ひこばえを守り育て隊の経歴
〜葉澤ちえ子の活動日記〜
1 まえがき
H23.3.11
私は発災時、自宅トイレの中にいた。2日前にも大きな地震があり、その余震かと思ったが、「いつもと揺れ方が違う」と感じ、急ぎ外へ飛び出す。逃げねばと足元を見ると、トイレのスリッパのままでした。スニーカーに履き替え、ラジオを持ち、近所の人たちの姿が見えたので、その人達のもとへ行こうと隣にあった駐車場を通る時、車がジャンプしている。上を見上げると、電線も大きく波打ち、恐怖を覚えた。そして近くのアパートから赤ちゃんをだっこしたお母さんが、スリッパのまま飛び出していた。「引っ越してきたばかりで、どこへ逃げればいいんですか?」と聞かれる。とっさに、「津波てんでんこ」の言葉を思い出す。「津波てんでんこ」と言う言葉は、私が大船渡に嫁ぎ、地元の人達が津波の話をするとき、とにかく「地震きたら1人でも高台へ逃げるんだよ。昔から津波てんでんこっていう言葉があるんだよ」という言葉を聞いていた。その言葉を思い出し、その若いお母さんには、とにかく走りやすい靴をはいて、高台、山の方へ逃げなさいと話す。自分はその日大工である息子が、たまたま現場が近かった。来るまでも5分ぐらいのところで仕事をしていた。たぶん、迎えに来るだろうと思って待っていた。今にしてみたら、息子はなんて無謀な事をしたんだろうと思った。山の方から海の方へ向って車を走らせたのである。そして2人で家の中に入り、何か持ちだそうと思うも、パニック、頭が真っ白で、恐怖感だけで何もできず、息子の一言「母さん、逃げるべ」その言葉で我に返るというか、とにかく2人で車で山の方へ走った。近くの公共施設はと考えた時、山のふもと当たりにある福祉の里センターが浮かんだ。そこなら確実に高台である。ただ、その福祉の里センターは、市の指定した避難所ではないため、安否確認の情報が出るまでは、10日ぐらいかかった。その間、身内には大変心配をかけてしまった。
この日から、自分の人生が大きく変わった。いろんな人との出会いだったり、いろんな体験、いろんな感情の揺れ、この4年間、生き方や生死について、これほど考えたり迷ったりしたことはなかった。現在は自分の人生設計が少しできるようになってきたように思う。その気持ちの整理をする意味で、震災後から4年間のできごとを記録したいと思った。
2 3月11日の避難所でのこと
福祉の里センターの駐車場にいた。雪がちらついてきたので、建物の中に入った。さすが市の指定する避難所ではなかったため、私達の他にはもうひと家族がいるだけだった。その後から多くの人が避難してくるようになった。小さな明かりだが電気は付いていた。トイレもつかえたが、ほのかな明かりの中で、何十人か何百人か分からない人達と、玄関ホール、ロビーで、ラジオの音を聞いていた。20時30分過ぎだったろうか、ヘリコプターの音が聞こえた。口々に、「来た、来た」と後から口にしたのは、「自衛隊、あってよかったね」ということ。そしてヘリの着いたところはすぐ私達のいるところのすぐ近くにヘリがついた。それから20〜30分ぐらいたったんだろうか。温かいおにぎりが届けられた。それを口にしたときは、周囲の人達も同じだったろうけれど、「あぁ、自衛隊のおにぎりって美味しいんだね」と半泣きしながら食べた記憶がある。避難所で暮らすのも悪くないかも、と思ったが、それは甘かった。その日だけだった。そしておなかも満たされた事で、息子は余震の続く中、うとうと眠ってしまう。だんだん揺れにも慣れて来て、少しぐらいの揺れでは、このぐらいだったら逃げなくても大丈夫というのがあったが、息子を起こさないでいると、隣にいた見ず知らずのお母さんが、息子を起こしてくれた。「あんた、起きろ」と。ひとばんじゅう、そんなことの繰り返し。たぶん、そこにいた人たちは寝ていないだろう。翌朝、テレビを職員がつけてくれた。NHKの7時のニュースである。ラジオで、どこの街も壊滅状態だと聞いていたが、画面でその事を確認、高田の松原が無くなった事を知り、若い女の子たちが泣き崩れた。どこのまちの映像も、がれきの山と言われた。私達にとっては生活品だったのである。息子と自宅へ向かったが、ヘドロでスニーカーでは歩けない。とにかく長靴を調達し、貴重品だけは取り出したかった。私の家は借家なのだが、天井まで全壊ではあったが、流されてはいない。