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STILL ALIVE

2001 ニューヨーク同時多発テロによる海外渡航自粛
2002 SARS(重症急性呼吸器症候群)による渡航規制
2003 鳥インフルエンザによる東南アジアへの渡航規制
2004 スマトラ島沖地震による津波被害
次は何が起きるのか?

ここ、数年、観光で生きているタイ・プーケットは、毎年のように、数々の苦難が襲っているが、立ち直っている。
しかし、今年、2005年は、すでに津波被害からの復旧が終わったにも関わらず「日本人観光客だけがプーケットに来ない」という現象が発生。それは、タイ・プーケットで、現地のタイの人たちと共に暮らし続けている日本人たちを直撃。それでも、力強く、楽しく、生きている。そこには、今の日本社会が失った大切なものが生きていた。

ブログ名同名のドキュメンタリー映像の製作に関する話題。
風評観光被害の他に、地球温暖化の問題、コミュニティの再生、人間の回復、地域の再生、貧困問題などを取り上げてゆきます。
ツナミクラフトの「さをり織り」の情報。
エコロジーシアター「天の浮舟」情報も。


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バンニャンの夕市 [2007年01月31日(Wed)]
カオラックに来て4日目となった。
津波復興プロジェクトを案内してくれるカヨコがまだ現地についていないこともあり、カオラックという地域の説明のための撮影をしている。
朝から、カオラックのビーチを全貌出来る所に行く。




カオラックの近くにはちょっとした山があり、そこはジャングルが生い茂り、しかも場所によってはカオラックが一望出来る。
プーケット空港からカオラックに初めて来るお客さんの中には、海をイメージしてきたのに、突然山に登り、ゴム畑ではなくジャングルになることで不安になる方もいるそうだが。
この山があるからこそ、カオラックらしさがあるといえよう。

とにかく、国道沿いからいきなりジャングルを見ることが出来るのは楽しい。



坂をゆっくり下って、カオラック市街地に近づく。

ツナミボランティアセンターは引っ越し準備をしていたり、タイ政府保健省心のケアセンターも引っ越して普通のテナントになっていたりと。津波から2年経ち、普通の街になってきている。
そして、カオラックの市街地の夜は、津波以前のような賑わいとなっているとのことだ。

以前取材したダイビングショップを訪ねてみる。
このダイビングショップの方との出会いから、津波復興住宅の民芸品と出会うことになった店である。
残念ながら、日本でのダイビングのイベントのために、店主とは会えなかったが、久し振りにあった女性店員と遭い、感謝を述べる。

今夜遅くに現地を案内してくれるカヨコがプーケット空港につくので、その出迎えと、明日からの復興住宅巡りのこともありレンタカーを借りバンニャンに戻る。

飛行機の到着までかなり時間があるので、バンニャンの夕市を覗いてみる。
ここは、週に何日かだけ、ポリスボートの近くのセブンイレブンの裏のあたりに市が立つ。



市には、新鮮な海産物もある。
この地域は、イスラム教徒が多いのでスカーフをした女性がたくさんいる。





惣菜屋には外国人観光客もやってくる。
たった5バーツから、おいしいものがいただけるというのも魅力。

夕市は、日没が過ぎる頃には多くの店が店じまいをしてしまう。
夕方のひとときだけのショッピング天国である。

お店は、いつでも開いているというのもいいけど、こういう、週に何日かだけ、何時間かだけしか開かないというスタイルも楽しいし、お店としてのリスクが少ないような気がする。
シミラン諸島日帰り [2007年01月30日(Tue)]
カオラックを知るにはということで、シミラン諸島に行ってみる。
シミラン諸島は、アンダマン海の沖にあるのサンゴのきれいな島で国立公園となっている。
プーケットからも船がでているが、直線距離としては、カオラックのほうが遙かに近く、これがカオラックが人気となる大きな要因となった。
私は、ヨーロピアン向けの日帰りツアーに混ぜて頂き、日帰り旅行をすることにした。
船には、大きく分けて、ダイビングを楽しむコース、シュノーケリングとビーチを楽しむコースの二つのコースがある。ダイビングも、その人の体力などさまざまな条件によって、細かくコースが別れているようだ。
私は、ファミリー向けのシュノーケリングのコースに紛れる。
船には30人ほどのお客さんが乗る。

