「伝統を守る」という言葉を借りた思考停止 からの脱出
[2006年03月20日(Mon)]
京都の田舎神社の第二種兼業神主?が会合があるということで東京に出てきたので会うことにした。
彼が、神主など神社で働く人のインターネットコミュニティが10周年を迎えるにあたり、単なる勉強会ではなく、ワークショップスタイルで行おうということで、東京にやってきたのだ。
ワークショップが開かれるには、その背景がある。
それは、神職で食っていくのか大変だからである。
彼も、平日の昼はサラリーマンをやり、夜や休日に神社の仕事を行っている。まだ、この神社は、神主なり神職についている人がついているからいいが、最近では神主がいない神社も多いそうだ。
さて、昔は、それなりに神社もやっていけたのに、なぜ今はダメなのだろうか。
まず、環境的な原因として、都市への人口の移動などで、地域コミュニティが崩壊して、地域コミュニティと密接に関係のあった地域の神社と人々との生活とが離れてしまった事がある。しかし、賛否両論ではあるが、時代に合わせたマーケティング戦略をとり、若い女の子をターゲットにして様々な商品開発をし成功した神社もある。
この商品開発に対する賛否両論はどこから起きるかというと、神道という宗教行為から逸脱している可能性があるからである。それは、神社の中で女の子向けのお守りを売っていて、それがバカ売れするぐらいだったら可愛いが、神社の名前を使った商品がスーパーの店頭に並んでいるという所まで出てきたため、伝統を守って商売に熱心ではなかった神社などからは「けしからん」という声が出てくるのである。それは、信仰の精神からの逸脱に対する指摘の要素以外に、「けしからん」と言わないと、過去にこだわり、伝統を守ってきて自分たちの立場がないという要素もあるのだそうだ。
しかし、神社もなんらかのお金を回さないと、古くからの伝統のある神社も維持出来ないわけで、商売を否定ばかりしてはいられない。
そんなことで、神社を営む者が、神社経営の相談に乗ってくれる組織などに相談することがあるそうなのだが「伝統を守りなさい」という言葉が返ってくる事が多いそうだ。この言葉がけっこう曲者なのだ。
確かに歴史も背景も祀っているものも違う神社の個々のケースに合わせたコンサルティングは簡単にはできない。そこでどこに対しても言える「伝統を守りなさい」と言われてしまうと、相談した方は何も言えなくなる。
そして、その言葉には、3つの思考停止がある。
1つは、「伝統を守りなさい」という回答をすれば、相談者が何も言えなくなるだけに。何も考えずに「伝統を守りなさい」といっておけば、実際は問題解決には繋がらないにしても、なんらかの形で相談者に回答したことになり。とても楽である。それで、なんらかの金銭が動いているのであれば、とても効率的なコンサル業と言う、皮肉じみた表現がよく似合う。
2つめの思考停止は、「伝統を守りなさい」という言葉をきいたときに、「いままでと同じ事をやっていればいいんだ」という自信を深め、自分で考えるという事をやめてしまうのだ。
次ぎに、3つめの思考停止は、「伝統を守る」ということが、自分で考えずに、あくまでも過去の事例に頼ることに繋がるところである。
確かに、伝統の中には、その神社の個々の背景に基づいた過去の対処法なりがあるわけで、それが問題解決に繋がる知識があることにはあるのだが、今起きている大きな変化に対応した問題解決方法が記された伝統をもっている神社はほとんどない。つまり、前例がないから対処出来ないのである。
それなのに、「伝統を守りなさい」という非の打ち所のない言葉をなげかけられてしまうと、自分で考えずに思考を停止し、伝統の中にある前例を探すことに労力を使うこととなる。
そんなことで、「伝統を守る」という非の打ち所が見つかりにくい言葉から、多くの思考停止が生まれているようなのだ。
そして、別に「伝統を守りなさい」ということで思考停止に陥るだけでなく、もっと日常的に思考停止に陥る出来事があるようである。
そんなことで、神職に就いている人の中には、思考停止が当たり前になってしまっている人が多いと言うことがあるそうで、それが原因で食えていけない神職の方が多いのではという仮定のもとに、ワークショップを開くことにしたのだという。
さて、普段から慣れていない「思考する」という体験をするワークショップだが。思考したことがないだけに、どうやったらいいのかわからず、様々な不満が、ファシリテーターを勤めた彼に「もう、二度とやりたくない」と言い出すほど激しくぶつけられたそうだ。
人は、だれしも、慣れないことをして、うまくいかない時、誰かに当たってしまう事があるが、まさにそれだ。
しかし、ワークショップがおわると、自ら「思考した」体験の楽しさでいっぱいになり、参加者から「また、今度もやって欲しい」という声がいっぱいになったそうだ。思考する楽しさを体験したことは良かったのだが、その楽しさを再び味わいたいために「他人に頼る状態」なのである。
神社を経営するには「自分で思考し」「自分でやる」必要があるのだが。思考する楽しさを知ったのはいいが、まだまだのようである。
神職の方の中のほんの少しだし、まだ第一歩を踏み出したところではあるが、思考停止から抜け出そうとしている。
このワークショップには次回があるかどうかわからないが。
なんらかの形で繋がり、形式的な伝統でなく、「思考し自分でやる」という姿勢が伝統になってゆけば、鎮守の森という自然を守り、神と繋がる場所である神社が後世にも伝わってゆくのであろう。
