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第31回「東西金井の古里を辿り こだわりの納豆を知る」見どころ [2019年03月21日(Thu)]
3月21日、この日は朝から雨で、急きょ、午後1時半からに時間を変更して下見ウォーキングを始めた。1時半に馬道を出発して、在良駅についたのは3時50分でした。5分前に電車が出たところで、この後、車で中川ベイカリーに行き、おいしいケーキを食べて疲れを癒しました。

今回の見どころです。
金井橋
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 町屋川左岸の繁松新田から対岸の東金井に架けられた全長181.9m幅2.5mの鋼製歩道橋。このあたりの町屋川には上流の桑部橋から下流の町屋橋まで橋が無く、利便的に近くの鉄道橋を渡る人が多くて危険であったため地元の要望で架けられたという。

金井山徳元寺(廃寺)
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 浄土真宗本願寺派。当時の南側の丘陵上にあった金井城の被官である山家氏の一族が開基。長島一向一揆に参加し、信長勢に攻められ廃寺になったがのち再興された。しかし平成に入り堂宇が取り壊され廃寺となっている。当時にあった梵鐘は、もと桑名の春日神社内の神宮寺の鐘で、寛永15年(1638)銘の北勢地方に現存する最古の鐘であった。現在は南魚町の仏眼院に買い戻されている(市指定文化財)。

東金井 春日神社
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 明治時代に桑部の長谷神社に合祀されていた春日神社が戦後氏子の総意により旧杜地に分祀鎮座された。春日神社は中臣氏(藤原氏)の祖神とされる天児屋根命を祀る神社で、桑名市内には石取祭で有名な桑名総社(通称春日神社)のほか春日神社と称する神社は5座ある。

須賀神社
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 桑部の長谷神社の分霊を祀る神社として西金井に鎮座する神社。この神社の社殿は土蔵造りで、昭和3年に桑部小学校の奉安殿として作られた建物を戦後移築したもの。
(注)奉安殿とは戦前の日本の学校で、御真影(天皇・皇后の写真)と教育勅語を納めていた建物のこと。

長谷神社
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延喜式内社の一つで、常陸国鹿島神宮の祭神を勧請したといわれ、旧地は現在地より南の丘陵地の谷間の長谷にあったが、のち社殿の流出により正安年間(1299〜1301)現在地に移った。祭神は建御雷之男神と天児屋根命ほか11神。明治時代に桑部、金井、能部にあった多くの神社を合祀している。

小杉食品
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 昭和8年創業の納豆専業メーカー。カラフル納豆やチョコ納豆などユニークな商品開発が特徴で30種以上の納豆を作っている。玄関横の自動販売機で誰でも納豆を買うことができる。
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員弁川水管橋
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 木曽川水系の水を弥富揚水場から四日市市の山村浄水場まで送る北伊勢工業用水の水管橋で全長230m、幅2.2m、直径1.8mの太い水道管が員弁川の上をサイフォンの原理で渡っている。

第31回地図⇒31地図.pdf
Posted by 近藤 at 22:00
「第30回・北勢線の魅力を探る」の見どころ [2018年02月12日(Mon)]
 第30回北勢線の魅力を探る「藤原岳を望んで巡る里の春」を開催します。
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 開催日:2018年4月7日(日)
 集合:9:25、北勢線阿下喜駅
 参加費:300円(小学生以下100円)

 PDF版チラシは第30回チラシ 20180125.pdfをクリックしてください。

○石神社
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 中世、石川は『神鳳鈔』に「内宮石河御厨三石」、『外宮神領目録』に「外宮石河御厨六斗」とあるように伊勢神宮領であった。集落の北、下野尻との境にある石神社は誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)ら11柱の祭神をお祀りする。江戸時代は八幡宮と称して石川・東禅寺両村の氏神であった。延喜式神明町員弁郡10座の一つとされるが、式内石神社については、当社のほか飯倉の石神社説や下野尻の春日神社に比定されるなど諸説がある。
 境内のカゴノキは樹皮が丸い薄片になって点々とはげ落ち、その痕が鹿の子模様になるのでカゴノキと呼ばれた。さらに当て字で「火護の木」と書くことから「社殿を火から護る」という縁起を担いで植えられることもあった。

