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STILL ALIVE

2001 ニューヨーク同時多発テロによる海外渡航自粛
2002 SARS(重症急性呼吸器症候群)による渡航規制
2003 鳥インフルエンザによる東南アジアへの渡航規制
2004 スマトラ島沖地震による津波被害
次は何が起きるのか?

ここ、数年、観光で生きているタイ・プーケットは、毎年のように、数々の苦難が襲っているが、立ち直っている。
しかし、今年、2005年は、すでに津波被害からの復旧が終わったにも関わらず「日本人観光客だけがプーケットに来ない」という現象が発生。それは、タイ・プーケットで、現地のタイの人たちと共に暮らし続けている日本人たちを直撃。それでも、力強く、楽しく、生きている。そこには、今の日本社会が失った大切なものが生きていた。

ブログ名同名のドキュメンタリー映像の製作に関する話題。
風評観光被害の他に、地球温暖化の問題、コミュニティの再生、人間の回復、地域の再生、貧困問題などを取り上げてゆきます。
ツナミクラフトの「さをり織り」の情報。
エコロジーシアター「天の浮舟」情報も。


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<世界防災フォーラム>海外参加者が被災地スタディーツアー [2017年11月29日(Wed)]
仙台で世界防災フォーラムにあわせて被災地を巡るスタディツアーを行ったそうです。

日本は生活再建が遅れているのですけど、それを世界の方に見てもらうのはとても良いと思う。

世界の防災の専門家に、現地に来てもらい、現物を見てもらって、いまからどのようにすれば良いのかのアドバイスをいただくのが良いと思います。

日本国内ばかり見ていては、視野が狭くなり。もっと簡単な問題解決方法を見つけづらくなる。

日本の人も、海外の被災地がどうなっているのかを見て、いまからどうするのか。これからどうするのかを考えてほしいです。

参考 ツナミクラフトのタイの津波被災地のスタディツアー 2018年春 2018年夏 


河北新報 2017年11月28日 より

<世界防災フォーラム>海外参加者が被災地スタディーツアー​

津波避難タワーを見学するツアー参加者=27日、仙台市宮城野区中野5丁目

 仙台市で開催中の世界防災フォーラムに伴い、市は27日、海外からの参加者を対象に東日本大震災の被災地を巡るスタディーツアーを実施した。被災地を見て復興の状況を確かめてもらおうと、26〜28日に市内外で全5コースを設定し被災地の今を世界に伝える。

 ツアー2日目となった27日は、インドネシア、カナダ、イランなど12の国と地域の研究者や行政担当官ら23人がバスで市内の被災地に向かい、宮城野区の南蒲生浄化センターなど3カ所を視察した。
 南蒲生浄化センターは市内に6カ所ある下水処理施設の一つ。震災時の津波で甚大な被害を受け、昨年4月に水処理を再開した。加藤公優所長は「震災後にかさ上げし、太陽光発電設備も導入して災害に備えている」と紹介した。
 ドイツ政府の気象関連機関に勤める研究者ハラルド・ケンプさん(33)は、がれきが衝突し壁が大きくへこんだ旧施設に驚いた様子。「甚大な被害をもたらした津波の威力を実感した」と話した。
 参加者はセンター近くの中野5丁目津波避難タワーも訪問。市防災計画課の鈴木知基課長は「避難タワーに上る防災訓練を毎年実施しており、昨年11月の福島県沖地震では実際に住民が避難した」と説明した。タイの官民共同の水処理施設で働くロイフィン・ラサミテスさん(23)は「行政だけでなく、草の根レベルでも防災に取り組んでいる点が素晴らしい」と語った。
 ツアーのコースは震災遺構の旧荒浜小(若林区)や名取市閖上などで、計約100人が参加する予定。

夕張のホテルの朝食にて [2012年07月03日(Tue)]
夕張のホテルで朝食終了。
朝食バイキングの会場での印象は7割以上が外国人客。
中国、韓国が多い。
香港からは自転車で北海道を巡るチームが来ている。

夕張が財政破綻した当時は外国人観光客はおらず。宿泊客が少ないため、バイキングではなく朝定食だった事を考えるとずいぶんお客さんを取り戻したものだ。
しかし、夕張を訪れる宿泊客で増えたのはあくまでも外国人であって日本人ではない。

これは、北海道の他の観光地も比較しないと言えないので検証しないといけないことだが。
夕張の日本人観光客が増えない理由は、財政破綻というマイナスイメージのせいもあるのではないかと思われます。
財政破綻直後は、夕張を支援しようと、物産展を催したり、いろんなグッズが開発されたり、新しい工場を夕張に建てたりした。
しかし、五年経って、その神通力は力を失い、残ったのは日本人にとってマイナスイメージだけなのでお客さんが来ないのではないでしょうか。
話題になった花畑工場のキャラメルさえも勢いを失った。
逆に外国人にとっては、そういうマイナスイメージがないだけに、素直に夕張を受け入れることが出来るし。過剰な設備は多くのお客さんを受け入れる町の能力となっている。

これから、東北の復興を考える上で夕張の出来事は無視できない事だと思う。
マイナスイメージに影響されやすい日本人より先入観の少ない外国人を相手にすること、自転車などアクティビティを取り入れることで観光にバリエーションを与えることで観光客の幅を広げることが、顧客をとりもどすキーになると思います。

しかし、特に中国からのお客さんに関しては団体旅行になるので、ある程度大きな施設にしかお客さんが来ず。地域に直接お金が落ちにくいという問題がある。
外国人観光客が来ても、地域にお金が落ちる構造を作っていく必要がある。
ボランティアが認められないために退社する人々 [2011年07月09日(Sat)]
東日本大震災から4カ月経とうとしてますが、先日、ボランティアに行かせてくれないために会社を辞める決意をした方に遭った。
東日本大震災は阪神大震災に比べボランティアが少ないと言われています。
被災地と大都市との距離が遠いということもあり、団体でしかボランティアを受け入れないという地域がたくさんありました。
これは、これで、合理的な理由があるのですが、結果としてボランティアに行きたい人からすれば大きなハードルとなっています。
この方は、ボランティアに行きたいが、ボランティア団体に所属していなかったために、被災地に受け入れられないだけでなく、ボランティアに行くという公的な証明が出ず、会社のボランティア休暇がもらえなかったそうです。
そして、そこから職場への不信感が増し、会社を辞める決意をしたのだそうです。

以前、プーケットで、職場に被災地に行くのを拒否されたために、退職し被災地でボランティア活動をするようになった女性の事を思い出した。
彼女の場合は、被災地では伝染病の危険性があるからという理由で、職場にタイの被災地に入る事を制限された。
実際はそうでないのに・・・・
これも風評被害ですよね。

ツナミクラフトとして活動しているから、そういう境遇の人が寄ってくるという面もあるでしょうが。実はけっこう多いんじゃないかという気がしてなりません。

ボランティア休暇を取らせない事で、人材を失っている職場ってけっこうあるかもしれません。
たとえ、退職しなくても、職場に対する不信感を持たれるでしょうね。

参考

この映像の15分30秒あたりに出てきます。
自粛を自粛します [2011年03月31日(Thu)]
一番の復興支援は普通に暮らすこと。普通に暮らすことで、経済をはじめ世の中が回る。世の中が普通に回らないと、被災地が復旧も復興もしない。自粛する事により、経済がおかしくなるようなら、そんな自粛は自粛します。

