赤レンガ倉庫でひらかれた「デジタルアーカイブシンポジウム&市民メディア展」に行ってきました。
「みんなでつくる横濱写真アルバム」についての説明などがあり、横浜の市民活動は中高年がやたら元気だということと、神戸文化圏に住んでいた人として、この20年ほど横浜の文化が迷走していると感じていたのかがわかりました。
その原因は、アメリカにより接収されていた横浜にある米軍基地の存在です。米軍とともに、文化がもたらされていたのです。
米軍が日本に来て、その兵隊たちが車に乗り街に繰り出します。
横浜に住む若いハマっ子たちは、他の地域より早くジャズやバー、自動車文化など、本物のアメリカ文化の味を知ります。
矢沢永吉が、成り上がるために、広島から横浜に出てきたのは、そこに本物の文化があったからです。
その本物の文化を堪能したハマっ子は、甘いも辛いも知っているわけです。だからこそ、市民活動という文化的な活動が出来るのです。
もちろん、負の面もあったのでしょう。
横浜から横須賀にかけてを舞台にした絵本にもその面影があります。
「ダットさん」という1960年代後半の国産車が活躍する絵本があります。
この本の中で、ヨタハチちゃんという、国産車が悪いアメリカ車に捕らわれてしまうというものです。
「車」は「女性」を表すことがあるのですが。
ヨタハチちゃんを女の子としたら、米軍兵によってさらわれた女の子を、友達の女の子が協力して助けに行くというお話しになってしまいます。
まあ、横浜を舞台にした「赤い靴」という童謡も、異人さんに連れられて行ってしまうわけですが、そういうこともあったのでしょう。
横浜の都市化と共に、米軍施設の返還が行われたのですが、現在でも残っていますが、いまでは一見その面影はありません。
市街地区域は、比較的早く返還が行われたようですか、1968年の「米軍施設・区域調整計画を日米合意」あたりから返還が本格化しました。
日本が、敗戦の焼け野原から復興して、しかも米軍もベトナム戦争の敗戦色が出てこない「ダットさん」で活躍する車が作られた1960年代後半あたりが、もしかすると横浜カルチャーのピークかもしれません。
そして、1970年代後半の暴走族文化の象徴としての「横浜銀蝿」から、営団地下鉄半蔵門線の開通後、1983年の東急田園都市線沿線の横浜を舞台にしたテレビドラマ「金曜日の妻たちへ」の間に、横浜の米軍基地文化から東京のベッドタウン文化に、横浜のカルチャーが大きくシフトします。
まあ、「横浜銀蝿」で、すでに横浜が実態から遊離し記号化、バーチャル化していたとも言えます。
横浜のアイデンティティの一つが失われると同時に、東京の拡大の波がやってきたわけです。
ついでですが、1986年の「あぶない刑事」では、キャロルの親衛隊や暴走族のイメージからすっかりコミカル路線になった舘ひろしが象徴的です。
東京のベッドタウン化から、四半世紀たち「金曜日の妻たちへ」の舞台となった街のいくつかは、高齢化が進み、限界集落に向かいつつあるのですが、東急田園都市線沿線はいまだに、横浜都民の住み処として、新たな住民を増やしています。
これは、横浜ブランドの強さもあるでしょう。
ですが、神戸近辺で育った人から見ると、横浜は失ったアイデンティティを、1980年代の神戸をモデルに、埋め立て、山間部の開発、ポートピアなどの博覧会の開催など、規模を拡大して実施しているように見えてなりません。
その一方で、甘いも辛いも知っている世代のハマっ子が、定年を迎え、やりたいことをまた本格的にやり始めたように思います。(実はずっと続けていたが、ちょっと静かにしていた)
そんなことで、甘いも辛いも知っている世代のハマっ子(不良オヤジたち)の活動が面白いです。
「みんなでつくる横濱写真アルバム」は、そのパワーのごく一部です。
そして、そこに記録されている、歴史の教科書に載らないだろうと思われることが、その街の歴史であり、アイデンティティとなる。
Y150開国博が開催されていますが、甘いも辛いも知っている本物がわかる世代のハマっ子がつくる市民展示も是非注目してください。
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