表がオーストラリアを下した30日未明のサッカー・アジア杯決勝戦。延長で決勝ゴールを決めたのは、帰化してまで代表ユニホームにこだわり、人一倍の努力を重ねてきた李忠成(りただなり)選手(25)だった。
延長後半の109分、長友佑都選手(24)が左からクロスを送った時、突如としてゴール前に李忠成選手が現れた。満員の観衆の視線を浴びた背番号「19」は体を右へ傾け、左足で正確に球をとらえた。「あんなきれいなゴールは一生取れないと思う」。日本のサッカーファンの心に長く記憶されるだろう鮮やかな代表初ゴールが値千金の決勝点となった。
大歓声がわき起こる中、Jリーグの試合と同じ、矢を射るパフォーマンスを披露した。左足ボレーは「小学生の時から繰り返し練習してきた」得意技だった。
20日前の初戦ヨルダン戦に出場してから、プレー機会がなかった。だが、気持ちを切らさず、練習に打ち込んだ。試合後、「もう1回チャンスが来ると思っていた」「最後に俺がヒーローになると、毎日、思い続けていた」と興奮した様子で打ち明けた。
J1・柏で出場機会に恵まれず、広島へ移籍したのが2009年。そこでもベンチを温めたが、昨秋、主力の負傷で巡ってきた機会に得点を重ねた。これがザッケローニ監督(57)の目に留まり、代表に呼ばれた。
在日韓国人4世。韓国の19歳以下代表候補に招集されたこともあるが、代表からは漏れ、日本代表でのプレーを目指して06年に帰化申請した。翌年、認められて08年の北京五輪に出場した。「日本の中で、日本の文化で育った。日本代表のメンバーとしてアジアを制覇し、最後に自分が決勝点を取った。誇りに思います」。苦労を乗り越え、一夜でシンデレラボーイとなった若者は喜びをかみしめた。(ドーハ 大塚貴司)
<アジア杯>李忠成、日本を勝利に導く
(中央日報 - 01月30日 10:04)
李忠成がやり遂げた。
在日同胞で日本サッカー代表チームの李忠成は30日(韓国時間)にカタール・ドーハで開かれたアジアカップ決勝戦対豪州戦で、延長戦後半に値千金の決勝ゴールを決め日本を優勝に導いた。
延長前半に投入され最前方に就いた李忠成は、延長後半4分、長友の左クロスを左ダイレクトシュートにつないで決勝ゴールを決めた。決勝戦前まで1失点にすぎなかった豪州のGKシュウォーツァーも身動きできずにやられてしまった。李忠成は自身を選んだザッケローニ監督に走り寄り厚い抱擁を交わした。国際Aマッチ2試合目で入れたデビューゴールだ。
李忠成は2004年U−19(19才以下)韓国代表チーム候補として国内でテストを受けたがチーム入りはできなかった。在日韓国人をさげすむ「パンチョッパリ」という悪口まで耳にした。祖国の冷たい扱いは彼には大きな衝撃だった。その後日本で実力を認められた李忠成は、オリンピック代表に名前が挙がると、2006年9月に日本への帰化申請をして2007年に日本国籍を取得した。2008年の北京五輪では日本代表のレギュラーとして出場した。彼は当時、「大きな舞台でゴールを入れ世界に在日韓国人の可能性をアピールしたい」と話していた。帰化から4年で夢をかなえたのだ。
日本は2004年の優勝に続き2の大会ぶりに優勝カップを取り戻した。また、通算4回(2011年・2004年・2000年・1992年)の優勝で最多優勝国となった。
それにしても、このアジアカップ。アジアの複雑さというか、国境や国籍、どこまでがアジアかなど、様々な線引のことに気づかされました。
李選手は、かつて、韓国代表を目指していたそうですが、その時、韓国で在日韓国人をさげすむ「パンチョッパリ」という悪口まで言われたりしたそうです。日本でも、在日ということで差別を受けやすいのに、韓国に行っても差別されるというのはなんとも言えません。
結果としてU-19韓国代表の選考に落ち、今度は日本に帰化し、日本で北京オリンピックを目指す事に。
韓国戦で、長谷部が怪我をしなければ、出てきていたはずだったのですが。出てきたら、出てきたで、ご家族や親戚はどのような気持ちになったのでしょう。
先日、関西に戻っていたのですが、関西には在日専門の介護ヘルパーの派遣業者を見かけました。在日一世も、普段は日本語で生活しているわけですが、痴呆が始まると母語しか話せなくなり、日本語でコミュニケーションを取れなくなるそうです。そうなると、在日、2世、3世、4世は家庭内での介護が困難になってしまうそうです。そこで、その問題を解決するための専門の介護ヘルパーが必要になってくるのだそうです。
在日の2世、3世、4世って、どこにアイデンティティを持っていくのか、単純にはいかないようです。
一方、オーストラリアの方ですが。こちらも、複雑。今回はだいぶん減ったのですが、旧ユーゴのクロアチア系の選手が多いチームだったんです。オーストラリアのサッカーのレベルを上げたのは旧ユーゴから亡命してきたクロアチア系のおかげと言われるぐらいです。
クロアチア系のおかげで実力が上がり、FIFAワールドカップに出やすいように、オセアニアでなく、アジアサッカー協会に加盟し、なんでアジアカップにオーストラリアが・・・という事になっています。ヨルダンとオーストラリアでは地球の裏側って言いたいほどの距離があります。
決勝の審判は、旧ソ連のウズベキスタン人。アジアなんですが、ヨーロッパ的な所もある。その一方で、ヨルダンに近いトルコはヨーロッパなんですよね。
そして、決勝トーナメントの最初に当たったカタールですが、アフリカや南米から帰化した選手が出場。
