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STILL ALIVE

2001 ニューヨーク同時多発テロによる海外渡航自粛
2002 SARS(重症急性呼吸器症候群)による渡航規制
2003 鳥インフルエンザによる東南アジアへの渡航規制
2004 スマトラ島沖地震による津波被害
次は何が起きるのか?

ここ、数年、観光で生きているタイ・プーケットは、毎年のように、数々の苦難が襲っているが、立ち直っている。
しかし、今年、2005年は、すでに津波被害からの復旧が終わったにも関わらず「日本人観光客だけがプーケットに来ない」という現象が発生。それは、タイ・プーケットで、現地のタイの人たちと共に暮らし続けている日本人たちを直撃。それでも、力強く、楽しく、生きている。そこには、今の日本社会が失った大切なものが生きていた。

ブログ名同名のドキュメンタリー映像の製作に関する話題。
風評観光被害の他に、地球温暖化の問題、コミュニティの再生、人間の回復、地域の再生、貧困問題などを取り上げてゆきます。
ツナミクラフトの「さをり織り」の情報。
エコロジーシアター「天の浮舟」情報も。


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被災者として、経営者として、ダイバーとして [2007年11月29日(Thu)]
今回のパンガー県訪問の最後の夕方に、ビッグブルーというダイビングショップに寄った。
実は2年前に、このダイビングショップの大村さんの紹介でツナミクラフトと出会ったのです。
今の活動は、大村さんと出会いがなければ、なかったのです。
だから、ちゃんとご挨拶をしようとお伺いしたのです。

↓大村さんにツナミクラフトを紹介してもらった瞬間が収録されているビデオ。

TSUNAMI CRAFT

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ビッグブルーはカオラックのメインストリートに面した所にある。
カオラックの中心地は小高いところにあるのだが、以前の店はその中心地のはずれにあったため、店のすぐよこまで津波が来た。(前の店のあたりは最低標高10メートルはあるだけに、津波が相当大きかったことがわかる)
津波は、町の中心部を避けるように、海岸沿いなど低い所を滅茶苦茶にしたそうだ。
いまのカオラックの町が栄えているのは、街の中心部が津波の被害がなかったため。そこを拠点に救援活動や復興活動が行えたからなのだそうだ。
それから3年がたち、いまでは津波なんかあったのだろうかという感じだ。

店に着いて情報交換をする。
実はカオラックという町には特徴的な土産物がない。そのため、現在ツナミクラフトを店内に置くことで、お客さんに満足してもらおうという考えているようです。
今回、回ったプロジェクトにもお話をしたのでつながってくれればいいですね。

大村さんは、この他にも津波被災地のためになるアイデアを持っている。

それが、ナムケンの港からダイビングの船が出せるようにするというアイデアだ。
いままでは、被災者の経営者として、店を開け続けることが自分にできる復興支援だったのだが。
津波から3年がたって、観光客が戻ってきたので、次のこととして、ナムケンなどの町の復興に役立ちたいという思いになっているのだという。

そこで考えたのが、ナムケンの港からダイビングの船が出せるようにするというアイデア。
ダイビングは、自然と共存して成り立つ仕事である。だから、船のエンジンも2サイクルではなく環境性能のよい4サイクルエンジンを選ぶなど、環境に気を使っているという。
だから、できれば、船を運行する距離も短くしたい。
そこで思いついたようなのだ。



ナムケンとスリンのルートを説明する大村さん


カオラックからスリン諸島に行く時、一度反対方向にある港に車で行って、そこから船でいくのだそうで、無駄があるのだそうです。
そこで目を付けたのが、ナムケンの港だったのだそうです。
しかも、観光客の誘致にもつながり。ナムケンの近くで作られるツナミクラフトの販売にもつなげることができるし。いまひとつ流行っていない津波記念公園などの活性化もできるかもしれない。

そのうえ、ダイビングをした後、すぐに飛行機に乗ると体に異変が起きることがあるので、一日の合間をあける必要があるわけですが。その間に、さをり織りの研修をうけたり、バティックの手ほどきをうけるとか、そういうアクティビティーを入れてみることもできるなど、様々な可能性を持っている。

いま調整の最終段階なのだが。今シーズンは自分の店だけで始め、成果が出ると次のシーズンは他の店も追随してくることにより、ナムケンのビジネスチャンスが増えていく。

そんなことで、まずは先例を作ろうと頑張っているとのことです。


いち早く、ナムケンからスリンに行ってみたい人は、ビッグブルーまで、ぜひお問い合わせください。

http://www.bigbluediving.jp/

カオラックでデイトリップ
http://www.bigbluediving.jp/khaolak/fundive.html
さをり研修センターに再び [2007年11月29日(Thu)]
プルッティアオの復興住宅街の取材を終え。パンガーの最終日ということで、バンムアンのさをり研修センターにもう一度行くことにした。