東京あたりでは、発言力が大きい方が自粛するように言ってますが。
海外メディアの一部では、自粛がただでさえ沈滞している経済をさらに悪化させると指摘しています。

NY紙「日本は自粛という強迫観念にとらわれている」2011.3.29 20:09  産経msn

 【ワシントン=古森義久】米紙ニューヨーク・タイムズは28日付で「津波後の日本は自粛という新たな強迫観念に襲われた」との見出しの記事を掲載し、日本国民の多くが地震や津波の犠牲者への弔意から日常の活動を縮小するようになり、国民経済への悪影響が懸念されると伝えた。

 東京発の同記事は、日本で「地震、津波、原発で何十万という国民が被害を受けたことから、被災地以外でも、少しでもぜいたくにみえる活動はすべて非難されるようになった」とし、日本国民のすべての層が生活面での「自粛」をするようになったと報じた。

 自粛はまず電力の節約という形をとり、日本国民が「電灯、エレベーター、暖房、トイレ座席の暖房まで止めるようになった」とし、安売りカメラ店の客案内の音声やカラオケ店への出入り、桜の花見、高校野球応援、東京都知事選の候補の音声までが自粛されていると指摘した。

 同記事は自粛が過剰になっていることを示唆し、企業や学校の行事のキャンセルが日本の経済全体の60%に及ぶ消費支出を大幅に減らし、「もともと停滞していた日本経済に浸食効果をもたらし、倒産を急増させるだろう」と述べている。

 また「東京都民にとっての自粛は被災地の人々との連帯を示し、自粛をする側を何か良いことをしているという気分にさせる安易な方法だ。しかし、当人たちは実際にどんな効果をもたらすかはあまり考えていないようだ」とも論評した。



In Deference to Crisis, a New Obsession Sweeps Japan: Self-Restraint
ニューヨークタイムス
By KEN BELSON and NORIMITSU ONISHI
Published: March 27, 2011

TOKYO — Even in a country whose people are known for walking in lockstep, a national consensus on the proper code of behavior has emerged with startling speed. Consider post-tsunami Japan as the age of voluntary self-restraint, or jishuku, the antipode of the Japan of the “bubble” era that celebrated excess.

With hundreds of thousands of people displaced up north from the earthquake, tsunami and nuclear crisis, anything with the barest hint of luxury invites condemnation. There were only general calls for conservation, but within days of the March 11 quake, Japanese of all stripes began turning off lights, elevators, heaters and even toilet seat warmers.

But self-restraint goes beyond the need to compensate for shortages of electricity brought on by the closing of the Fukushima Daiichi nuclear plant. At a time of collective mourning, jishuku also demands that self-restraint be practiced elsewhere. Candidates in next month’s local elections are hewing to the ethos by literally campaigning quietly for votes, instead of circling neighborhoods in their usual campaign trucks with blaring loudspeakers.

With aggressive sales tactics suddenly rendered unseemly, the giant Bic Camera electric appliance outlet in central Tokyo has dropped the decibels on its incessant in-store jingle, usually audible half a block away. At the high school baseball tournament in Osaka, bands put away their instruments; instead, cheering sections have been clapping by hitting plastic horns together.

There are also doubts about whether it is proper to partake in the seasonal pleasures that regulate much of Japanese life.

“At this time of the year, we’d usually be talking about going to see cherry blossoms,” Hiroshi Sekiguchi, one of the country’s best-known television personalities, said on his Sunday morning talk show.

In fact, cherry blossom viewing parties and fireworks festivals have been canceled. Graduations and commencements have been put off. Stores and restaurants have reduced their hours or closed. Cosmetics and karaoke are out; bottled water and Geiger counters are in.

It is as if much of a nation’s people have simultaneously hunkered down, all with barely a rule being passed or a penalty being assessed.

“We are not forced or anything,” said Koichi Nakamura, 45, who runs a karaoke shop in Kabukicho, Tokyo’s famed entertainment district, where customers looking to sing their lungs out have all but vanished. “I hope it will somehow contribute to the affected areas.”

The almost overnight transformation is likely to continue for months, if not years. The hot summer ahead is expected to further strain the nation’s electrical network, leading to more disruptive blackouts that make it hard for business to be conducted the Japanese way, face to face and often into the night. The vast entertainment industry that greases corporate Japan, including sushi bars and cabarets, is likely to be deeply hurt.

As effective as the self-restraint has been — conservation measures have allowed Tokyo Electric Power to cancel some planned blackouts — the continued scaling back is likely to have a corrosive effect on Japan’s sagging economy. While the government will spend heavily to rebuild the shattered prefectures to the northeast, consumer spending, which makes up about 60 percent of the economy, will probably sink; bankruptcies are expected to soar.

Had the disasters hit a more distant corner of the country, things might have been different. But because Tokyo has been directly affected by the blackouts and the nuclear crisis, the impact has been greater. The capital and surrounding prefectures, where so many companies, government agencies and news media outlets are located, account for about one-third of the country’s gross domestic product.

Japan has gone through spasms of self-control before, including after the death of Emperor Hirohito in 1989. This time, though, self-restraint may be a way of coping with the traumatizing scale of the loss of life as well as the spreading fears of radioactive fallout, according to Kensuke Suzuki, an associate professor of sociology at Kwansei Gakuin University in western Japan.

“With the extensive coverage of the disaster zone, jishuku has become a way for people in Tokyo to express solidarity at a time of crisis,” Professor Suzuki said in an e-mail. “Jishuku is the easiest way to feel like you’re doing something, though perhaps there isn’t much thought put into how much these actions make a difference over all.”

It is not surprising then that the national obsession with self-restraint has bled into political circles. In several prefectures, like Gifu, Aomori and Akita, candidates have agreed not to campaign too aggressively, by limiting their appearances and not calling voters at home.

In Tokyo’s luxury shopping district, Ginza, on Sunday, Hideo Higashikokubaru, 53, a politician and former comedian, practiced jishuku-style campaigning by riding a bicycle and eschewing a bullhorn. “I’m trying my best in my own voice,” Mr. Higashikokubaru said, surrounded by voters on an intersection overlooked by Chanel, Louis Vuitton, Cartier and Bulgari.

Political analysts have said that such campaign constraints will favor incumbents like Shintaro Ishihara, the three-term Tokyo governor Mr. Higashikokubaru is trying to unseat.

“That’s right,” Mr. Higashikokubaru said in a short interview. “That’s why I have to try even harder.”

But outliers, like Japan’s Communist Party, have explicitly rejected a calmer tenor to their campaigning, saying that it would rob voters of valuable information about candidates.