○妙宗寺
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 藤原山妙宗寺は浄土真宗本願寺派の寺で、文化8年(1811)10月、現京都市下京区に於いて僧知元によって創建された。明治15年(1882)光淳の時、県の許可を得て当地に移転した。本堂は明治13年(1880)、鐘堂は明治25年(1892)の建築である。

○春日神社
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 平安時代、文章博士であった長尾出身の春澄善縄(はるずみのよしただ)が命じて勧請したと伝える少彦名命(すくなひこなのみこと)を主祭神として相殿に天児屋根命(あめのこやねのみこと)など春日祭神4座と磐長姫命を祀る。
 古くは石神社・伊原里宮ともいい、祭礼の際に社頭に石を投げる投石神事があったが、応永12年(1405)に石投げの争いがあってから中止となった。当社の例祭に奉納される獅子舞は「狂乱牡丹の舞」と称され、今から300年ほど前、近江国から伝えられたといわれ、市の無形文化財に指定されている。

○瀬木の畑田井水
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 瀬木(せぎ)はもと阿下喜村の枝郷で、寛永17年(1640)に分離、村を立てた。『勢陽五鈴遺響』は村名の由来を「水崖ニシテ堰ノ義ヲ名トセリ」と記している。水に恵まれず耕作地のほとんどが畑地であったため、享保期(1716〜36)、庄屋の佐藤儀左衛門は用水を確保して田を開くことを思い立ち、桑名藩へ具申、許しを得て水路の開削に着手した。山・谷を穿つ難工事であったが、他村の応援を得るなどして員弁川からの取水に成功、井渠を流れる水は9町歩を水田とした。(現在、下流の向井水と合わせ利水面積は20町歩となった)
 村の北、山中に享保十九年四月二十七日、享年六十歳と刻まれた佐藤儀左衛門の遺徳碑が建っている。

○猪毛利谷神社
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 猪毛利谷(いもりたに)神社の祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)・伊香我色男命(いかがしこおのみこと)など8柱。『文政七年(1824)瀬木村明細帳』に「神祠に牛頭天王・山神」とあり、牛頭天王を村の氏神としてお祀りしていたが、のち猪名部造の祖神、伊香我色男命を、さらに明治41年(1908)山神社・八天宮を併せ祀ったものと考えられる。
 地元の伝承によれば、集落の川上7里の所を流れていた谷川「イモリ谷」に鎮座していた猪名部神社が、霖雨の時節に洪水に遭って流出し、この地に止まったので社を建立して氏神とし、明治になってもとの鎮座地を社名としたといわれている。なお、この洪水の時、猪名部神社銘が刻まれた鰐口が員弁川を流されて中上村・志知村の付近に流れ着いたとも伝えられている。

○桐林館
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 昭和59年(1984)に開館した桐林館(とうりんかん)は、地域の自然・教育に関する資料や文化財の保存・展示施設である。この場所は旧阿下喜小学校の跡地で、鳥坂野に新しい校舎が建設されるに当たって、昭和11年(1936)に建てられた旧校舎の玄関付近の一部を復元して残したものである。
Posted by カァーくん at 16:39
第29回 ぶらくわな 町屋御用水を巡る 下見 [2017年07月20日(Thu)]
第29回 チラシです。
第29回チラシ用.pdf