より成果の出る商品を開発していくためには、少しでも販売の現場の情報を伝えなければならないからだ。

さをり研修センターの方でも、様々な試行錯誤が行われていて、より付加価値の高い、衣服に応用できないかという模索がなされていた。
しかし、タイは暑い国なので、さをり織りの服では暑いので、なかなか難しいようだ。

とはいえ、素晴らしい作品ができつつありました。


タイパンツ


これは日本でも売れそうです。
実用というより、舞台衣装という感じです。

そろそろお別れの時間です。
なごり惜しいのですが、また、ここに来ることを約束をして、さをり研修センターを去った。


サワディーカップ
さようなら さをり研修センターと仲間たち



#それにしても、後ろの女性のウサギの耳のついたチェ・ゲバラTシャツが気になる。先日、没40周年でしたね。
津波孤児収容所を訪ねる [2007年11月29日(Thu)]
ナムケンの町に別れを告げ。
コーカオ島を訪ねたときのおもいつきで、プルッティアオの町に行くことにした。
津波前にコーカオ島に住んでいたプイさんの家族が住んでいる復興住宅街だ。
2月にも一度行ったのだが、そのときは、夕方だったのでわからなかったのだか。
最初にカオラックに来たとき、さをり織りの工房を探して迷い込んだ復興住宅街がプルッティアオだったようだったのだ。
去年の12月にこのプルッティアオに津波孤児収容施設が出来たので、当時の雰囲気と違って見えたのだが、昼間に来ると、位置関係が明確にわかってくる。


津波孤児収容施設


この津波孤児収容施設は、バンコクのスラム街などでの活動で実績のあるドゥアンプラティープ財団の手によって運営されています。
ノンアポだったので、前回は夕方だったので、せめて外観だけでも写させて欲しいと言った所中も写させていただけることになった。


この時間帯は多くの子どもたちは学校に行っているので、未就学児のみがいる。
ちょうどお昼寝タイムでした。
どんな夢を見てるのかな?


こちらの部屋は、賑やかな女の子たちがそれぞれぬいぐるみを抱っこしてします。
カメラに向かって、いろんな面白いポーズをとってくれました。
タイ人は子どものころからサービス精神旺盛です。

この施設には18歳までいることが出来るそうです。




そして、これが子どもたちが作るバティックです。
心のケアを目的として始まったバティックですが、だんだんレベルが上がっていることには気がついていたのですが。3年で職人クラスの腕になっていました。
成長の早さに驚いてしまいます。
(でも、ちょっと子どもらしさも残って欲しいところもありますが)

このバティックは、販売され、ここに暮らす子どもたちの生活費や勉学を学ぶ費用となっています。
以前もよく売れたのですが。
来年の夏は、このバティックを日本で広めたいと思いました。
涙がキラリ [2007年11月29日(Thu)]
お昼になったので、食事をと思ったのですが。
沿岸漁業の漁港がナムケンに出来た津波メモリアルパークの横に食堂があったことを思い出して行ってみることにした。

津波メモリアルパークは、去年津波二周年にあわせて作られた。
ですが、観光客は今ひとつ来ていないようです。
そのおかげで、メモリアルパークの隣の食堂は貸し切り状態でした。


ナムケン津波メモリアルパーク


この公園に来たもう一つの目的は、普段取引のないツナミクラフトの制作者の作品を手に入れることが出来るからである。
今年の二月に行ったときは園内に三軒ぐらいの土産物屋があったのだが、お客さんが少ないせいか一軒しかあけていなかった。
三脚とビデオとカメラというたくさんの機材を持ってバイクで移動しているので、あまり買い込めなかったが、普段取り扱いをしていないプロジェクトの商品を物色した。

その後に、前回行ったときに、どうしても足が向かなかったモニュメントの所に行ってみることにした。



津波を模したモニュメントと亡くなった方のレリーフとの間の道をあるくと、なぜか涙がこぼれてしまった。
ピピ島で津波の波に呑まれた方が言っていたのですが。津波の中の海の色はいままで見たことのない黒い色をしていたそうで。それが、このコンクリートで作られたモニュメントの色のイメージなんですよね。
海抜から計算すると、おそらくこのモニュメントの一番高いところかまで津波が来たということになる。それだけに、ここにいると人生半ばで波に呑まれてしまった感じがするんですよね。
(町の岸壁の高さが2メートル、村落中央部に残っていた津波の後からは高さ2メートル60センチ、つまり津波の高さは4メートル60センチだったという報告書があるからちょうど一致する)

バンニアンの10メートルよりは低いかもしれないが、人工物や町が海岸に露出し、移住労働者という弱い立場の人が多く住んでいるナムケンという町は、津波に弱く、被害が甚大になった。