Another objector was Yoshiro Nakamatsu, 82, who despite a past draw of only a few thousand votes was running for Tokyo governor for a fifth time. Mr. Nakamatsu — an inventor who claims credit for hundreds of gadgets — campaigned in front of his truck in Ginza on Sunday, standing on top of what he described as a stretching machine that would prevent deep vein thrombosis.

As a loudspeaker played a recorded speech, he described campaigning by walking or riding a bicycle as something from “another era.”

There were other opponents of self-restraint. While the ethos has been strongest in northern Japan and in the Tokyo area, western Japan appeared split. Kobe, the site of a 1995 earthquake, was firmly in favor.

But Toru Hashimoto, the governor of Osaka, Japan’s second-biggest city, said too much holding back would hurt the economy. Echoing President Bush after the attacks on Sept. 11, 2001, Mr. Hashimoto urged people to spend even more, so as to support the economy; some businesses are helping by donating part of their proceeds to affected areas.

In Tokyo, though, there was no debate.

At Hair ZA/ZA, a salon in the Shin Koenji neighborhood, appointments have dried up because so many school and corporate ceremonies have been canceled. The rolling blackouts could also make it hard for customers to keep reservations, according to Takayuki Yamamoto, the salon’s chief hair stylist.

This has upended Ayaka Kanzaki’s plans to pass the salon’s tests for new stylists. The exam includes three components: cutting, blow-drying and hair coloring. Ms. Kanzaki, 21, passed the cutting section, but to qualify for the hair coloring test, she must recruit 20 models. So far, she has managed just seven and is worried about getting 13 more.

The salon’s efforts to reduce electricity use have made it difficult to practice after hours, too. In addition to turning off the lights, training with blow dryers has been stopped. Ms. Kanzaki, however, keeps any frustration to herself.

“I’m not the only one in this condition,” she said, in a remark that typified Japanese selflessness. “Others are, too.”

小金井公園から屋台が消えてた [2011年03月29日(Tue)]
地震から2週間がたち人々は公園に出てきて遊ぶようになったのですが。地震直後の週末にはあった屋台が全部消えてしまったのです。



いつもなら、ここに5台ぐらいの屋台があったのに、全部消えました。
また、大道芸人も消えました。
おそらく、小金井公園を運営する東京都が指示をしたのでしょう。

地震直後の終末。この場所で、炭火でお湯を沸かし、手でコーヒー豆を轢いてくれる屋台のコーヒー屋さんで、コーヒーをいただきました。すっごく、ほっとしました。お店の方や、他のお客さんと、お話しすることも、癒しでした。
公園に来ている人はいつもの1/10ぐらいなのでゆったりとできました。




それから2週間がたち。停電やなんかで、ストレスをためた子どもたちのエネルギーが有り余っているのか、小金井公園は子連れでいっぱいです。

でも、彼らのおなかを満たす屋台はありません。
かわりに、東京都の運営する公演の売店は行列。特設の売り場も設置。
民業圧迫状態です。



公園を管理する都合もあるのでしょうけど、こういう時こそ、お店があって、ストリートパフォーマンスがある普通の姿でいることが、チョイ被災地には必要なのではないでしょうか。
でないと、いつまでも、非常事態モードを脱せません。

東京都は、都民を安心させる事を何かやったのでしょうか。
この緊急時なのに、週末は何もせず、週明けの14日になって声明文を出して始めて動き出した。有事が好きなわりに、緊急事態への対応が出来ていないという印象。地震のあった金曜日にちゃんとやっとけよって思った。

現職都知事が選挙期間中に、コップの水2杯を一気飲みするパフォーマンスをして報道させるのは、都民を安心させるのためではないように思えてならないですし・・・。
だって、いつ、また、放射能が降ってくるかわからない状態で、全ての水道水を監視しているわけではないのに。安全が確認された水を飲むパフォーマンスで安全宣言を思わせる事は都民を危険にさらすこととなる。
実際、金町浄水場では測定限界以下だったにもかかわらず、同じ日の百人町の水道の蛇口ではヨウ素131 セシウム134 セシウム137が検出された。
やるんだったら、百人町の水道を飲むべきだったと思う。
基準以下だから安全ですよって。
基準以下でも怖いので飲めないのなら、基準を設けた原子力安全委員会や厚生労働省に文句言え。

僕らに出来る事 [2011年03月26日(Sat)]
6年前津波で被害を受けたタイで暮らしている日本人の方が、今回の震災についてコメントしたので転載します。

ちなみに、こちらの作品にも出ている方です。

------------------------------

地震津波被害者に対し、無力を思い知らされたのは6年前・・・
今もまた、無力な自分・・・

ただ、違うのは人間は逆境を乗り越える事が出来ると言う事を、学んだ事。

スマトラ沖の津波被害を乗り越えた皆さん、
震災経験から、今を生きている皆さん。

今 僕らに出来るささやかな事は
様々な支援であると思います。

現地は物資や募金も大変に必要とされている中
今後、ひと段落つくと
多くの方々は明日に何を見つければいいのだろう。。。
自分たちに明日はやってくるのだろうか。。。

そんな、たとえ様のない重みに、心が悲鳴をあげます。

「がんばって」とは言えません。

今は辛抱の時だけど・・・
きっと、良い明日はやってきます。

乗り越えた明日には新しい生き方がきっとやってきます。

いま、僕に出来る事は多くないけれど
日本人の過去の津波被災者として、今・・・辛い方々の
小さな心の支えにはなれるかも知れません。

希望を捨てずに・・・生きて下さい!
災害番組・報道等による被害についてのドキュメンタリーを全編Web公開しました [2011年03月15日(Tue)]
地震、津波、原発、放射能と、テレビをつけると恐ろしいニュースがいっぱい流れています。そのために漫然とした恐怖を持つ人がたくさんいるようです。そのおかげで、必要以上の購買や、必要以上の警戒心を持ってしまい、その結果、様々な不幸が生まれます。

そういう、災害番組による被害を採り上げた作品を、5年前に作りました。
舞台は、スマトラ島沖地震による大津波に遭ったタイ・プーケット。
津波によって自然が戻ったプーケットに、漫然とした恐怖から観光地に来ない日本人たち。
そこで、観光で食べている人たちの生活が脅かされ、仕事を失う現地で暮らす日本人たち。

「メディアは何に助けてくれなかった。」
「メディア、お前らか責任とれよ!」

ビデオカメラを持つ私たちに投げかけられる怒り。

今回の2011年東北地方太平洋沖地震において、現在進行中でスマトラ島沖地震の時と同じ事がさらに大規模で起こっています。

いま、いろいろ大変だけど、前向きに復興しようとしている方々の足を引っ張らないためにも、この出来事を知ってもらいたく、全編Web公開することを決めました。

自分たちは、どのようにしてメディアとつきあうべきか、是非考えてみてください。




予告編




本編(2006年版)