船は2時間少しで、シミラン諸島に着く。
ゴムボートに乗って上陸。



サンゴによってできた真っ白なビーチ。
印象的な岩。
透き通った海。
とても気持ちが良い。





私が写真やビデオを撮っていたら、同じ船に乗っているドイツ人のグループの写真も撮ったりと、とても和やかな雰囲気。

昼食を食べに船に戻る。

この船は、朝食、昼食がつき、飲み物もビール以外は飲み放題である。
暑いだけに、水分が不足しがちなだけに、こういう飲み放題サービスは有効だ。

食事をしていると、魚に餌をやるパフォーマンスも。
しばらくすると、魚だけでなく、ウミガメまでやってきた。



午後は、ダイビング班に混じり、ダイビングの風景を撮影。
といっても、船の上からです。



どのダイバーも、楽しそうに上陸してくる。

ダイバーとシュノーケリング部隊を回収し、船は帰途に向かう。

同じ体験をしたことにより、往きに較べて、和やかな雰囲気。
ビールもおいしそう。

日没の頃、船は港に着いた。

ヨーロピアンに囲まれながら、なんか楽しい一日でした。

バンニャンの夕日 [2007年01月29日(Mon)]
ポリスボートで有名な、カオラックの隣町のバンニャン。
朝から、ポリスボート参りをしたり、明日のシミラン諸島への準備をしたりとで昼間を過ごす。日本人が経営している雑貨屋も覗いてきました。神のお告げでつくったTシャツもありました。去年の夏、鎌倉の由比ヶ浜のリトルタイランドに行くときに、このTシャツを着ている人に出会って知った店なのですが。やっと行けました。

ゲストハウスに戻ってから、ビーチに繰り出してみた。
カオラックは海が西側にあり、海に太陽が沈むところを見ることが出来る。

取材のために来ていたこともあり、カオラックのビーチに出ることがなかったのですが、見事なビーチです。
砂は、花崗岩質の微妙にクリーム色がかった白い砂。六甲山の花崗岩からできた甲子園の浜と少し似た色だ。どことなく、生まれ育ったところの砂と似ていると、ちょっと心が和む。
ビーチの砂って、海岸毎に少しずつ、色、粒の大きさ、質などが違う。これは、プーケット島内でも同じで。鳴き砂のあるカロンビーチでも、少し場所がかわれば砂の質が変わる。
ビーチに行くと、このあたりの違いを見つけるととても面白い。



バンニャンのビーチは、プーケットのパトンビーチと対照的にとてものどかだ。

沖合には漁船が出ています。
「究極超人あ〜る」のセリフに「逆光は勝利だ!」というセリフがありましたが。
ついつい、逆光の写真を撮りまくりです。


カメラを構えていると、丁度良いところに、おじさんが、海に入ってくれたので、そこで、パシャリ。


波打ち際を歩いていると、足下を素早く動く小さなものが・・・

どうもカニみたいです。

カニ穴を見つけたので、10分以上粘って撮影。





そうこうしているうちに、日が沈んできました。


プーケットからカオラックに移動 [2007年01月28日(Sun)]
午前中、打ち合わせをして、カオラックに移動。
その日は、ちょっとぬかってしまい。カロンビーチでのビーチクリーニングを撮影し損なう。もう少し情報網を張っておくべきでした。
打ち合わせが終わり、プーケットタウンのバスターミナルに送ってもらい、エアコンバスに乗り込む。

余談ですが・・・
プーケットだけかもしれないが、タイでは店の看板で税金を取るらしい。
その税金の金額は、外国語のみの場合と、タイ語が含まれる場合とでは金額に差があるそうです。
そこで、外国人向けの看板の端っこに、小さくタイ語の表記を入れることで節税するのだそうです。





話は戻って・・・

約1時間少しでカオラックに到着。
プーケット島内は空いていたが、パンガー県に入ってバスが混み合い出す。
途中で下りる人も多い。
プーケット県内が他の交通機関が充実しているせいもあるのでしょうか。
国際的な観光地ではない、普通のタイの片鱗を感じる一瞬である。

以前取材したダイビングショップを覗き。
いろんな人にお世話になりながら。
どうにか、今日の宿にありつく。
そこはバンニャンにあるスイス人とタイ人の夫婦が経営しているプールバーの上にある小さなゲストハウス。
6ヶ月になる赤ちゃんも出迎えてくれた。