モニュメントの向かい側に、亡くなられた方のレリーフが飾られている。
ナムケンは人口五千人にミャンマー人の出稼ぎ労働者がほぼ同数居たと言われている町にもかかわらず千人を超す方が亡くなり、対岸のコーカオ島は人口が少ないにもかかわらず百人の方が亡くなっている。
それらの名前が記されているんですよね。
時々外国人の名前があるので、おそらくナムケンだけでなくもう少し広い地域で亡くなった方がまつられているのだろう。(タイ語が読めないので正確なことが書けなくてすいません)
ただ、ミャンマー人の中には不法労働者も多く、正確な津波被災者の数がはっきりしていない。
つまり名前の記されていない死亡者、不明者がかなりいるということでもある。

津波メモリアルパークを後にして、青い漁船のところに寄ってみた。



大きなダンプが行き来し重機が何台もいて工事が行われていた。
開発が進んでいくんでしょうね。きっと。
ナムケンの漁港に行く(後編) [2007年11月29日(Thu)]
バティック作家のペーさんが紹介してくれた方の案内で、魚の仕分けをする工場を覗いた後、沖合漁業の港に着く。
すると、ちょうど船がついたところだった。



漁師が魚をかごに入れて浜にもってくる。
砂浜は焼けるように熱いのだが、平気で歩く。
タイ人の足の裏は無茶苦茶強い。



港についてからの基本的な仕事の流れは、沖合漁業も沿岸漁業も同じだが。規模が小さいだけにこじんまりとしている。



とはいえ、働いている人は、大漁に興奮しているようだ。
収穫の喜びは、人間が持っている典型的な喜びのひとつなんでしょうね。



いろんなおおきな魚がとれるわけだが、一部は港の近くで干物に加工されます。
新鮮な魚を加工しているせいか、いわゆる魚くささが少ない。



奥に見えるサイドカーで取れた魚をいろんなところに配達しています。

大きな組織で運営している沖合漁業に対し、どこか牧歌的な雰囲気のある沿岸漁業の漁港でした。
バティック作家の悩み [2007年11月29日(Thu)]
コーカオ島からナムケンの町に戻ってきた。
この町には、いくつかのバティック作りのプロジェクトがあるが。そのひとつのペーさんの工房に向かう。
4月にペーさんの工房に行ったのだが、不在だったので、今はどうしているのかと思って覗いてみたのだ。

ペーさんの工房の姿が見えると、たくさんのバティックがはためいていたので、ペーさんがいることが一発でわかった。



中に入るとペーさんがいた。
久しぶりの再会だった。
カヨコが、キルギスタンに行った話しは知らなかったようだが。
津波被災者の子どもたちをつれて、ニューヨークに行ったことを聞いた。
4月に店が閉まっていたのは、ニューヨークに行っていたのだろう。
4月の頭はタイがもっとも暑い時期なので、学校が夏休みになる、その時期を使ってニューヨークに言ったのだろう。
2月に行ったとき、あと2ヶ月で作品を作って、ニューヨークに行くと言っていたのでちょうどぴったり時期が一致する。



それにしても、ペーさんの描くバティックはかわいい。そしてグラデーションが見事である。

ペーさんは、ここで、学校が終わったあとの子どもを集めて、バティックを教えている。
ニューヨークにも、ここでの教え子と一緒に行ったようである。

しかし、ここにきて、子どもたちがバティックに対する興味を失ってきたようなのである。
それは、人口数千人のナムケンの小さな町にパソコンショップが5件建ち。世界各国からの支援が集まっているこの地域の学校には、コンピュータなどが入っているようなのだ。そのためコンピュータグラフィクスに子どもたちがはまり、バティックという手作りへの興味が落ちてきているのだそうだ。

ペーさんは、この町で、バティックを作ることを教えながら、ナムケンの歴史やライフスタイルを伝えてゆきたいのだそうだ。
これは、ここにくる外国人に対してもそうで、ナムケンの自然やライフスタイル知ってもらいたいと思っているそうだ。

ペーさんによると、朝10時までに沿岸漁業の漁港に行くと、マングローブでの漁に連れて行ってくれるそうだ。
ペーさんの工房を訪れたときは、もうお昼近かったこともあり、近所おじさんを紹介してもらい、沿岸漁業の漁港の姿を取材してもらうこととなった。
コーカオ島は発展中 [2007年11月29日(Thu)]
コーカオ島についた。
コーカオ島は、南北に20キロ以上、幅も5.6キロの三角形をした島で、丘もあるが、ほとんどが砂州で出来た平坦な島である。



コーカオ島の存在は、ツナミクラフトセンターの店長をしていたプイさんの出身地で。ミュージシャンでもある彼が、コーコーカオ(コーカオ島)に帰りたいという歌詞の歌を作っていたので、いつか行って見たいと思っていただけに、感慨深いものがあった。