この他に2010年の再編集バージョンがございます。
上映等は、是非お問い合わせください。

この作品の製作期間中、私は、何度となく仙台の東北大学大学院医学研究科国際保健学教室に通っておりました。ここでは、大規模災害についての医療についての研究も行っております。実際、地震・津波直後のスマトラ島に入り治療に携わった方もいらっしゃいました。
おそらく、いま、ここで学んだ方たちは、この非常時に不眠不休で現場に入っているものと思われます。
陰ながら応援しております。
これから第二の津波がやってくる [2011年03月12日(Sat)]
昨日の地震・津波により東北地方を中心に甚大な被害が出ております。
まずはお見舞い申し上げます。

今回の地震は海外でも大きな反響があるようです。
タイの津波被災地から私たちを心配するメールが届いたり。インドネシアのバンダアチェでは日本から流される生中継の津波の映像に人々がくぎ付けになっていたとのこと。
欧米では、名取川河口付近の燃えながら家屋や車を飲み込んでいく津波の映像に驚愕し。被災地にある原子力発電所の地図が早速報道され、冷却装置が機能しない原子力発電所がチェルノブイリのようにならないか心配しているとのことです。

さて、これから起こる事ですが「第二の津波」と言われる現象が起こると思われます。
それは、日本中だけでなく世界各国から津波の支援にいろんな人や物が押し寄せるというものです。
スマトラ島沖地震においては、文化の破壊に近い衝撃があった地域もあったと聞いています。

宮城県では、様々な防災関係・医療関係の用語の統一化を図る取り組みが行われています。
それが行われている背景に、それぞれの業種や職種によって専門用語がたくさんあるのですが、共通化されていないという問題があります。それは、日本国内だけでなく、WHOとか様々な国際機関の間でも存在し、コミュニケーションが円滑にできない状況があるからです。

今は、海外からの支援が到達していない段階ですが、これから支援の申し出の整理や、現場のニーズの収集など、コミュニケーション能力を試されることとなるでしょう。
日本の外交も含め・・・

しずかにツナミナイト [2010年12月27日(Mon)]
インド洋大津波の七回忌となる12月26日に三軒茶屋のカフェオハナで「ツナミナイト」を行いました。ツイッターを通じ、毎年この日にピピ島に通う津波に遭われた方、プーケットでの慰霊祭の参加者、津波直後に通訳として被災地を廻った方などから発信された情報を交え、先月訪ねたタイ南部の人々の暮らしや復興プロジェクトの状況をレポートしました。



たまたまイベントに居合わせたカフェのお客さんが「会社でお金を集めて送ったのに、津波の事は忘れていました。現地の状況が聞けてとても良かった」とすっきりとした顔で感想をくれました。
手を差し伸べた先が今どうなっているのかが伝わらず、疑問を持ったまま、なんとなく心の支えを残しながら忘れている方がたくさんいると感じました。
被災地の今を伝えることは、自分たちの支援が役に立ったのか、至らなかったのかを知ることとなり、次の助け合いの活力源となります。密かにそれを求めている方は多いのではないでしょうか。

プーケットのカマラビーチでは、日本人会が主催して慰霊祭を実施したとのことで、NHKなどのテレビや共同通信の記事になったようです。
5周年の去年とは違い、今年は各紙の取り上げ方が小さく、26日の朝刊5紙中1紙のみの掲載だっただけに、採り上げてくれたのは嬉しい半面、「ああ、そんなことあったね」で終わってしまいそうな感触を得ました。

津波の支援をしていたある日本のお坊さんは、ツイッターで「@Bak_Jo  人間の脳は忘れるようにできているのかもしれないが、だから色々な節目に行事があるのでしょう。大乗仏教式には七回忌です、あの津波から。」とつぶやいていました。
節目の行事で、せっかくリマインドしたのなら「ああ、そんなことあったね」というより「あのときこんな事を思っていた」「あのとき思った事は、なんだったんだろう」というような、物事ではなく自分の気持ちを思い出してほしいと思います。

今年はハイチ地震、パキスタン洪水、チリ地震、インドネシアの噴火など大規模災害が起きましたが、いずれ過去のものとなるでしょう。「ああ、そんなことあったね」で終わらない、元気になってよかったね、支援した甲斐があったね、まだまだ支援が至らなかったね、どうすればもっと助け合いが出来るのだろうというような、次に繋がるような災害の周年報道を大手メディアに期待したいと思います。

と、同時に、地味なこの活動を続けなければと改めて感じた夜でした。

会場を提供していただいたカフェ・オハナさん、来ていただいたみなさん、離れていてもネットで情報を共有していただいたみなさん、感謝。


BGM アンダマンの涙
津波は6年で見事に忘却か? [2010年12月26日(Sun)]
6年前と同じ12月26日日曜日の朝刊を見て驚いた。20万人以上、日本人も40人の方が亡くなった津波の事が書かれていない。予想していた事とは言え、あまりの惨敗ぶりだ。てなことで、コンビニに行って新聞を買い集めてチェック。讀賣新聞だけが掲載していました。


讀賣新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、東京新聞、日本経済新聞


確かに、今年になって大規模な自然災害が起きているので、もう津波と言ってられないのはわからないでもありません。それにしてもです。
最近発売された、河田惠昭著の「津波災害――減災社会を築く (岩波新書)」という本に、もし東京湾に津波が押し寄せたら、横浜のみなとみらいとかお台場や月島あたりの高層マンションなど今流行りのベイエリアで100万人単位の被災者が出るという事が書かれています。
(これは、私の推測ですが、多摩川も津波が溯上するので二子玉川も被災地になるかも。)
そんな状況の中で、災害を思い起こすことで、減災に向けて社会を作る必要があるのですが。それは、津波に対しての関心を高めない事は、犠牲者を減らさないことでもあると言えます。

まあ、ツナミクラフトに関しては、被害に遭ってから、どのようにすれば人が復活できるかということではあるのですが・・・

だから津波の事を書くのは、海老蔵より大切なことだろうって思うわけです。
小さな記事だけでも、見る人は見るので、それだけでもいいのですが、讀賣新聞以外採り上げていないことは、災害から身を守るチャンスを奪っているともいえます。日本は、地震大国なのに・・・。
恐ろしいと思いました。


讀賣新聞の記事


インドネシアでバンダアチェを、地震・津波を観光資源にしているという話。
プーケットでも、日本人会がカマラビーチに慰霊碑を作って、津波後激減した日本人観光客に来てもらえる観光資源にしようとしていたのですが、ちょっと弱いようです。
実際は、なかなか難しいですよね。

とはいえ、アチェに外国人観光客が来るようになると、悪い事をやりにくくなると考えられます。観光客やジャーナリストが入れないところで恐ろしい人権侵害などが行われやすい。だから、観光客は収入だけでないメリットが考えられる。そこに期待したいです。




ということで、本日19時より、三軒茶屋カフェオハナにて「ツナミナイト!」やります。

12/26(日) TSUNAMI NIGHT!
 お話し:東山高志(ツナミクラフト代表)
 19:00 start     ノーチャージ(カンパ制)
 6年前、甚大な被害のあったスマトラ島沖地震。
 地震だけでなく、津波の被害も広範囲にわたって猛威をふるいました。
 12/26で、ちょうど、丸6年になります。
 この日は、ツナミクラフトの東山さんをお迎えして、
 タイ南部の津波被害の復興を支えるツナミクラフトの
 製作現場の話しを うかがいます。
 少人数で、飲んだり、食べたりしながら、
 リラックスして、ゆるやかに、交流しましょう。

場所 東京都世田谷区三軒茶屋1-32-6 豊栄ビル1F  (03) 5433-8787
白石昇さん5年半ぶりに津波被災地入りレポート [2010年11月13日(Sat)]
津波―アンダマンの涙の著者、白石昇さんが5年半ぶりに津波被災地に入り、さをり織りの工房を訪ねたレポートが公開されています。ライブ映像もありです。

6日目・プーケット県、パンガー県。 - 白石昇日刊藝道馬鹿一代。of WHITESTONE Risin’ ของ หินขาว มังกรบิน
http://d.hatena.ne.jp/whitestoner/20100920/jp#tb

私の常宿の場所での当時の惨状の様子の話

ぜひカオラックに来てください!