この店は、津波でお店の道具が流されてしまったけど、建物は残った。
多くの人が、この地での商売を諦めて他の土地に行ってしまう中、最後まで残って、お店を再建したのだそうです。
気だての良い奥さんや、料理の得意な親戚の方がいて、津波の後、多くのお店が閉店してしまい、なにもない街の中で、多くの人の心の拠り所になった店なのだそうです。

津波から2年が経ち、2回の雨期が過ぎ、雨水が海水の塩を洗い流し、辺りは青々としている。
この店だけでなくこの町には多くの物語がある。

少しずつでもお伝えしてゆきたいと思います。
 

朝のパトンビーチ [2007年01月27日(Sat)]
昨夜、プーケットに到着し、これからの取材の準備をしていたら。
日本から持ってきた携帯電話が、日本への携帯電話が繋がるが、タイ国内への電話が繋がらないという現象が発生。タイ国内用の携帯電話を調達することに。
とはいえ、朝から携帯電話屋が開いているわけではなく。それまでの時間、ビーチを歩いてみることに。





ビーチは海水浴を楽しむ人たちを迎える準備中。



この気持ちの良い時間帯を利用して、ちょっとした運動をする中高年の白人の方が多い。

津波から2年経って、日本人観光客が戻って来ているのだが、どうも客層に変化があるようで、格安旅行パックの影響からか、若い客層に変わったようです。
朝、ビーチで軽く運動をして、午後はゆっくりするという楽しみ方は、時間とお金に余裕のある方に是非満喫してもらいたいところだ。

さて、携帯電話屋の開く時間になり、一番安い携帯電話を購入する。

これで大丈夫かと思い電話をかけてみると掛からない。
タイ語でアナウンスが流れる。
また、掛かる電話番号もある。

仕方ないので、しばらく、電話番号の書かれたメモを見ていたら。
気がつきました。
そうです、携帯電話の番号が変わっていたのです。
今までの電話番号に、上から2桁目に8を追加して掛けないと掛からないんです。

なんとなく、損した気分でしたが。
タイ国内用の携帯電話をゲットすることに。
よくよく考えると、日本の携帯電話で日本やタイ国内に電話をかけるより、タイの電話で掛ける方が通話料が安いことを考えると、すぐ元が取れるという計算もなりたったので、まあいいかという感じです。

とりあえず、とにかく便利なプーケットに寄ることの効果があったというところでしょうか。


夜になって、バングラ通りから脇に入ったところにある、以前取材したシーフードレストランに行く。
店に行くと、見慣れた顔がいた。なんか嬉しい。
しかし、髪の毛が若干白くなったようだ。
どうも、タイ人の奥さんが体調を崩したため田舎に帰り、そのかわり日本人のご主人がホテルの仕事を辞め奥さんの店を守っていた。
口調は相変わらずだが、津波以降、日本人のお客さんが、ホテルから外に出なくなったこと、客単価が下がった事などを話してくれた。

今回、プーケット空港について、北欧からの便がきたりしてかなり30分ほど入国審査待ちをしていると、以前来たときより日本人が多かったことに驚いた。しかし、その人数からすると、確かに街を歩いている日本人が少ない。
(とはいえ、ネットカフェに行くと、若い日本人を見かけたりする)

お店の方の話に、妙に納得してしまった。
ハイシーズンのプーケットに到着 [2007年01月26日(Fri)]
パンガー県からラノーン県にかけての津波復興の取材の準備のため、物質文明と資本主義が徹底しているプーケットに入った。最初にバンコクに寄らなかっただけに、足りない備品を現地調達しやすいプーケットは有り難い。
ただし、プーケットは物価が高いのが欠点だ。

特にハイシーズンとなると、宿泊費が高くなる。
今回は、パトンビーチのビーチに近いゲストハウスに泊まることにした。



ゲストハウスの主人曰く、山沿いに行けば、もっと安いのに・・・
とのことだったのだが。
プーケットの特にパトンビーチ付近のタクシーの値段が高いので、移動に一日に数回タクシーなんかを使ってしまうと、差額が埋まってしまう。
てなことで、ハイシーズンのビーチ近くに泊まることにした。