コーカオ島についてまず目に入ったのが、真新しい整備された道路だ。
とにかく路面がきれい。
町は、港の近くにちょこっとあり、しばらくは平野の中を道がまっぐ走っているだけだ。
島の奥の丘の近くには小さな村があり学校もあるが、そこまでは何キロも直線を走る。
両脇はゴム林、牧場、パーム畑などが続く。
この島は、タイ人にとって、新しく開拓すべき大地としてという感覚なのでしょうか。



こういう道にも津波復興のために多額のお金が投じられている。

次に目に付くのが、新しいリゾート施設。
ナムケンとコーカオ島の間に橋を作る計画があって、それを見込んでの建設という話も聞くが。やはり、あまりにも美しいビーチがあって、こういうリゾート施設も立地するのだろう。



ビーチはとても美しいけど、カニの撮影に成功したので、スナガニの仲間の写真を掲載します。



あとコーカオ島の特徴は、島の広い範囲でハマヒルガオを見かけるということだ。
低湿地の部分も多いのだが、砂浜に近い植生が広いことをあらわしている。
ここに、10メートルを越えたといわれる津波が襲ったわけで、島のかなりの部分に津波の被害が出たことが容易に予想できる。
とにかく島が広いので、高いところに逃げるのに何キロも逃げなければならない。
避難所まで4.6キロとか徒歩なら1時間はかかってしまうような看板をいくつもみただけに、早い段階での津波警報の必要性のある地域だといえる。

それと、花の名前はわからないが、プイさんがバティックに描いていた花がいっぱい咲いていました。



プイさんは、津波の前はこの島でレストランを経営していたのですが、津波にあった後は、本土のプルッティアオの避難所に住んでいたのですが、お母さんが津波が怖いということで結局島に戻れず。レストランの従業員とともにバティックの技術を覚えて、バティックの製作を行っていました。
もともとセンスがあったのでしょう。すばらしい作品がたくさん出来たのですが。売り上げは芳しくなく。今年の頭、バティック製作を休業し、ツナミクラフトセンターの店長でもあったのですが現場の仕事を妹に任せて、パンガー県南部に出稼ぎに行ってしまいました。
そして、9月にツナミクラフトセンターは店を閉じた。

今回、忙しかったので、プイさんに会えなかったのですが。
今、プイさんはプーケットでホテルの従業員をしているとのこと。
語学が堪能で、サービス精神が旺盛で、しかも、西洋人のマナーも理解していて、しかも洒落っ気のあるプイさんのことだから、3つ★、4つ★クラスのホテルで即戦力だと思います。
きっと結果を出してくると信じています。

つくづく思うのですが、災害によって人の人生が翻弄されてしまうんですよね。
しかも、この話はプイさんだけの話ではなくて、無数にあるんですよね。
タイ人はやさしいから、家族の誰かが津波が怖いというと、海の近くにあったかつての家には住まずに、復興住宅に住む。そのことによって、今までと同じ仕事や生活が出来なくなる。
それは、家族はそのままですが、一種のコミュニティ破壊が起きうる状況とも言える。

このコーカオ島に出来上がってきている新しいリゾートやレストランを眺め。津波がなければ、プイさんはここでレストランをやっていたのだろうかと思いにふけるのと同時に、津波がなければ、このコーカオ島に足を運ばなかったかもしれないということに気づき、少し複雑な気分になった。
コーカオ島に渡る [2007年11月29日(Thu)]
ナムケンの港に早朝に着いたのをいいことに、フェリーに乗ってコーカオ島に行くことにした。

フェリーは2種類あって、ひとつは車が載るようなフェリー。
もうひとつは、渡し舟である。


このフェリー、下船をスムーズにするため、車はバックで入れる。


フェリーの乗り方を確認しようとうろうろしていたら、小型の渡し舟からコーカオ島で取れた貝が運ばれてきた。
運ばれるやいなや買い手がついていた。



小型の渡し舟には、バイクも積んでいけるので、渡し舟で渡ることにした。
ところが、ひとつ難関が・・・
それは、バイクの免許を取る時とは違う、本物の一本橋を渡らなければならないのだ。
失敗すると海に落ちます。
タイを旅すると、タイ人のバランス感覚の素晴らしさに驚くことが多い。

このあたり、慣れている船頭さんにお願いして、船に載せてもらいました。


わたしのレンタバイクに乗り、一本橋を渡った直後の船頭さん



海の男らしい一コマ
ピンクのフィッシャーマンパンツが似合っている



沖から見たナムケンの沖合漁業の漁港


渡し舟はけっこう高速で、体感的に5分ぐらいでコーカオ島の付近についた。港の近くで他の船との着岸する時間調整を入れても10分で対岸にいけるのはとても便利だ。

ナムケンの漁港に行く(前編) [2007年11月29日(Thu)]
夜明けごろに宿を出て、バイクに乗って、タイ国内での津波の最大の被災地であるナムケンの町に向かった。(津波前後で陸地の形が変形してしまったということで、よく紹介されるのでナムケンの町の名前を知っている方もいるかもしれませんね。)