さをり織りの工房レポート


その他に、ライブ映像などもあるので是非ご覧ください。

6日目・プーケット県、パンガー県。 - 白石昇日刊藝道馬鹿一代。of WHITESTONE Risin’ ของ หินขาว มังกรบิน
http://d.hatena.ne.jp/whitestoner/20100920/jp#tb


参考書籍


プーケットは津波は大丈夫なのか? [2010年10月28日(Thu)]
インドネシアのスマトラ島沖で地震があり、津波の被害が出ております。
被害のあった地域は、いかんせん、スマトラ島から離れた島なので、現状がわかっていない部分も多く、犠牲者の数は今後増えて行くでしょう。
まずは、お見舞い申し上げます。

さて、この津波の影響で、タイのプーケットに行くことを躊躇しているというインターネット上の書き込みを目にしました。

タイのプーケットに関しては、津波の対策がなされていると言えます。

プーケット島には、各地の地震観測所や人工衛星と連動し、日本語を含む6か国語に対応した16箇所以上の津波警報システムと、いたるところに書かれた避難経路の書かれた看板の設置。広い低地が続くところには避難用の施設が設置されています。


津波避難施設



津波危険地域の標識
津波が来るという放送があればこの地域から逃げればいい


現地に住む多くの人は、津波の警報がくると携帯電話にメッセージが届くサービスを受けているので、そこからも情報が得られます。

2004年12月の時は、地震発生から2時間少しかかって、タイ南部に津波が到達しているので、十分に逃げられます。

今回のスマトラ島沖地震では、津波被災地のほぼ直下で地震が発生したため、地震直後の津波となり、しかも離島部で情報インフラなどが整っていないため、避難が出来ず被害が大きかったのですが。
プーケットは直下型地震が起きる確率は、今回の地震の場所に比べて、無茶苦茶低いです。

どうしても津波が心配の方は、海岸沿いの宿ではなく、ちょっと山沿いの宿とか、高いところの部屋にすれば、全く心配はありません。



それにしても、多くのメディアは、津波の高さが2-3メートルなのに、朝日新聞が30メートルというのにはびっくり。
30メートルの高さの津波なら、内陸部の数キロにわたって到達するはずです。特に川があるばあいは、数十キロ溯上することも考えられます。
同じところかはわからないが、500メートル以上に津波が到達したという事からすると、もしかして、聞き違いをそのまま記事に・・・


ちなみに、3メートルの津波が来たという証言ですが、実際には、被災エリアは住居があることを考えると、海抜2-3メートルはあるだろうから、実際は5メートル以上の津波が発生していたと思われます。
2004年12月の津波で、タイで一番犠牲者が多かったナムケム村では、村の平均海抜が2.5メートルほどで、地上2.6メートルの所まで津波が来た跡が残っています。
3メートルと言ってもバカにできません。




「30mの津波が来た」スマトラ沖地震、死者282人に

 【パダン(インドネシア西スマトラ州)=郷富佐子】インドネシア西部スマトラ島沖で25日に起きたマグニチュード7.7の地震で、深刻な被災状況が明らかになりつつある。地震後に津波が襲った西スマトラ州ムンタワイ諸島の県政府によると、死者は少なくとも282人に上っており、411人が行方不明になっているという。住宅など426軒の建物が倒壊した。

 「2回目の津波は高さ30メートルに達した」――。27日にムンタワイ諸島の被災地に入った国家災害対策庁の関係者は地震後に津波は2回あったとし、2回目の津波が非常に大きかったとの見方を示した。1回目は高さが数メートル程度だったが、その津波が引かないまま2回目の津波が襲ったという。

 被害が集中したのは、ムンタワイ諸島の南パガイ、北パガイ、シポラの3島。津波は海岸から500メートル以上の地点まで押し寄せたという。3島の住民は合わせて約4万人という。住民たちは林へ逃げ込んだため、今後、犠牲者数の確認作業は難航するとみられる。この関係者は「不明者数の根拠はかなりあいまいだ。被災地の島々はほとんどが平地で逃げ場がなく、助かる見込みはかなり少ない」と厳しい表情で語った。

 同諸島県議会のヘンドリ・ドリ議長によると、25日午後9時42分(日本時間同日午後11時42分)の地震発生直後に津波警報が発令された。だが、同諸島には警報を村民らに伝えるサイレン設備がなく、夜間だったこともあって「誰も警報発令に気がつかなかった」という。津波警報は発令から1時間弱で解除されたが、ドリ氏は「警報が解除されたころ、島々をすでに津波が襲っていた。サイレンさえあれば、死者数は大幅に減っていただろう」と指摘した。

 被災した島々はスマトラ島パダンから約200キロ離れており、被害状況がすべて確認できているわけではないのが現状だ。27日朝に同諸島に入ったブディオノ副大統領は、被害が最も大きいと見られる南パガイ島について、「まだ島内の十数カ所の集落と連絡がとれていない」と語り、今後、被害者数が大幅に増える可能性を示唆した。

 パダンから被災地への支援活動は難航している。同諸島には27日、テントや医薬品、食料などを積んだ救援機が初めて到着したが、悪天候のため、同日午前にパダンを出発した地元のNGO、警察、国軍の船舶は到着まで10時間以上かかる見込みという。

 一方、東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議が開かれるベトナムの首都ハノイに滞在していた同国のユドヨノ大統領は27日、急きょ帰国。被災状況を視察するため、パダンに入った。ムンタワイ諸島の状況も視察する予定だ。

2010年10月27日23時12分 朝日新聞
嘉門達夫を改めて聞いてみた [2009年06月11日(Thu)]
調べ物をしていて、たまたま見つけて、Youtubeの嘉門達夫の映像を閲覧しちゃいました。

あれから、14年以上たち、あの時の感情はどうだったのか、あの時の経験がその後本当に生かされたのか、リマインドしてしまいました。



嘉門達夫 怒りのグルーヴ〜震災編〜

泉谷しげると大江千里の叫びが強烈。



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FIFA W杯南アフリカ大会出場決定に想う [2009年06月07日(Sun)]
昨夜は夜更かしをして、中央アジアのウズベキスタンで行われているサッカーの試合の中継を見ていました。