帰化と言えば・・・
さっき、たまたま、映画「ペッストキッド」の1作目をDVDで見ていたのですが。
あの作品は、いじめられていた少年を、年老いた日系アメリカ人が空手を教えて、いじめた相手に自分を認めさせるという内容。
この中に、ミヤギが妻と子供の命日に酒を飲むシーンがある。
沖縄からハワイの開拓民として移民したミヤギは、第二次大戦中に、日系人にも関わらずアメリカ軍の軍曹として日本と闘っていた。その一方で、身ごもっていた妻は、日本人の収容所に送られ、満足な医療を受けられなかったため、出産の時の合併症でおなかの子供と共に命を落とす。
帰化して国のために戦っても、国は最低限の医療を保障してくれない。
それを知った少年は、なにも出来ない。
これを見ていると、帰化するって、メリットってなんなんだろうという気になってしまう。
エンターテイメント作品の中に、マジョリティが知らない、マイノリティの問題を織り混ぜたことで、作品に深みが出てきたように思う。
ちなみに、ジャッキーチェンの出てくるリメイク版も良くできています。アクションシーンは見事。近代化の象徴としての自動車に翻弄される人々というのが興味深い。
余談ですが。アジアカップの試合前の国家が流れるシーンでも注意してみると、国家を口ずさんでいない選手が多いチームがけっこうありました。帰化した選手はたいがい口ずさめていません。
日本は、中田英寿選手が歌わなかったと右翼から攻撃を受けた事件があって以降、口パクはしているのですが、よく聞くと歌っている声も聞こえます。他の国に比べて音程を外し方が少ないです。日の丸のメロディーの音域は日本人成人男性の音域とあっていないそうで、7割がうまく歌えないという話を聞いたことがありますが。けっこう頑張っているかも。
いっぽう、他の国は歌えても音痴がけっこう多い気がします。
国家とか民族とか、地域の境目って本当に複雑。
代表初ゴールが決勝点…帰化5年目の李忠成(読売新聞 - 01月30日 21:38)
青いサムライたちが苦しい戦いを次々に乗り越え、アジアの頂点に立った。
日本代表がオーストラリアを下した30日未明のサッカー・アジア杯決勝戦。延長で決勝ゴールを決めたのは、帰化してまで代表ユニホームにこだわり、人一倍の努力を重ねてきた李忠成(りただなり)選手(25)だった。
延長後半の109分、長友佑都選手(24)が左からクロスを送った時、突如としてゴール前に李忠成選手が現れた。満員の観衆の視線を浴びた背番号「19」は体を右へ傾け、左足で正確に球をとらえた。「あんなきれいなゴールは一生取れないと思う」。日本のサッカーファンの心に長く記憶されるだろう鮮やかな代表初ゴールが値千金の決勝点となった。
大歓声がわき起こる中、Jリーグの試合と同じ、矢を射るパフォーマンスを披露した。左足ボレーは「小学生の時から繰り返し練習してきた」得意技だった。
20日前の初戦ヨルダン戦に出場してから、プレー機会がなかった。だが、気持ちを切らさず、練習に打ち込んだ。試合後、「もう1回チャンスが来ると思っていた」「最後に俺がヒーローになると、毎日、思い続けていた」と興奮した様子で打ち明けた。
J1・柏で出場機会に恵まれず、広島へ移籍したのが2009年。そこでもベンチを温めたが、昨秋、主力の負傷で巡ってきた機会に得点を重ねた。これがザッケローニ監督(57)の目に留まり、代表に呼ばれた。
在日韓国人4世。韓国の19歳以下代表候補に招集されたこともあるが、代表からは漏れ、日本代表でのプレーを目指して06年に帰化申請した。翌年、認められて08年の北京五輪に出場した。「日本の中で、日本の文化で育った。日本代表のメンバーとしてアジアを制覇し、最後に自分が決勝点を取った。誇りに思います」。苦労を乗り越え、一夜でシンデレラボーイとなった若者は喜びをかみしめた。(ドーハ 大塚貴司)
<アジア杯>李忠成、日本を勝利に導く
(中央日報 - 01月30日 10:04)
李忠成がやり遂げた。
在日同胞で日本サッカー代表チームの李忠成は30日(韓国時間)にカタール・ドーハで開かれたアジアカップ決勝戦対豪州戦で、延長戦後半に値千金の決勝ゴールを決め日本を優勝に導いた。
延長前半に投入され最前方に就いた李忠成は、延長後半4分、長友の左クロスを左ダイレクトシュートにつないで決勝ゴールを決めた。決勝戦前まで1失点にすぎなかった豪州のGKシュウォーツァーも身動きできずにやられてしまった。李忠成は自身を選んだザッケローニ監督に走り寄り厚い抱擁を交わした。国際Aマッチ2試合目で入れたデビューゴールだ。
李忠成は2004年U−19(19才以下)韓国代表チーム候補として国内でテストを受けたがチーム入りはできなかった。在日韓国人をさげすむ「パンチョッパリ」という悪口まで耳にした。祖国の冷たい扱いは彼には大きな衝撃だった。その後日本で実力を認められた李忠成は、オリンピック代表に名前が挙がると、2006年9月に日本への帰化申請をして2007年に日本国籍を取得した。2008年の北京五輪では日本代表のレギュラーとして出場した。彼は当時、「大きな舞台でゴールを入れ世界に在日韓国人の可能性をアピールしたい」と話していた。帰化から4年で夢をかなえたのだ。
日本は2004年の優勝に続き2の大会ぶりに優勝カップを取り戻した。また、通算4回(2011年・2004年・2000年・1992年)の優勝で最多優勝国となった。