お坊さんの托鉢とスクールバスに乗る子どもたちの姿というタイの地方の典型的な朝の風景の中を、背中に映像機材を積んでバイクでひた走る。

ナムケンの町は、100年前までは5軒ほどの民家しかない村落だったが、錫鉱山が発見されて発展し、その後、漁業で栄えることとなった。
このあたりは、鉱物資源が多く、近くのタクアパーという地名も鉛を意味するビルマ語(ミャンマー語)が語源の地名でもある。ちなみにナムケンは、タイ語で塩水という意味だそうで、海岸沿いの低湿地らしい地名だ。

ナムケン町にあるコーカオ島行きのフェリー乗り場の横に、沖合漁業の漁港があるので、もぐりこんだ。

ナムケンの漁業は大きく分けて2つのタイプがあり、沖合漁業とマングローブで仕掛け網をするような沿岸漁業がある。フェリー乗り場の近くには沖合漁業の港、津波メモリアルパークの近くには小型船の沿岸漁業の港というふうに、漁業の方法によって港が分かれている。



沖合漁業の方は、上の写真のような、建物がいくつも並んでいて。その建物ごとに、数隻の漁船と乗組員、水揚げされた魚を選別する人、計量して値段をつけて販売する人など、少なく見ても100人が1つのチームとなって作業を行っている。
こういうチームが、ナムケンだけで7.8チームある。つまり、沖合漁業だけでも1,000人の雇用が発生しているわけだ。このほかにナムケンの町は船を修理するための工場などもあり、関連産業も含め一大産業となっている。
私の見たところ、乗組員の多くはミャンマー系の方が多く、お金を勘定するのは中国系のタイ人のようだ。

水揚げされる大漁の魚、アイスクラッシャーの爆音、とにかくたくさんいて、きびきびと仕事をする人々。ここにいて感じるのは熱気である。

残念ながら私のついた時間は既に遅かったようで、水揚げの瞬間が撮影できなかったが、活気のある風景は撮影できたので掲載します。









選別された魚は氷と一緒に容器に入れ出荷される。
バンニアンの夕市に再び [2007年11月28日(Wed)]
タレーノーク村での撮影が終わり車で2時間かけてバンニアンに戻ってきた。
バンニアンでは、週二回、水曜日と土曜日に夕市が開かれる。
市場って、どこでも、なかなかエキサイティングですが、観光地であるカオラック付近で、唯一、地元のタイ人たちの暮らしに直接的に接することのできるイベントだ。











外国人たちは、そこらのレストランで毎食300バーツとかそんな食事をしているのですが。ここでの買い物なら20バーツで腹いっぱいのものが買える。
ついつい、お金の価値について考えてしまう。
バンコクにいるときは10バーツが日本の100円ぐらいの価値なのかなと思うのですが、地方に行くと5バーツが100円ぐらいの価値となる。

そう考えると1リッター32バーツになったガソリンは、相当高価なものってことになる。
せっけん作り [2007年11月28日(Wed)]
今回、タレーノーク村に行った目的は、せっけんの制作過程を確認しにいくことでした。


タイ人は植物をこよなく愛していて
町の顔であるコミュニティーセンターの周りは花がたくさん飾ってある


町のコミュニティーセンターに行き、しばらく待っていると、見慣れた顔が集まってきました。
2月に訪れた時についで、またもや、会うやいなや、うちの王子が来ていないのか聞いてきた。ただでさえ子供が大好きなタイ人ですが、6カ月で日本からタイにきたという事がよっぽど印象的だったのでしょう。

せっけんは、固形化したパームオイルを熱し、水を加え、苛性ソーダを使わずに再結晶化という方法で作る。おかげで、泡立ちが細かく保湿成分が強い。
これがかなりの力仕事だ。
二人の女性が交代しながら杵をつく。





杵でついている間にハーブの調合をします。

そして、ころ合いを見計らって溶かして水と混ぜたパームオイルに入れます。

それから再び、ひたすら混ぜる。



そうしてできあがったものを、トレーに入れて。約3週間日陰に干すと完成です。

それをクッキーカッターなどでカッティングすれば完成。



タレーノーク村の津波対策 [2007年11月28日(Wed)]
前回、タレーノーク村に行ったときは工事中だった山の上のヘルスセンターと学校が完成していた。
ここは、2次避難所としての機能を持っているとのことだ。かなり高いところにあるので、何十メートルというかなり大きな津波が来る以外は大丈夫だ。