ほとんどのものは残っている。取り出したのは免許証と私の実印だった。使えない家具やらを外に出す作業をしなければと、何回かは片づけにも通ったが、その中、私の実母と息子二人の小さい子供と実家で撮った写真を飾っていた。それがヘドロの中から見つかった。その時はすごく、泣けてきた。やりきれない気持だった。自然災害だから、どこにもぶつけようのない、やりきれなさ。ぐすぐす泣いていると、やたらと息子が優しくなる。それも痛い。自分の財産なんて金額にしてみたら大したことはない。でも、確かに、それらで生活してきた。それがすべて。例えば、本があったって、ヘドロを被った本は見れるわけじゃないし、一つ一つをあきらめることをしなければならなかった。数日して、嫁が来て、「何も取り出せなかったよ」と詫びた。嫁の言葉「おかあさん、いいよ、また思い出つくろうよ」この言葉は救いでもあったが、私はすぐに思い出を作るなんてそんな考えには至らなかった。やはり年齢差なのか、そういうところで少しずつ…若さによって受け止め方が違うんだろうなぁと感じた。
3 日付ごとのできごと
3月15日
福祉の里センターにて、自助グループ「ひこばえ」を立ち上げる。コミュニケーションをはかる目的で折り鶴を始める。
手芸好きの高齢女性の発案で、余っている衣類で、袋物などを作る。お手玉をつくり、みんなで遊ぶ。
高齢男性の趣味で行っていたたけのこ等を気にしていたので、自分が借りていた市民農園へ連れて行く。
3月30日
福祉の里センターにNGO団体オールハンズ5名とフードバンク「セカンドハーベストジャパン」(※以降2HJ)3名のメンバーがやってくる。その2HJの事務局大竹くんは、福島会津の出身であった。それで急接近する。
4月1日
2HJの3名と荷物の運搬、支援物資の配達やら、手伝い。陸前高田へ向かった。
4月12日
福祉の里センターを出る。嫁の実家やら、知人宅など5か所ぐらいを転々とした。
5月30日
一関市内のアパート、現住所に移り住む。
6月10日
東京へ。平田茂氏の誘いで出かけた。平田氏と私とは6月7日に出会っていた。オールハンズのメンバーとして、4月から6月7日まで活動。平田氏が6月10日、ある本の出版記念イベントで、被災地でのボランティア活動報告をする事に。そこに連れて行かれたのであった。たぶん私は被災地からより遠く離れた東京へ行けば、震災の事など話さなくてもいいのでは?という想いで行ったのだが、みなさん東北の事を本当に気にかけていたように思う。そこで朗読とチェンバロの演奏が行われた。チェンバロという楽器の音色を聞くのは初めてであった。朗読は宮沢賢治のアマニモマケズであり、目を閉じて聞いていると、三陸の海の悲惨な状況が浮かんだ。自然と涙があふれたが、心を開かせてくれたような気もした。演奏後、その音楽家に声をかけようかどうか、躊躇する。そんな気持ちの小さな葛藤があったが、「今声をかけなければ一生会えない人達なんだろうなぁ」と思い声をかける。この人達も、東京にいて音楽等をやっていていいんだろうかと、悩んでいたようだが、大船渡に来てくれませんか?と言うと、「スケジュールが合ったら行きます」との事。
7月4日
オールハンズと門崎地区農家の方々との交流会。
北限のホタル観察会と酒米水田の草取り。
7月20日〜23日
被災地の子供に文化を届けるプロジェクト。メンバー3名来県する。
大船渡の猪川保育園、石巻の蛇田保育園、なかよし保育園に行き、活動をした。
10月25日
保健婦訪問する。アパートなどに点在して入居しているため、だれがどこにいるのか分からず、情報も支援も無く、誰が訪ねてくるも無い、仮設住宅とは全く違う。自分で選んできたのだから、仕方ないと思うも、来たばかりのころは、孤独死するのではないかと思うくらい、孤立感があった。その話を保健婦と話す。他の被災者宅へ訪問しても、同じような事を言われてきた様子。保健婦の提案で、「公民館とか借りて集まるのもいいですよね」という声もあった。その保健婦も、職場に戻り、上司の指示を仰がねばということで、何日か後、問合せしたところ、「そっとしておきましょう」との返事。その時自分は、「そっとしておけはないべ」と思った。それで、1人でも交流会を立上げるべきではないのかと奮起する。公民館へその旨、交流会の場として借りられるかどうかを聞きに行った。快諾。協力的であった。そして地元紙の新聞記者を呼ぶ。