しょっぱい試合ながらもウズベキスタン戦に勝ち、ワールドカップ出場の切符をつかんだ。その姿を見て、4年前を思い出した。

4年前のFIFAワールドカップドイツ大会のアジア地区予選突破の時は、タイ・バンコクにいて、サッカー取材をしていました。これが、津波の復興支援であり、このブログを始める直接のきっかけとなったのです。

阪神大震災の経験があり、その経験を活かして津波の復興支援をしているのに、前年にタイの政府機関のビデオを作成して縁があったのに、なぜ、津波から半年もたった6月から始めたのか。
正直、最も酷い被害に遭った地域ではないけど、被災地での暮らしというのは、再び味わいたいものではないからです。
確かに、助けてくれたお返しに、今度、何かあったときは、助けてあげたいという気持ちはありました。しかし、それ以上に、被災地での暮らしを再び味わいたくないという気持ちが強かった。

このもやもやした感じを、吹き飛ばし、津波の被災地に足を向けさせたのは、日本と北朝鮮とのサッカーの試合がタイ・バンコクで、しかもその試合でFIFAワールドカップの予選を通過できるという、ちょっとしたお祭りのようなものがあったからでした。

友人のフリーのスポーツライターが、無観客試合の場合はどのようにサッカーサポーターが応援をするのかという取材をするというので、面白そうなので、それにビデオカメラを持って同行したというものでした。
フリーのスポーツライターとの同行ですから、どこの媒体との契約がはっきりと決まらないうちに現地入りをするという無茶苦茶なものでした。
友人のフリーのスポーツライターは夕刊紙の記事の出稿が決まり、しばらくしてわたしの方もテレビ局との話がありましたが、ちゃんとした映像が撮れてなんぼという状態でした。

試合の数日前からスパチャラサイ国立競技場のすぐ近くのインターネットが使えるゲストハウスに宿をとり、競技場の周りを歩いて、どのように日本サポーターが応援をするのかのシミュレーションをした。
タイスポーツ省の庁舎を兼ねる競技場の裏(本当は正門)あたりには、ここがタイのスポーツの中心地であるというように、大小のスポーツ用品店が軒を連ねている。
店の前では、せっせとユニフォームの製作をしている。日本代表サポーター集団の一部はこの街で自分たちのユニフォームを作っているそうだ。バンコクは、アジア地区予選でアジアの国を転戦する代表選手を追いかけるのにも便利な、アジアの中継地点だからこそ選ばれたのだろう。

試合直前は、多くの日本のテレビ局のクルーが来ていたが、試合開始が近づくと、クルーの数が減ってきた。
正式な手続きを取った報道陣には、プレスパスというものが発行されるが。プレスパスが発行されるとその試合の取材をするために会場内に入らなくてはならないからだ。
こうなると、フリーの出番である。

競技場の方が落ち着いてきたので、4キロほど離れたカオサン通りの日本料理店に向かう。
ここでは、私設パブリックビューイングが行われ。タイに来ているバックパッカーの日本人たちが集まるという。
ここで、キックオフの所だけを撮影して、再び競技場に戻るという作戦だ。

なぜそうしたのかというと、当時の日本A代表チームは、前半に得点を入れることが稀だったからだ。だから先制点は、前半にないと踏んだからだ。そして、日没直後の前半終了後に、再び日本料理店に戻る作戦だ。

試合開始の撮影をして、試合当日は交通規制が行われるとの情報を得ていたので、バイクタクシーをチャーターして競技場に向かう。
放送に耐えるビデオカメラもコンパクトで軽くなったからできる芸当である。

渋滞の中をバイクタクシーは車の間をすりぬけてゆく。ライダーは、商売熱心なのか、バンコクに女の子がいるかとか聞いてくる。

競技場の敷地内に入る。タイではちょっとした健康ブームで夕方にスポーツをする人が多い。そのため、その他のスポーツ施設もある競技場の敷地内には入りやすい。
バイクから降り。カメラをもって、12番ゲートへ向かう。
なぜ12番ゲートかというと、サッカーサポーターは12番目のチームメンバーという自負を持っている。だからこそ、12番ゲートに集まるという習性を持っている。

12番ゲートの前には太鼓を持って応援する姿があった。
日本料理店のテレビで、その太鼓の音は確認していたが、本当に場外で応援していたのだ。
ビデオカメラのマイクを望遠マイクに切り替え、携帯電話を何台も持ったリーダー格のサポーターの姿を追った。これが、無観客試合なのに、試合内容とリンクした応援の謎を解くスクープ映像となった。

テレビ局に売れる映像が撮れた。
しかし、日本がワールドカップの出場を決めないと、その映像の価値がなくなってしまう。
再び、バイクタクシーに乗り、カオサン通りの日本料理店に向かう。
着いたら、後半戦が始まっていた。
まだ、点が入っていないようだ。

その後、大黒、柳沢と点を入れて、日本代表はワールドカップの出場を決めた。
これで、映像が売れる。友人の記事も売れる。

そんなことで、すでに復旧が進んでいるのに、観光客が戻らないという津波被災地のプーケットに足を運ぶことにした。

プーケットを選んだ理由は、友人のフリーライターが観光客の少ない観光地に行きたいという希望があったことが大きいのだが。
阪神大震災から10年で神戸の観光者数が震災前並みになったということもあり。災害の規模が小さく、復旧が早かったところでも、観光客が戻らないという風評被害があり。そのことが気になっていたからだ。
また、いったん被災地になると、人や物や金の流れが変わってしまう。
一時的な復興特需はあるものの、それが終わり落ち着いてきた頃に、弱い所や無理したところのほころびが出てきて、いろいろな事が起きる。
そのことは、あまり報じられない。
とはいえ、そのことを自分の経験だけでいくら言っても説得力はない。だから、現地を見てみないと話にはならないと思いプーケットへ向かった。

同じ町の中で日本代表チームがワールドカップ出場の切符をつかんだ。その勢いが、どこか避けていた津波被災地に足を向かわせる勇気を与えてくれた。

あれから4年経ち。
バンコクの空港も新空港となり。タイの政権も変わった。
日本代表チームもほとんどのメンバーが入れ替わった。
カオサンの日本料理店は、シーロムにも出店した後、つい最近カオサンの店も移転して心機一転した。
津波の被災地も行くたびに風景が変わって行く。

ワールドカップ出場を決めて、4年前のの原点と変化を感じた。



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久々のバトンの夜 [2008年08月29日(Fri)]
タイ南部には来ていたのですが、久しぶりのバトンビーチの夜です。
たぶん去年の1月以来という感じでしょうか。

今回はプーケットに泊まるということで、何人かの日本人に来る事を伝え。会う事ができました。
とくにダイビングショップのオーナーさんとは、映画STILL ALIVEの撮影中は毎晩のように会っていました。もちろん作品内にも登場しています。