街中には避難経路を記した地図、避難所ルートの看板、警報装置も立てられている。
港から村の避難所まで3キロ以上の距離がある。しかも、約1.5キロは道路が海岸と平行して走っているので、おそらくバイクに何人もまたがって逃げるのであろうが、津波が早く来てしまった場合は危険だ。

港に向かう海岸に沿った道はとても美しい。



この警報装置のあたりが一次避難所。


タレーノーク村に着く [2007年11月28日(Wed)]
モーケンボートの工房を後にして、国道4号線を北に走る。
このあたりになると検問が増えてくる。私が日本人であること、同乗している人がいつもここを通過しているボランティアであるということで、難なく検問通過。
さらに北上して、エピの養殖場の角を海のほうに曲がる。道がどんどん悪くなり峠道になる。険しい山の一番低いところを通っているとはいえ、小さいとはいえ峠は峠で。坂を下ったところにタレーノーク村がある。
ここまで、クラブリーから30分以上掛かっている。

タレーノーク村は、小さなイスラム集落で、多くのイスラム集落と同じようにタイの文化にマレーシアの文化が混じった感じのうえに、男性が巻きスカートをしているというミャンマー(ビルマ)の文化も混じっている。



このタレーノーク村の主な産業は漁業だ。
街中には、小さいがカニの生簀と加工場がある。



せっけん作りの作業まで時間があるので、漁港に行くことにした。

漁港は村から3キロぐらい離れたところにある。
この港は天然の港で、外海と内海を隔てる砂嘴の内海側にある。
片一方に広大なビーチと広いアンダマン海、そして、美しい島が見える。そして、もう片方はマングローブの生い茂った内海が見える。

私がついたときは、ちょうど網の手入れをしているところだった。



ここでは、マングローブに網を仕掛ける漁をしているようで、船には鮮やかな旗がはためいている。



また、ここタレーノーク村の特産はクラゲである。
これがけっこうでかい。

モーケンボート工房 [2007年11月28日(Wed)]
パンガー県の2日目はクラブリーやタレーノーク村を訪ねる。
まずは、道案内をしてくれるNATRのあるクラブリーに向かう。今度は片道100キロ以上の道のりなのでレンタカーに乗っていく。
このあたりで最大の町タクアパーを通過する。
このあたりの地名は、いろんな国の言葉が由来だったりするが。タクアパーとはビルマ語の「鉛」という言葉が語源だといい。古くから鉱山の町として栄えていたようだ。
ちなみにプーケットはマレー語で「岡」という意味の言葉が語源で、ラノーンは英語の「Rain on」という言葉が語源だと言われている。
タクアパーの町を抜け、スラタニーへ行く道との分岐点を過ぎると、牛の看板が見えたと思ったら、少し見通しの悪いカーブを曲がったところに牛が道路を横切っていてあわててブレーキを踏む。
こんなど田舎で、日本人が牛とぶつかって交通事故で死んだなんて新聞に書かれたくない。
そこから、延々と走り続けて道が広くなって両脇に店が立ち並ぶと、そこがクラブリーの町だ。
事務所の場所が変わったとのことで、バスターミナルに車を止めて、電話で道案内を呼ぶ。
2.3分でTuiさんがバイクに乗ってやってきた。
ソイに入り、新しい事務所についた。今までの事務所より小さくなったが素晴らしい事務所だ。
津波から時間がすぎてNGOも事業を変化させてきている。スタッフを減らした一方で、収益事業を増やしている。


新しいNATRの事務所


NATRは、現在エコツアーなどに力を入れている。
津波の支援のひとつとして、この地域のことを、自然のことを、文化のことを知ってもらうということをしているのだ。


マングローブの植林体験ツアーの様子


事務所で次の取引についてなど、いろんな打ち合わせをした後。タレーノーク村に向かう。
その前に、Suさんの案内でモーケンボートの工房に向かうことにした。

モーケンボートとは、この地に住んでいる海洋少数民族でシージプシーと呼ばれる「モーケン族」のボートである。
モーケン族はかつてはその多くは水上生活がメインだったのだが、近年は陸上にも住むようになっている。陸上に住むようになった理由は国家というものの存在も大きいようで。町を中心に国を作るポリス形国家ではなく、近代以降の西洋的な概念で出来上がった国境という概念からすると、国境を勝手に行き来し、国籍も設定しにくい、遊牧民的な生活者は国家からはあまり都合のいい人と映らないようで。国家による安全が保障されないために地上に定住して生活する方が有利になった。というか、定住政策を進めた。
このあたりの事情は、山岳少数民族にしろ、モンゴルなどの遊牧民にしろ、どこも似た事情のようで。そのために、伝統的な生活が出来なくなる。そのため、自然とともにした生活から、都市生活的な生活に転換することで、結果として自然を破壊してしまう事も発生しがちだ。
ちなみに、モーケン族は、スマトラ島沖地震による津波で世界中に知られるようになった。
海洋少数民族は、東南アジアだけでも、かなりいるようですが、山岳少数民族のようにあまり知られていない。

モーケンボートの工房とショールームにつく。
意外と近代的な建物で、モーケン族のイメージはあまりないが、作品の力強さに驚く。


大型の作品
日本で販売するとなると、1艘最低数万円の値段がつけられるだろう



イルカを持った少年?