彼が、神主など神社で働く人のインターネットコミュニティが10周年を迎えるにあたり、単なる勉強会ではなく、ワークショップスタイルで行おうということで、東京にやってきたのだ。
ワークショップが開かれるには、その背景がある。
それは、神職で食っていくのか大変だからである。
彼も、平日の昼はサラリーマンをやり、夜や休日に神社の仕事を行っている。まだ、この神社は、神主なり神職についている人がついているからいいが、最近では神主がいない神社も多いそうだ。
さて、昔は、それなりに神社もやっていけたのに、なぜ今はダメなのだろうか。
まず、環境的な原因として、都市への人口の移動などで、地域コミュニティが崩壊して、地域コミュニティと密接に関係のあった地域の神社と人々との生活とが離れてしまった事がある。しかし、賛否両論ではあるが、時代に合わせたマーケティング戦略をとり、若い女の子をターゲットにして様々な商品開発をし成功した神社もある。
この商品開発に対する賛否両論はどこから起きるかというと、神道という宗教行為から逸脱している可能性があるからである。それは、神社の中で女の子向けのお守りを売っていて、それがバカ売れするぐらいだったら可愛いが、神社の名前を使った商品がスーパーの店頭に並んでいるという所まで出てきたため、伝統を守って商売に熱心ではなかった神社などからは「けしからん」という声が出てくるのである。それは、信仰の精神からの逸脱に対する指摘の要素以外に、「けしからん」と言わないと、過去にこだわり、伝統を守ってきて自分たちの立場がないという要素もあるのだそうだ。
しかし、神社もなんらかのお金を回さないと、古くからの伝統のある神社も維持出来ないわけで、商売を否定ばかりしてはいられない。
そんなことで、神社を営む者が、神社経営の相談に乗ってくれる組織などに相談することがあるそうなのだが「伝統を守りなさい」という言葉が返ってくる事が多いそうだ。この言葉がけっこう曲者なのだ。
確かに歴史も背景も祀っているものも違う神社の個々のケースに合わせたコンサルティングは簡単にはできない。そこでどこに対しても言える「伝統を守りなさい」と言われてしまうと、相談した方は何も言えなくなる。
そして、その言葉には、3つの思考停止がある。
1つは、「伝統を守りなさい」という回答をすれば、相談者が何も言えなくなるだけに。何も考えずに「伝統を守りなさい」といっておけば、実際は問題解決には繋がらないにしても、なんらかの形で相談者に回答したことになり。とても楽である。それで、なんらかの金銭が動いているのであれば、とても効率的なコンサル業と言う、皮肉じみた表現がよく似合う。
2つめの思考停止は、「伝統を守りなさい」という言葉をきいたときに、「いままでと同じ事をやっていればいいんだ」という自信を深め、自分で考えるという事をやめてしまうのだ。
次ぎに、3つめの思考停止は、「伝統を守る」ということが、自分で考えずに、あくまでも過去の事例に頼ることに繋がるところである。
確かに、伝統の中には、その神社の個々の背景に基づいた過去の対処法なりがあるわけで、それが問題解決に繋がる知識があることにはあるのだが、今起きている大きな変化に対応した問題解決方法が記された伝統をもっている神社はほとんどない。つまり、前例がないから対処出来ないのである。
それなのに、「伝統を守りなさい」という非の打ち所のない言葉をなげかけられてしまうと、自分で考えずに思考を停止し、伝統の中にある前例を探すことに労力を使うこととなる。
そんなことで、「伝統を守る」という非の打ち所が見つかりにくい言葉から、多くの思考停止が生まれているようなのだ。
そして、別に「伝統を守りなさい」ということで思考停止に陥るだけでなく、もっと日常的に思考停止に陥る出来事があるようである。
そんなことで、神職に就いている人の中には、思考停止が当たり前になってしまっている人が多いと言うことがあるそうで、それが原因で食えていけない神職の方が多いのではという仮定のもとに、ワークショップを開くことにしたのだという。
さて、普段から慣れていない「思考する」という体験をするワークショップだが。思考したことがないだけに、どうやったらいいのかわからず、様々な不満が、ファシリテーターを勤めた彼に「もう、二度とやりたくない」と言い出すほど激しくぶつけられたそうだ。
人は、だれしも、慣れないことをして、うまくいかない時、誰かに当たってしまう事があるが、まさにそれだ。
しかし、ワークショップがおわると、自ら「思考した」体験の楽しさでいっぱいになり、参加者から「また、今度もやって欲しい」という声がいっぱいになったそうだ。思考する楽しさを体験したことは良かったのだが、その楽しさを再び味わいたいために「他人に頼る状態」なのである。
神社を経営するには「自分で思考し」「自分でやる」必要があるのだが。思考する楽しさを知ったのはいいが、まだまだのようである。
神職の方の中のほんの少しだし、まだ第一歩を踏み出したところではあるが、思考停止から抜け出そうとしている。
このワークショップには次回があるかどうかわからないが。
なんらかの形で繋がり、形式的な伝統でなく、「思考し自分でやる」という姿勢が伝統になってゆけば、鎮守の森という自然を守り、神と繋がる場所である神社が後世にも伝わってゆくのであろう。






