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STILL ALIVE

2001 ニューヨーク同時多発テロによる海外渡航自粛
2002 SARS(重症急性呼吸器症候群)による渡航規制
2003 鳥インフルエンザによる東南アジアへの渡航規制
2004 スマトラ島沖地震による津波被害
次は何が起きるのか?

ここ、数年、観光で生きているタイ・プーケットは、毎年のように、数々の苦難が襲っているが、立ち直っている。
しかし、今年、2005年は、すでに津波被害からの復旧が終わったにも関わらず「日本人観光客だけがプーケットに来ない」という現象が発生。それは、タイ・プーケットで、現地のタイの人たちと共に暮らし続けている日本人たちを直撃。それでも、力強く、楽しく、生きている。そこには、今の日本社会が失った大切なものが生きていた。

ブログ名同名のドキュメンタリー映像の製作に関する話題。
風評観光被害の他に、地球温暖化の問題、コミュニティの再生、人間の回復、地域の再生、貧困問題などを取り上げてゆきます。
ツナミクラフトの「さをり織り」の情報。
エコロジーシアター「天の浮舟」情報も。


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延命治療に関しても同意が必要なんじゃないの? [2006年03月26日(Sun)]
富山県の射水市民病院で、外科部長が末期の入院患者7人の人工呼吸器を外し、全員が死亡していたことを、記者会見して明らかになった。
中日新聞の記事には"院長は「患者本人の同意が必要だった」と顔をこわばらせ言葉を濁した。"などと書かれていたようだが。あれれ、本人は昏睡状態で本人の同意を得られない状態だったんですよねぇ。
昏睡状態の患者に対して「患者本人の同意が必要だった」ってことは、その論理で、逆に言うと「延命治療に関しても同意が必要なんじゃないの」ってことになるよねぇ。
今後見込みのない患者に対し、意識がなく患者本人の同意が得られない場合に、延命治療が良くて、安楽死がダメってのは、「患者本人の同意」とは関係のない所の問題なんだと思う。
それなのに、NHKのニュースでは"病院長は「患者本人の意思を確認した同意書はなく、安楽死や尊厳死だとは思っていない。延命治療を中止した行為はあくまでも個人の判断であり、許されるものではない」と述べており、病院は、去年10月、外科部長を医療業務から外す処分を行うとともに、警察に届け出ました。富山県警察本部では、病院関係者から任意で事情を聴いており、殺人にあたらないかどうか、患者が死亡したいきさつを詳しく調べています。"NHK 03/25 19:21 っていう風に、本人の同意書が書けないことが問題のように受け取られる内容で放送されていた。
そこに、なんとなく違和感を感じた。