いろいろ話していると、STILL ALIVEのその後の話がいくらでも出てきます。

日本人がプーケットに来なくなったために閉店した飲み屋の隣にあったダイビングショップも、契約更新ができずに追い出され。新しくできたショッピング街「ジャンセイロン」内に店を構えたが、使い勝手が悪くさらに引っ越したのだそうな。
そのために、小さく復活していたバーカウンターひとつの飲み屋も閉店となりました。
従業員だった女性も結婚して、現在は身重なのだそうです。

大きなホテルの板前だった方は、日本人観光客が来ないために、勤務日を極端に減らされて、津波の被害に遭った奥さんの経営するレストランの手伝いをしていました。
その後、奥さんが病気をしたため、ホテルを辞めて店を守っていたのですが。
久々に行ってみると、閉店し、新しい店が入っていました。
今はどうしているかというと、再び大きなホテルの板前に復職したのだそうです。
手に職があると強いようです。
いい板前だとホテルの営業部長とあまりかわらない高額な給料なのだそうです。
日本でもホテルの支配人より、レストランのシェフの方が給料が高いことがあるのと同じです。
気になるのが、奥さんの健康です・・・
今度、プーケットに行く時は、このホテルに行ってみよう。

ダイビングショップの方たちと夕食後、ライブバーに行く。
ここのハウスバンドがなかなかいいということでやってきました。
ひとつは、70年代の音楽を中心としたバンドと、ジャマイカから来たレゲエやラテンを中心に演奏する黒人グループの二組。
今回のお目当ては70年代の音楽を中心としたバンドなのですが、編成の基本はフィリピン人が占めている。とにかく無茶苦茶上手い。
プーケットは出稼ぎによって支えられていることがよくわかる。
なぜ曲調が70年代が中心かというと、客層に合わせて選曲しているのだそうです。
確かに、50代以上の白人客が多く。70代となるとライブバーのようなうるさい場所には出てこない。

ライブ中に雨が降ってきた。
店員は面白可笑しいしぐさをしながら、大きな傘を持ってきてお客さんに雨があたらないようにする。
ここのフロアマネージャーは、そのユーモアのセンスで、ペーペーからキャリアを始めてマネージャまで登って行ったそうです。
だからこそ、楽しく働き、当然お客さんも楽しくなる。

観光地ということで、毎日がお祭りだとはいえ、お客さんを楽しませることに徹底すれば、評価されるという、当たり前の事が、当たり前でないのが今の日本という感じがした。


慰霊祭に対する違和感 [2008年01月17日(Thu)]
ここ10年あまり、神戸近辺の人は1月はなにかと忙しい。
1995年の1月17日に発生した阪神大震災がらみでいろんなイベントが開かれるからです。
震災の記憶を語り継ぎたいということは大切だとは思うのですが、慰霊祭というものには、少し違和感があるんですよね。
それは、このブログのタイトルにも関連するのですが、大規模災害が起きた場合、多くの人は亡くなるわけではなく、生き残って被災者となって生きていくわけです。
それが、慰霊祭となってしまうと、亡くなった方が主役になってしまうんです。そして、それが報じられることによって強調されてしまう。確かに亡くなった方は志半ばだったと思うのですが、生き残った人も、人生の機転になり。場合によっては、災害の後の様々な状況によって、志半ばで、あきらめなければならなかった人も多くいるはずです。
それと、慰霊祭をツールに、人の持つ死という恐怖を活用し災害をリマインドし政策の推進というビジネスするための行事という発想も困りものです。亡くなった方に失礼です。
極端な話、死亡者が出なかった大きな災害があった場合、当然ながら慰霊祭が開かれるわけではありません。
たとえば、2001年9月に襲った台風16号ですが。全体では5名の方が亡くなったのですが。風速が70メートル、いや80メートルが吹いて、全世帯の約3割が家屋倒壊あるいは浸水の被害を受け、道路の崩壊、電柱の崩壊、学校の体育館の屋根が吹き飛んで全壊という、多大な被害を受けた、沖縄県渡名喜島は、不幸中の幸いで死者が出なかったわけで、当然、慰霊祭は行われない。
そのため、甚大な災害があったにもかかわらず、忘却の彼方に追いやられやすい。
ちなみに、私も忘れていました。ごめんなさい。
でも、最近、沖縄系のミュージシャンの人に教えてもらって、再認識しました。
渡名喜島の台風来襲と同じ日に起こった、ニューヨークの同時多発テロの方がたくさんの方が亡くなって、人々の注目を浴び、渡名喜島の災害支援チャリティライブは苦戦したのだそうだ。
人々は、災害の規模を、死者の数で認識し、無意識に格付けをしていて。その格付けされた結果のみが、記憶や記録として残されやすい。しかも、メディアによって、この傾向は強調されやすい。
いま、神戸で津波3周年の展示を行っているが、そこに来たある方が言ってましたが。市が行っている慰霊祭にはいつしか行かなくなったが。地元で、ともにテント暮らしをした人たちと行っている慰霊祭だけ参加しているとのこと。
この気持ち、よくわかるんですよね。市などが行う慰霊祭って、広報効果を狙うために、媒体で取り上げてもらいやすいように、死者を利用している側面が多いような気がしてならない。その結果、どのような事が導き出されるかというと、防災対策や耐震構造とか、来るかどうかわからない災害への備えのために、多額の税金を使うことや、個人や企業の負担を求める内容となることが多い。
別に防災のために金を使うなとは言いませんが、現に被災した人の存在を軽視した形で、防災へお金を使うことを促進することに利用されるような慰霊祭は、亡くなられた方に失礼なのではないかという気がする。
というか、多くの人が亡くなった事を利用して、宣伝に使い、マーケットを広げて商売するのは、公共的な意味もあるからある程度必要だと思う。
それより、慰霊祭は、生き残った人が主体となった、生きていくための、祭であってほしい。
そして、災害にあった経験を、多くの人に伝え、もし、災害にあって、生き残ったとき、生きる知恵を伝承できるようなものであってほしい。
残念ながら、多くの災害の慰霊祭は、そうなっていないような気がするんです。
災害のあった日に行われるイベントで展示される、防災関係の情報は、ほとんどが、災害後、3日以内に必要なものが中心です。もちろんそれも大切です。
それより、重要なのは、命を落とさずに済んだ人が、災害を背負いながら、どう生きていくかです。
死者を弔うことをメインに置くと、どうしても、いま生きている人の事がおろそかになる。
防災意識は、命を落としたくないということもあるのですが、ヒト、モノ、カネ、健康を失いたくないという、欲望というか、ある種の恐怖感から発生していると思われます。だから、怖くて、災害によって、ヒト、モノ、カネ、健康を失った状態というものを想定したくないというか、触れてほしくない。ヒト、モノ、カネ、健康を失った人に対し、可哀そうにとは思うかもしれないが、それだけで済ませたいんです。それ以上考えたくもないし、想像しだすと怖すぎて、聞きたくないんです。
残念ながら、日本の多くの人がそうだと思います。
そういう人たちの満足感を得るために、ニュースのネタとして取り上げられるような、話題作りのための慰霊祭の企画内容が含まれていしまいがちなのも、違和感の原因の一つだったりします。
年金も行政も破たんするだろうと言われている時代の日本人に本当に必要なのは、ヒト、モノ、カネ、健康を失っても生きていけるしくみづくりです。残念ながら、ヒト、モノ、カネ、健康の中には、一度失うと戻ってこないものがあります。当然、取り戻すシステムも必要ですが、不可能なこともあるわけですから、戻ってこなくてもいきいきと生きていけるようになるためのしくみが必要なんです。
私がツナミクラフトを扱っている理由のひとつは回復のためのプロセスがそこにあり、伝えることができるからであり、夕張の支援を必要とする仲間たちに何かを感じているのも、一生つきあっていかざるものを持って生きていくための何かがあると感じていている。
そういう考えに立つと、慰霊祭という死者を主体にし、死という人間の持つ恐怖の一つをリマインドさせるイベントが盛大に行われるのは、未知でかつ分かりやすい、死への恐怖を強調するだけで、何かを背負って生きていくための知恵の伝承にならないような気がしてなりません。
この記事を書く前日、医療事故でお子さんを亡くした(殺された)方とお会いし、事故を起こした医療機関が毎年命日をその医療機関の「医療安全の日」としてとりくんでいて。その研修会の場にてご遺族が発表された時の映像を見ました。
そこには、亡くした命を活かしていきたいというものを感じました。それが、本当の慰霊だと思う。
それからすると、そういう亡くした命を活かしていくような空気を感じる阪神大震災がらみの慰霊祭や関連行事が少ない気がしてならない。