中型の作品


いつも、ツナミクラフトの生産者を回ると驚くことなのですが。
毎回、行く度に作品のクオリティーが高くなるんです。
モーケンボートもその例外ではない。

今まではどれだけ売れるかがまったく予想がつかないことと、素朴さがあったがクオリティの問題もあり、相当の値段で買ってくれるのかという疑問があったために導入には躊躇していたが。
今回の作品をみて、少し日本に導入してみてもいいのかなと思うようになった。

出来て展示会とインターネット通販というところでしょうかね。
さをり研修センターを訪ねる [2007年11月27日(Tue)]
宿に荷物を置き、レンタルバイクに乗りバンムアンにあるさをり研修センターに向かう。
今回借りたバイクは、なんと新品。しかもメーターは1.6キロ。本当の新品だ。
レンタルバイク屋は、先シーズンの2台から4台にバイクを増やして、ビジネスを拡大していたのだ。
いつも定宿からバンムアンまでは約30キロ。信号はひとつもない。
車がビュンビュン飛ばすので、うまく抜かさせて走るのが、このあたりの運転テクニックと言える。
カオラック、バンニアン地域から離れていくと、だんだんといつもの風景になってきた。
国道の両脇に続く復興住宅街もいかにも新築という真新しい状態から、普通の町になろうとしているように見えた。
研修センターの駐輪場にバイクを止めていると、私に気がついたのか建物の中から手を振っている人がいる。なんか戻ってきたような気がする一瞬だった。

職場には約30名の女性が働いているが、笑顔が耐えない。


仏教ともイスラム教徒もともに働く



現在ベルトの生産に力をいれている



さをり織りの反物



バックの加工をする女性


このバックは、大阪のタイフェスティバルでもたくさん売れたが、バンコクでも売れているとのこと。現地の人は、私がデザインをしたバッグだと言っているけど、紐の長さやどのようなデザインが日本人にウケるということをプロダクトマネージャーに伝えただけなんですけど・・・。
それにしても、タイの女性たちのセンスはいい。

ミニ浦島状態 [2007年11月27日(Tue)]
8ヶ月ぶりにカオラックに来て驚いた。
とにかく新しい建物が一気に増えた。
とくにバンニアン地区の発展は著しく。一度は津波で何もなくなったところなのに、
新しいレストラン、新しいホテル、新しい店・・・・
ため息が出るばかりだ。



左側の建物は、津波から1年目のときも2年目のときもずっーと工事中で、いつまでたっても完成しないと思っていたのだが。いきなり出来ていた。
津波直後に工事が中断していたのだが、先シーズンにきっちりと儲けて、資金を蓄えたのか、一気に工事が進んだ。



流されてきたポリスボートの脇にあるレストラン。
2年前に訪れたときは、どうにか屋根を葺いたという感じで。家具や調度品類もいろんな方から提供されたものだった。
先シーズンは装飾品が増えたという感じだったが。今年は屋根が新しく大きく立派になっていた。
店員さんも私のことを覚えていて、ちょっとうれしかった。このあたりが、この店にリピーターが増える理由のひとつだろう。
料理ももともと豪華だったのだが、ボリュームもパフォーマンスもパワーアップしていた。
私の訪れたときは、誕生日を迎えたお客さんがいて、電気と音楽を消し、ろうそくの下で、店員さんも他のお客さんも一緒になって誕生日を祝った。


ライトアップされたポリスボート


大資本もどんどん入ってきたりしている一方で、津波直後からがんばっている店が必ずしも順調に行っていないようだ。
観光地として開発が進むと、家賃などが上昇する。そうすると、店の維持が難しくなるわけだ。
私の定宿と化しつつあるP&Yも、新しいビジネスとして、ツアーカウンターを儲け、バーでも食事が出せれるようになった。同じ商業施設内にあったツナミクラフトセンターも家賃が払えず次のシーズンを待たずに閉鎖してしまった。


閉鎖されたツナミクラフトセンター


ダイビングショップのオーナーが、店を持っている被災者の出来る復興策は、どんなことがあっても、とにかく店を開け続けることだと言っていた。
しかし、経済的に苦しい状況で店を開けることはリスクが多く、新たに発展するのに必要なプールが出来ない場合もある。そうならないようにするのが、経営者というものだが、どうしても巨大な資本の元に新規参入してくるものからすれば、不利になってしまうことがある。