朝日新聞に"横浜地裁は95年、「東海大安楽死事件」判決で、例外的に延命治療の中止が認められるのは、(1)回復の見込みがなく、死が避けられない末期状態にある(2)治療行為の中止を求める患者の意思表示か家族による患者の意思の推定がある(3)「自然の死」を迎えさせる目的に沿った決定である――の3要件を満たす場合のみ、との判断を示している。 "朝日新聞 2006年03月25日22時10分 ということが書かれているのだが。今回の件は、おそらく(1)はクリアしていて(2)の部分に少しグレーの余地があるのだがクリアしている。そして問題は"(3)「自然の死」を迎えさせる目的に沿った決定である"という部分が引っかかったのではないだろうか。
(2)の部分のどこがグレーかというと、本人が意思を伝えること自体が困難であることと。あくまでも、家族による推測で判断されているということである。
本人が意思を伝えにくい事には、死を選ぶことが、道徳的、社会的にもあまりいいこととされていないからである。
国政レベルで考えると、社会保障の部分の財政が破綻しかけているというが、その大きな原因のひとつが莫大な医療費と考えると、延命治療を短期化することは、そのぶんの費用を他の医療や社会保障に回せるというメリットがあるはずなのだが。それでも、延命治療をすることが当たり前になっている。
また、遺書があっても、道徳的、社会的に「自殺」が認められていない中で、ある意味、自殺とも言える、延命治療をしないという患者本人の同意は、社会的・道徳的な無言のプレッシャーにより言い出しにくいという問題もある。言論の自由があるにしても、「こういう場合になったら、延命治療を止めて欲しい。」と言い出せるのだろうか。
次ぎに、家族の推測だが、"(2)治療行為の中止を求める患者の意思表示か家族による患者の意思の推定がある"とのことだが、普段から本人が口に出している人以外は「家族による患者の意思の推定」は不可能だ。
今回の件で"病院側からの届けを受けた県警は、病院関係者から任意で事情聴取を開始。関係資料の提出も受け、立件の可能性について慎重に調べを進めている。ある捜査幹部は「殺人にあたるのか、嘱託殺人などになるのか。患者の同意の有無など慎重に調べたい」としている。" 朝日新聞 2006年03月25日22時10分 と報道されているが。もし、この件が殺人と認められたとすると、同意した家族も、殺人を指示した人物となってしまうのだろうか。もし、家族が殺人を指示した人物としてされずに、この外科部長だけが、殺人の罪に問われるとするのは、家族の同意の下に延命治療の中止を行ったとすれば、家族が良くて医師がダメという、ちょっとおかしな話しとなってしまう。
また、こういう本人の意識がない状態で、延命治療を徹底して欲しいというという意思確認もできないわけで。それは、家族の推測も同様である。なぜ延命治療が行われるのかというと。運命治療を欲しているという、ある種の性善説のような大前提があった上で、延命治療を行っているのではないだろうか。
だから、本来なら、延命治療を行わないという同意を得ると同じように、延命治療に関しても本人の意志の確認が必要なのだと思う。
とはいえ、本人の意識がないところで、延命治療をするにしても、しないにしても、本人の意思の確認が出来ない。だから、誰かが判断するしかない。
また、今回の件では、家族の同意があったと、カルテには書かれていても「同意書」がなかったという所も問題になってくるだろう。
そこで次ぎに疑問になってくるのが同意書である。
同意書があれば、この問題が解決するのだろうか。あくまでも同意書は、あくまでも、責任の所在を判断する証拠の一つであるだけで、根本的な問題の解決には役立たない。
または、あとで、あの同意書は、自分の意志ではなかったという事を主張した場合、定型文のものはとくに同意書があることによって、同意書の法的な効力があればあるほど、その同意書を書くまでのプロセスが、軽視されてしまうという傾向がある。
同意書にサインをしたことを理由に、いろんなことができてしまう危うさがあるだけに、同意を得るまでのプロセスが重要になるはずが、そのプロセスが一枚の紙切れを書いた時点で、プロセスが重視されなくなるという矛盾をはらんでいるのだ。
だからこそ、延命治療の問題が「同意書」があるかないかという論議にすり替われば、問題の本質から離れていってしまうことに繋がる。
つぎに(3)についてだが、(2)本人の意志や家族の同意うんぬんより、今回の件に関しては、これが一番問題になっているように思う。
病院長が"延命治療を中止した行為はあくまでも個人の判断であり、許されるものではない"と言ったのは(3)「自然の死」を迎えさせる目的に沿った決定"のプロセスに関わらなかったことでもあるのだが。実際は、部下である外科部長が、自分の言うことを聞かない状況があったから、突き放したという部分もあるのではないのだろうか。
記者発表の現場にいなかったので、なんとも言えないが、いろんな記事から病院長のコメントをつなぎ合わせると、どこかに、部下である外科部長を突き放していると受け止められる表現がある。
医療の現場の最前線にいると安楽死という選択肢が出てくる現場に立ち会うことが多い。それと同時に、現場で判断をしていかないといけない事が山というほどある。しかし、現場で判断する事が多いだけに、現場と管理する側との間に、温度差が生じていることが発生しやすいのではないだろうか。
今回の件は、過去5年間ぐらいの間に7人に対して行われていたのだが。それだけの期間、病院長という管理をする立場の人間が、判断の蚊帳の外にされていた。
しかし、簡単にクビに出来ないと思われる公立の病院ということから推測すると。他にも、現場で判断をされていた事に、病院長が快く思っていなかった可能性もある。そして、この手の報道でよくあるパータンなのだが、今回の当事者は患者などから評判であったとのことだが。この評判だった理由というのは、もしかすると、現場でパキパキと判断をしてくれる方だったことが信頼を得た可能性もある。
人は誰でも妬みという感情を多かれ少なかれ持つのだが、もしかすると、現場で判断をして評判を得ている部下について、病院長が快く思っていなかった所にこの事件が発覚したのが、自分の部下である外科部長が社会的、法的に制裁を受ける状態になり場合によっては復帰出来ない状態になることを承知の上で、記者発表をした真の動機であった可能性もある。
つまり、記者発表を行ったのは、情報公開の方針というよりも、病院長と外科部長との間のコミュニケーションや確執などの問題があったのではないかとも推察できる。
延命治療をすべきかどうかという社会的な問題を提起したという事では、この記者発表の社会的意義は大きいと思うが。病院長が、部下の個人的判断という事で、病院の組織の問題であるという部分を切り離してしまっているのは、同意書のあるなしにも関わってくるのだが、病院長が管理責任を取りたくないという意思の表れであるとともに、この病院の組織がおかしくなっているからではないのだろうか。
組織というものが、個人の判断の積み重ねで力を発揮しているのならば、個人の判断の切り捨てと思える行為は、組織の構成員が考えて判断をするということをしなくなる。いわゆる思考停止状態となる。
構成員が思考停止をしていても、ルールが決まっていればそれなりには機能はするが、さまざまなことに対応の出来ない組織となってしまう。
考え方が違うからとか、言うことをきかないからという理由で、組織から人を切り離していくと、結局は、考えることが出来ない弱い組織となってしまうのだ。
つまり、病院という、さまざまなイレギュラーへの対応と迅速な判断が必要な組織が、思考停止をして機能しなくなるという恐ろしい一面をもっているのだ。
それは、判断基準を決めてゆこうという流れの悪い側面でもある。
今回の件は、延命治療をするかどうかという人間の尊厳に関わる部分に隠れて、組織のあり方についても問い掛けるものを感じた。
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コメント
ゆうさんコメントありがとう。

富山県ということは、この事件の地元ですよね。
「延命治療を行わないべきか否か」という問題は、人の尊厳、責任、お金、人間関係などの問題が複雑に入り組んでいますよね。

今回の事件に関しては、人間関係の話が、責任と人間の尊厳の問題に摩り替えられてしまった部分が含まれているので。学校での授業としてこの事例を直接つかってディスカッションをするのはとても困難だと思いますが。実際の授業のほうはいかがでしたか。
よかったら教えたください。

それと、これもよかったらですが、どういうところで、生命においての難しいトコロと矛盾してしまうことがわかったか教えてくださいね。
今後、記事を書くときの参考にさせていただきます。
Posted by:まいける東山  at 2006年10月05日(Thu) 00:31
こんにちは。私は富山県に住む高校一年生です。今回現国の授業で「延命治療を行わないべきか否か」という題でディスカッションを行うことになり、参考に、と拝見させて頂きました。読んでいくと生命においての難しいトコロと矛盾してしまう理由が具体的に分かり、とてもためになりました。ありがとうございます。
Posted by:ゆう  at 2006年09月30日(Sat) 21:00
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