11月3日
地元紙に載る。ひこばえを守り育て隊、勝手に1人で立ち上げた。
11月6日
第1回ひこばえ交流会、山目公民館にて。参加者9名。純粋な被災者は2名。
11月28日〜30日
青木裕子さんと小澤章代さんを迎えての冬の朗読会を開催。
協力は、チャイルドファンド、大船渡市議2名による。
開催場所は一関市の睦保育園、大船渡のギャラリーNO.3、盛保育園にて開催。
12月4日
第2回ひこばえ交流会。参加者は7名だった。
平成24年1月15日
第三回ひこばえ交流会。
2月15日
第4回ひこばえ交流会。
3月10日
東京の江戸川区「キルトショップYUNO」の店主に会いに行く。
3月11日
小澤章代さんの誘いで、浅草橋教会へ行く。
4月1日
第5回ひこばえ交流会。
5月6日
第6回ひこばえ交流会
磐井川河川敷にてお花見。
6月10日
あすなろプロジェクト始動。
場所は大東町の猿沢の畑。内容は花植、野菜づくり。
平成25年1月8日
新春講演会で講演。大東農村環境改善センターにて。津波被害をした1人として、感じた事、活動してきた事を話す。
3月
東京へ。ヒルトンホテルにて、手芸品の販売。支援団体モリソンフォスター弁護士事務所の支援チームの協力によって実施。浅草橋教会へ行った。手芸品の販売等の協力を呼び掛ける。1週間後、教会でバザーを開催。
6月21日
ひこばえ交流会。猿沢公民館主催。共催がひこばえを守り育て隊。
山岸仮設のみなさんを招待。音楽家、NHKBSの番組「日本の里山」という番組の挿入歌を作った方々4名が来県してくださいました。地元龍泉寺の御詠歌からはじまり、保育園児の歌、中学校長によるリコーダーの参加や、小学生にはアメニモマケズの朗読など、会場のみなさんとの合唱もあり、充実した中身だったと思うが…。手づくりの会だったと思う。
7月20日
仕事を始める。
以前と同じ仕事に就いた。とりあえずここで生活してみようかなと考えた。
4 あとがき
沢山の人々から支援され、いまでもつながりを持っている人たちもいる。
糸へんにこだわっていて、震災当初は「絆」という言葉がやたらと使われた。絆と言う字は、糸が半分。でもその太さが違ったら、いくらつないでもほどけてしまう。私は同じ糸へんでも、縁というものを感じた。縁のある人たちとはつながっているし、ない人達とは離れていく。細くてもその糸をよりあわせれば、太い糸になるのでは?と、「つむぐ(紡ぐ)」と言う字、「より(縒り)」など、やたら糸へんが浮かんでくる。そういう人付き合いにしても、同じ考え方や生き方、などを理解し合えないと、一緒に暮らしたり共同作業したりするのはすごくしんどい事だと思った。今は自分の気持ちに正直でありたいと思うようになり、1人で生きていくことを選んだ。
一関に移り住んでから、これまで、数多くの皆様にご支援を頂きました。以下、すべての人達に、感謝申し上げたい。
・ たびれっじ(一関)
・ 平泉「あやめ」店頭販売
・ 平泉「悠久」の湯販売
・ 遠藤博子さん(東京)
・ 橋屋(一関)
・ スタジオゲルン(東京)
・ モリソンフォースター弁護士事務所(東京)
・ フードバンクセカンドハーベスト(東京)
・ ヒルトンホテル
・ 相模原大野台公民館(相模原)
・ キルトショップYUNO(東京)
・ 浅草橋教会(東京)
・ 西村真紀子(岡山)
・ 西磐労連(一関)
・ 松栄堂(一関)
・ 大曾根朱美(埼玉県富士見市)
この内陸部の一関に広大な土地を借り受ける事が出来ました。今春から本格的に野菜や花などを育てたいなと思っています。今目指しているのは復興の形として、味噌を作るために大豆を育てたいなと思っております。何か自分なりの復興したという形を残したいということで、それをみんなでできればなぁと、いろんな人に関わってほしいなぁと思います。予定としては4月ぐらいからで、詳細はお電話をください。
※P.S
もっといろいろ避難所での事、エピソードがあります。折に触れてこれから触れていけばいいのかなぁ…いっぺんに思い出すのはしんどい、嫌な部分はどこかで吐き出してしまいたいなぁと思う。いっぺんに嫌な事ばかりは嫌だ。農作業しながら話を聞きに来てよと思います。皆が聞き役になれば心のケアができる。
葉澤ちえ子 0191-21-3086