はじめてきた人には、わからないだろうが、地元の人はそのことをわかっていて、そういう努力をしている店に集まってくる。しかし、発展して新しい住民が増えることによって、店を閉めずに頑張っていた店が、必ずしも流行るとは限らない。


タイ航空の機内誌 [2007年11月27日(Tue)]
関西国際空港からバンコクへの飛行機の中で機内誌を手にした。
するタイのビーチの特集が掲載されていた。



カオラックやプーケットのリゾートの魅力がメインなのだが。途中からタイの最大の津波被災地のマングローブの話題を中心に自然の素晴らしさの話題かせ書かれていた。そして、最後の方にちらっと津波の話が書かれていた。
こういう報じ方っていいですね。
通常は、場所の説明のためには、津波に被災したことから順番に説明するケースが多いのだが。それに対し、この特集は今の姿の素晴らしさから入るというアプローチは実にすばらしい。災害なんて興味のないほとんどの人には、素晴らしさのほうが必要な情報でそれをきっちりと抑えた上で、最後まで読んでくれた人には過去のこともわかるという構成になっている。
しかもタイミングも見事で、これからハイシーズンに入る時期に、うまく時期をあわしている。しかも津波3周年となる来月は、プミポン国王の80歳の誕生日でこの2年続いていた王様フィーバーが最高潮に達し、機内誌でも多くのページを割くことになるだけに、先に津波の被災地の復興を促進する特集を組んでおこうということなのだろう。
その国を代表する航空会社の国際線の機内誌という国の看板だけにあって、様々な配慮をした紙面づくりになっていると改めて感じた。
24時間空港 [2007年11月26日(Mon)]
ただいま関西空港にいます。
これからタイに行きます。
TG643便は1時25分発ということで、早朝にバンコクに着く便です。
成田を夕方に発つ便もあるのですが、バンコクで1泊すると結構高くついたりするし、移動が大変だったりするし。朝の便だと、下手すると夜遅くプーケット空港に着き、そこからパンガー県に移動するのが大変だったりする。
しかも、成田エクスプレスは結構時間がかかるし、席が取れないこともあるので。新幹線でもプラス2時間で関空というのは、結構いけるんです。しかも「はるか」を利用しても、大阪までとあまり変わらない。飛行機でも便によっては経由になるので羽田から意外に安い。
タイやバンコク経由での旅には結構便利。

ただし、店が全く開いていないので時間つぶしが大変。
てなことで、ブログ書き込み。

では、いって来ます。
いいお産の日in青山 [2007年11月25日(Sun)]
東京ウイメンズプラザにて「いいお産の日in青山」が開催されました。
出産ショー、授乳ショーなどの他、様々なワークショップが開かれ、多くのママ、パパや子どもたちが参加しました。

午前中の「出産ショー」は、擬似的にお産をする寸劇なのですが、ホンモノの産科医とホンモノの助産師がいるので、妙にリアルな部分があったりして、会場の場が引き締まる。
疑似ということで、自宅出産という(職場出産)で、今のトレンドにのったフリースタイル分娩を再現しています。
出産後は、職場復帰や、男性の育休についてのトークがあり、かなり充実した内容となっていました。
今回は男性の参加者の意識が高いようで、ちゃんと話を聞いたりしていました。
逆に女性の方は目の前の出産の事で頭がいっぱいで頭に入らなかったという方もいらっしゃったようで。出産後のことの事前指導の難しさを感じました。
受験などもそうだけど、目の前の大きな試練に全力を傾ける傾向ってのが確実にあって、そのおかげで、大きな試練が終わった後のことがおろそかになるということって、大いにあるようです。

午後は様々なワークショップが行われたのですが、イチオシなのはヴォイスチャンティングでした。ファシリテートは、『STILL ALIVE 2005年プーケットに何が起きたのか』のナレーションをしたくれた星野ゆかさん。音楽は花さん、タクちゃん、あだっちという強力メンバー。
妊婦さんをメインターゲットに、要は声を出して癒されていくというものですが。
赤ちゃんや子どもも、いつしか会場の真ん中に集まってきてゴロゴロしたり。ミュージシャンの所に行って、楽器を一緒に弾いてみたりしてました。
一方、参加者の妊婦さんが何人も涙を流していました。
いろいろ辛かったんだろうな。

この他に、オモチャの選び方だとか、ベビーマッサージなど様々なワークショップが夕方まで行われたようです。
予告編をアップ [2007年11月25日(Sun)]
You Tube にSTILL ALIVEの予告編を掲載しました。

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ドキュメンタリー映画「STILL ALIVE 2005年プーケットに何が起きたのか」
まいける東山監督作品 ドキュメンタリー映画「STILL ALIVE 2005年プーケットに何が起きたのか」