エコロジーとノスタルジー
[2010年12月15日(Wed)]
帰国後、エコプロダクツ2010などのイベントが続き、ちょいとひと休みということで、タイで買ってきたDVD観賞。タイで買ったと言ってもタイの映画でなくスタジオジプリ作品のタイバージョン。ちゃんと日本語のオリジナル音声も入っています。

なんやかんやで、このスタジオジプリコレクションは、11本買い集めちゃっています。
エコ、エコ、エコという展示会から解放されて、「おもひでぽろぽろ」「平成狸合戦ぽんぽこ」「耳をすませば」と立て続けに見てしまいました。
作品を見ていて、エコイベントで感じていた漠然とした疑問などが明確化することがありました。
「おもひでぽろぽろ」は、1980年代の前半、田舎暮らしにあこがれる女性が、山形に行き有機農業を始めた青年と出会うという話なんですが。その中に、農村風景が見渡せる場所で「都会の人はこの風景を見て自然がいっぱいというけど。この風景はみんな人間が作ったものなんですよ・・・」というようなセリフが出てくる。
都会の人には、里山というのは、自然の風景だと言う思い込みがあるという事を見事に指摘しています。
里山に関しては、ネット記事で岸由二さんが、多くの人が思い浮かべている里山ライフは「幻」のようなものと指摘しています。実際の農業の現場は、大規模農業で米や野菜の工場のようなもで、それがメインである。だから、残された里山に資源を集中することは、生物多様性の問題解決の効果が薄いと指摘している。
しかも、大自然は里山ではなく、それらの保全にも役に立たないとも・・・。
里山保全は、自然環境の保全と言うよりも、ノスタルジーの拠り所を守る要素が高いように思います。災害の後、原風景が無くなるという事を通して、身にしみる部分もあるのですが。人にとっては、原風景の保存は大切なことです。だから、この活動も大切です。
さて、「平成狸合戦ぽんぽこ」ですが。
公害や環境の問題に対する反対運動のパターンを見事に踏襲している。
作品が出来た15年前と、現在も続く道路や基地、核施設などの反対運動も同じ経過を辿っているように見えるのが、なんとも言えない。
自然や未知のものへの恐れに対してもものともしない人間たちに対し、最後の力を振り絞って人々のノスタルジーに訴えかけるが、あくまでも幻で、効果は一時的なもので、結局は敗れ去り、散り散りとなり隠れ住むようになる。
もとネタの狸合戦の舞台である四国の屋島の話が出てくることから、平成というものが、平家物語に連想が及んでいく。
エコロジーの話をするとき、ノスタルジーに訴えかける方法が採られるケースが多いのですが。決してメインストリームにはなれないという事を示唆しているように思えるんですよね。
しかし、実際はノスタルジーに訴えかければ、どうにかなると思っている活動家が多いように感じる。
どのようにすれば、環境問題におい現実的にものごとを進められるようになるんでしょうね。

なんやかんやで、このスタジオジプリコレクションは、11本買い集めちゃっています。
エコ、エコ、エコという展示会から解放されて、「おもひでぽろぽろ」「平成狸合戦ぽんぽこ」「耳をすませば」と立て続けに見てしまいました。
作品を見ていて、エコイベントで感じていた漠然とした疑問などが明確化することがありました。
「おもひでぽろぽろ」は、1980年代の前半、田舎暮らしにあこがれる女性が、山形に行き有機農業を始めた青年と出会うという話なんですが。その中に、農村風景が見渡せる場所で「都会の人はこの風景を見て自然がいっぱいというけど。この風景はみんな人間が作ったものなんですよ・・・」というようなセリフが出てくる。
都会の人には、里山というのは、自然の風景だと言う思い込みがあるという事を見事に指摘しています。
里山に関しては、ネット記事で岸由二さんが、多くの人が思い浮かべている里山ライフは「幻」のようなものと指摘しています。実際の農業の現場は、大規模農業で米や野菜の工場のようなもで、それがメインである。だから、残された里山に資源を集中することは、生物多様性の問題解決の効果が薄いと指摘している。
しかも、大自然は里山ではなく、それらの保全にも役に立たないとも・・・。
里山保全は、自然環境の保全と言うよりも、ノスタルジーの拠り所を守る要素が高いように思います。災害の後、原風景が無くなるという事を通して、身にしみる部分もあるのですが。人にとっては、原風景の保存は大切なことです。だから、この活動も大切です。
さて、「平成狸合戦ぽんぽこ」ですが。
公害や環境の問題に対する反対運動のパターンを見事に踏襲している。
作品が出来た15年前と、現在も続く道路や基地、核施設などの反対運動も同じ経過を辿っているように見えるのが、なんとも言えない。
自然や未知のものへの恐れに対してもものともしない人間たちに対し、最後の力を振り絞って人々のノスタルジーに訴えかけるが、あくまでも幻で、効果は一時的なもので、結局は敗れ去り、散り散りとなり隠れ住むようになる。
もとネタの狸合戦の舞台である四国の屋島の話が出てくることから、平成というものが、平家物語に連想が及んでいく。
エコロジーの話をするとき、ノスタルジーに訴えかける方法が採られるケースが多いのですが。決してメインストリームにはなれないという事を示唆しているように思えるんですよね。
しかし、実際はノスタルジーに訴えかければ、どうにかなると思っている活動家が多いように感じる。
どのようにすれば、環境問題におい現実的にものごとを進められるようになるんでしょうね。