空港のタクシーは、このゲストハウスのことを知らなかったことと、パトンビーチ付近がごく最近、一方通行に規制されたことで迷ってしまい、かなり時間をくったが、どうにか到着した。



ちなみにパトンビーチの一方通行は、信号により車が止まるということが無くなったために渋滞が緩和したのは良いが、大回りになったり、普段左側通行なのに、右側通行になる道路が出てきたりして、混乱を来すという副作用もあった。

どうにか部屋に落ち着き、1階のレストランに行くと、以前取材でお世話になったダイビングショップの一行と出会う。社長はダイビングのイベントがあるため私とは逆に日本に行ったとのことだ。

食事が終わり、西洋人を中心とする観光客がいっぱい居るバングラ通りを通過し。
以前、取材に行ったバーに行く。
以前取材した時と変わらず、カウンターひとつ、従業員一人でお店をやっている。

ネェちゃんと、いろいろ話していると、何故かタイの修学旅行の話になった。
去年、エイコンズ・タイ・ウィークで上映した「デック〜子ども達は海を見る〜」の話は、どうも、修学旅行の部分について、タイ南部でもあまり変わらないということがわかった。
どうも修学旅行は、バスにお釜を積み、寺に泊まりながらの貧乏バス旅行で。修学旅行代の200バーツとか300バーツがなかなか払えないので、アルバイトをして修学旅行の積み立てをしたそうです。

そして、修学旅行に行った所が、今、働いているプーケットからクラビのあたりだったのだそうです。
学校のあった場所は、海が近かったけど、そことプーケットでは砂の色が全く違い、その美しさに驚いたのだそうです。

その後、彼女はプーケットで働くようになるわけですが・・・
今のプーケットは、街中をちょこっとタクシーに2回乗れば200バーツ、300バーツするわけで、そのお金の価値観の落差は大きい。
同じ国の同じ地方なのに大きな差である。

お金の価値ってなんだろうと考えてしまう話だった。

カフェツアー終了 [2007年01月17日(Wed)]
お陰様で、津波2周年カフェツアーが無事に終了致しました。
最終日の大阪・谷町九丁目の伽奈泥庵は、40年の伝統のあるお店で、イベントに来た人の中には、もう20年ほど前に通っていたという方もいました。その一方で前から行きたい行きたいと思っていてもなかなか来る機会を作れなかった方もいらっしゃいました。
そして、今回のツアーは、西宮、大阪、京都、東京の4都市での開催だったので、名古屋を通過していたのですが、名古屋から近鉄特急に乗って見に来られた方もいらっしゃいました。本当に有り難いです。

ライブのほうは、フラメンコギターの高岡なおきさんとシンガーソングライターの松井恵子さんの2人だったのですが。とてもクオリティの高い演奏でついつい聞き惚れてしまいました。
伽奈泥庵の内装とフラメンコギターの相性もばっちりで、目を閉じるとスペインの洞穴のような石造りで木の床で演奏しているのかという錯覚を覚えました。

松井恵子さんのピアノ演奏と歌声も最高でした。途中、飛び入り参加でジャンベも加わり楽しいライブとなりました。
これは、私がリクエストしたのですが「みんなでごはん」「小さな小さな話がしたい」も演奏をしてくれました。
今回のカフェツアーのテーマがまさに「みんなでごはん」「小さな小さな話がしたい」なんです。
このツアーは、災害の復興を通して平和構築に焦点を置いているわけですが、みんなで食事が出来るという事が平和の基本で、カフェというご飯の食べられるスペースでのイベントを開催したわけです。タイでは、食事をしている時に、友達を見かけたりすると、食べないかと誘う習慣があります。これは、どんな貧しい人も、今、食べなければ死んでしまうような人も、そうするそうです。まあ、社交辞令みたいなものなのですが・・・。ちなみに、断る方法は、お腹がいっぱいだと言えばいいそうです。
そして「小さな小さな話がしたい」というのは、ドキュメンタリー映画は、必ずしも大きな社会問題ではなく、小さな話の集合体であると考えて居るんです。一つ一つは、小さな話だけど、それが繋がることで、一つの何かが見えてくる。この見えてくるものは一人一人違ったりするから面白い。こちらとしては意図していなかったのですが、「小さな小さな話がしたい」がカフェツアーの締めの曲となった。
ちなみに「小さな小さな話がしたい」は、松井恵子さんのアルバムのタイトルにもなっています。