ナムケンの映像載せました [2007年12月24日(Mon)]
ナムケンの町とコーカオ島の写真をスライドショーにしたので載せました。

コーカオ島に渡る [2007年11月29日(Thu)]
ナムケンの港に早朝に着いたのをいいことに、フェリーに乗ってコーカオ島に行くことにした。

フェリーは2種類あって、ひとつは車が載るようなフェリー。
もうひとつは、渡し舟である。


このフェリー、下船をスムーズにするため、車はバックで入れる。


フェリーの乗り方を確認しようとうろうろしていたら、小型の渡し舟からコーカオ島で取れた貝が運ばれてきた。
運ばれるやいなや買い手がついていた。



小型の渡し舟には、バイクも積んでいけるので、渡し舟で渡ることにした。
ところが、ひとつ難関が・・・
それは、バイクの免許を取る時とは違う、本物の一本橋を渡らなければならないのだ。
失敗すると海に落ちます。
タイを旅すると、タイ人のバランス感覚の素晴らしさに驚くことが多い。

このあたり、慣れている船頭さんにお願いして、船に載せてもらいました。


わたしのレンタバイクに乗り、一本橋を渡った直後の船頭さん



海の男らしい一コマ
ピンクのフィッシャーマンパンツが似合っている



沖から見たナムケンの沖合漁業の漁港


渡し舟はけっこう高速で、体感的に5分ぐらいでコーカオ島の付近についた。港の近くで他の船との着岸する時間調整を入れても10分で対岸にいけるのはとても便利だ。

ミニ浦島状態 [2007年11月27日(Tue)]
8ヶ月ぶりにカオラックに来て驚いた。
とにかく新しい建物が一気に増えた。
とくにバンニアン地区の発展は著しく。一度は津波で何もなくなったところなのに、
新しいレストラン、新しいホテル、新しい店・・・・
ため息が出るばかりだ。



左側の建物は、津波から1年目のときも2年目のときもずっーと工事中で、いつまでたっても完成しないと思っていたのだが。いきなり出来ていた。
津波直後に工事が中断していたのだが、先シーズンにきっちりと儲けて、資金を蓄えたのか、一気に工事が進んだ。



流されてきたポリスボートの脇にあるレストラン。
2年前に訪れたときは、どうにか屋根を葺いたという感じで。家具や調度品類もいろんな方から提供されたものだった。
先シーズンは装飾品が増えたという感じだったが。今年は屋根が新しく大きく立派になっていた。
店員さんも私のことを覚えていて、ちょっとうれしかった。このあたりが、この店にリピーターが増える理由のひとつだろう。
料理ももともと豪華だったのだが、ボリュームもパフォーマンスもパワーアップしていた。
私の訪れたときは、誕生日を迎えたお客さんがいて、電気と音楽を消し、ろうそくの下で、店員さんも他のお客さんも一緒になって誕生日を祝った。


ライトアップされたポリスボート


大資本もどんどん入ってきたりしている一方で、津波直後からがんばっている店が必ずしも順調に行っていないようだ。
観光地として開発が進むと、家賃などが上昇する。そうすると、店の維持が難しくなるわけだ。
私の定宿と化しつつあるP&Yも、新しいビジネスとして、ツアーカウンターを儲け、バーでも食事が出せれるようになった。同じ商業施設内にあったツナミクラフトセンターも家賃が払えず次のシーズンを待たずに閉鎖してしまった。


閉鎖されたツナミクラフトセンター


ダイビングショップのオーナーが、店を持っている被災者の出来る復興策は、どんなことがあっても、とにかく店を開け続けることだと言っていた。
しかし、経済的に苦しい状況で店を開けることはリスクが多く、新たに発展するのに必要なプールが出来ない場合もある。そうならないようにするのが、経営者というものだが、どうしても巨大な資本の元に新規参入してくるものからすれば、不利になってしまうことがある。

はじめてきた人には、わからないだろうが、地元の人はそのことをわかっていて、そういう努力をしている店に集まってくる。しかし、発展して新しい住民が増えることによって、店を閉めずに頑張っていた店が、必ずしも流行るとは限らない。


タイ航空の機内誌 [2007年11月27日(Tue)]
関西国際空港からバンコクへの飛行機の中で機内誌を手にした。
するタイのビーチの特集が掲載されていた。



カオラックやプーケットのリゾートの魅力がメインなのだが。途中からタイの最大の津波被災地のマングローブの話題を中心に自然の素晴らしさの話題かせ書かれていた。そして、最後の方にちらっと津波の話が書かれていた。
こういう報じ方っていいですね。
通常は、場所の説明のためには、津波に被災したことから順番に説明するケースが多いのだが。それに対し、この特集は今の姿の素晴らしさから入るというアプローチは実にすばらしい。災害なんて興味のないほとんどの人には、素晴らしさのほうが必要な情報でそれをきっちりと抑えた上で、最後まで読んでくれた人には過去のこともわかるという構成になっている。
しかもタイミングも見事で、これからハイシーズンに入る時期に、うまく時期をあわしている。しかも津波3周年となる来月は、プミポン国王の80歳の誕生日でこの2年続いていた王様フィーバーが最高潮に達し、機内誌でも多くのページを割くことになるだけに、先に津波の被災地の復興を促進する特集を組んでおこうということなのだろう。
その国を代表する航空会社の国際線の機内誌という国の看板だけにあって、様々な配慮をした紙面づくりになっていると改めて感じた。
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ドキュメンタリー映画「STILL ALIVE 2005年プーケットに何が起きたのか」
まいける東山監督作品 ドキュメンタリー映画「STILL ALIVE 2005年プーケットに何が起きたのか」