松井恵子さん


今回のイベントを通して、新しい動きが出てきました。
それは、災害の風評被害についてのネットワークが出来る可能性が出てきたと言うことです。

そんなことで、いろんな人との人的ネットワークが出来たイベントでした。
そして、多くの方の協力もあって、最後まで実施出来ました。

3会場で歌ってくれた阿部ひろ江さん、2会場で演奏してくれたフラメンコギターの山岡なおきさん、2日間の演奏とSTILL ALIVEの音楽をつけて下さった岡さやかさん、2日間の演奏と素敵なアーティストを紹介してくれたあだっち、素敵な歌と三線を演奏してくれた山崎潤さん、素敵なキーボードとボーカルを聞かせてくれたROOTさん、心地よい演奏をしてくれた感謝さん、急なお願いにもかかわらずフラダンスを踊ったくれたあーちゃんさん、会場全体を使って踊ってくれた伊藤虹さん、大雨にもかかわらずやってきて三線を弾いてくれたはなわさん、途中まで来てくれていたのに大雨で会場に来られなかった寿[kotobuki]のナーグシクヨシミツさん、最後の最後に締めくくって頂いた松井恵子さん、会場であるManchaPEACESASARAandZone伽奈泥庵で料理を作ってくれたり様々なお手伝いをしてくれたみなさま、広報の協力、ブッキングの協力をしてくれた方、その他に様々なお手伝いをしてくれたみなさま、そして、年末年始の忙しい時に時間を割いて見に来てくれたみなさま、本当に有り難うございました。
これで、津波2周年記念イベントは終わりますが。今後も少しずつイベントを実施してゆきたいと思いますので、宜しくお願い致します。
思わぬところでクーデターの影響 [2007年01月07日(Sun)]
タイでクーデターがあってしばらく経つが、細かく、いろんな所に影響が出てきている。
私は、津波クラフトの輸入を行っていて、海外送金を行っているのですが、そこに困った問題が起きているのです。
それは、なんと、普通に送金をしたら、そのうち70%しか送金する口座に届かず、残りの30%は国が1年間預かるということなのだそうだ。そうしないためには、証明が必要で、その証明の書類がどのようなものであるかが、日本の金融機関が把握していないため、現地の金融機関に問い合わせをしなければならないのです。
国を守るという事を考えた場合、クーデターの後のような政治的に不安定なときに、海外から大量のお金が入ってきたら、海外の金の力に任せた圧力で国を転覆されかねない。これが、大口の送金に限った話ではなく、小口でも数多く送られた来たら塵も積もれば山となるで、けっこうな金額になる。貨幣の価値が低いいわゆる途上国では、先進国ではわずかな金でも価値が高くなってしまうわけで、その影響力はバカに出来ない。
本当に実践しているかはわかりませんが、国家安全保障は、国が国民の安全を保障しているわけで。その土台である、国家が安定して国家安全保障が成り立つと考えると、このような国を守る行為は国民にも利益を与えると言える。
とはいえ、2年前のスマトラ島沖地震の津波のように国を超えて災害が起きたときに、少数民族や移動型の生活をしている民族など国籍がハッキリしない人、政治的な問題があってその国の人として認められていない人、事情があって国を逃げてきた人、移民労働者などに、国家は安全の保障をすることが難しい。
国が国を守ること、国が国民を守ることは、とても大切なことで、尊重されることだと思うのだが。国というシステムは、すべての人間の安全を保障をするには限界がある。
別に、国を守る行為が悪いと言っているわけではないのだが、国が自国を守る行為をしている事を目の当たりにした時、私は国によってどのように守られているのか、どのような場合は安全保障の枠の外に出てしまうのかが妙に気になってしまった。

さて、今のところ、現地の金融機関がどのような書類を必要とするのかという情報がうまく入手出来ていません。どなたかご存じの方がいらっしゃいましたら教えて下さい。

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ドキュメンタリー映画「STILL ALIVE 2005年プーケットに何が起きたのか」
まいける東山監督作品 ドキュメンタリー映画「STILL ALIVE 2005年プーケットに何が起きたのか」