7月4日(火)第29回の下見をした。
今回のテーマは「町屋御用水」
桑名歴史の案内人、伊藤通敏さんから見どころを説明していただく。
 町屋御用水は寛永3年(1626)桑名藩主松平定行によって作られた上水道です。繁松新田の町屋川(員弁川)から取水し、自然の勾配に従って桑名城下南西の吉津屋御門まで開渠で通され、ここから先へは地中の樋管で城下へ配水していました。
全長約2Kmあり、全国で6番目に出来た水道です。この水道は明治37年に諸戸水道が開通するまで約280年もの間、桑名の町の人々の生活を支えてきました。
 今回は町屋御用水の痕跡を訪ねて、町屋川に残る取水口から終端の七里の渡し場跡までを歩きます。
○西別所駅集合
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○矢田揚水場
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 町屋川下流部左岸地域の農業用水の取り入れ口。現在ではかなり市街化されている桑名市北部の平坦地ですが其処此処にはいまだ農地が残っています。それらを潤す貴重な農業用水です。
○桑名市水道、町屋水源地跡
 昭和3年それまで使用されてきた諸戸水道に替わる水道施設として新たな水道の水源地がここに設置されました。町屋川の伏流水を汲み上げてポンプで上野の浄水場へ送られ、桑名町内へ配水されました。この水源地は昭和42年頃まで使われました。
○町屋御用水取水口
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 町屋御用水の取水口は直接川の表面水を水を取り入れる構造で、取水量を調節するための水門が設けられています。ここからコンクリート製の導水路で堤防と国道258線の下をくぐって創建時の町屋川左岸であったと思われる川成町地内に入ります。
○サンジルシ醸造工場
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 サンジルシ醸造は文化元年(1804)桑名潘の命により「みそ・しょうゆ醸造業」として現在の船場町に創業され、桑名の地場産業として発展してきました。昭和47年現在地に移転、この工場は昭和11年(1936)に東洋紡の製絨工場として開設されました。構内には会社の沿革を記した説明板と会社と郷土の発展に寄与した佐藤信之助氏の銅像が建っています。
本番は、祝日のため休業。残念ながら門の中に入ることはできません。
○御用水親水広場
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 町屋御用水は近鉄とJRの線路を暗渠で抜けると新地地内へ入り、広い道路の真ん中を流れます。護岸は石張りで整備され、ここに水面へ降りられるように階段が設けられ、親水広場になっています。壁面に御用水についての説明板が設けられています。
○新福橋
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 新地は正徳年間(1711〜16)に足軽屋敷として開発された土地で、東海道沿いの福江町から新地への出入りのために町屋御用水に橋が架けられました。新地の「新」と福江町の「福」を採って「新福橋」と名付けられました。
○水車跡
 江戸時代にこの付近に江間四郎左衛門という人が御用水の余剰水を使って水車屋を営んでいたという話が伝わっています。そのため桑名の人はこの付近を水車(みずぐるま)と呼んでいました。
○掛樋跡
 御用水は桑名城の外郭堀に架橋された掛樋(水道橋)で渡って城下へ入り、願證寺の西側を外郭堀に沿って北進していました。ここの町名は現在でも「掛樋」です。
○伝馬公園
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 江戸時代中頃まではここから北側にかけて願證寺という大きなお寺がありました。願證寺は元は長島にあって長島一向一揆の中心となったお寺でしたが織田信長に攻められ廃寺。のちここに再興。しかし高田派への改派について内紛があり再び廃寺となりました。

当日は、時間がかかりすぎるためコースに組み込みませんが、願本寺、天武天皇足洗井、楊柳寺、法盛寺、光明寺も回りました。

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○新橋跡
 桑名城の外郭堀には防備の関係から当初は城下西北の美濃方面への出入り口である三崎門橋と東海道筋南端の七曲見附の2箇所しか橋は架けられていませんでした。しかし城外の矢田磧や新地にも武家屋敷が設けられると、登城の便のため正徳年間(1711〜16)にこの場所に新たに3番目の橋が架けられました。
○吉津屋御門跡
 東海道が枡形に屈曲しており番所がありました。町屋御用水はこの付近から暗渠となって道路の下に潜ります。

この日は、暑くお腹も空いてきたのでお寿司屋さんでちらしランチを食べて、終了となりました。

後日、春日大社から七里の渡しまでを、一人で歩きました。
○春日神社
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 正式には桑名宋社と呼び、桑名神社(三崎明神)と中臣神社(春日明神)の両式内社からなります。古来から桑名の総鎮守です。境内に神供用として用いられてきた御前水井があり、市の民俗文化財に指定されています。この井戸の水は水質が良いので明治元年明治天皇が桑名に宿泊の際、御膳水として供されました。
○通り井跡
 下水道工事により東海道の真ん中に井戸の跡が見つかりました。この井戸から道路の下を流れる御用水を汲み上げていたようです。この付近で2箇所見つかっており、目印に「井」と彫った石が填め込まれています。
○七里の渡し場跡
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 東海道の江戸からの玄関口です。江戸時代はここから熱田まで海上七里を渡る船が出ていました。鳥居は伊勢国に入って最初の鳥居であることから「伊勢一の鳥居」と呼ばれ、伊勢神宮の遷宮毎に建て替えられます。町屋御用水はここが終端で、余水はここで揖斐川へ排水されていたと思われます。
Posted by 近藤 at 21:56
「第28回北勢線の魅力を探る」の見どころ [2017年02月18日(Sat)]
第28回北勢線の魅力を探る
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「春深し山里かけるナローゲーシ」
開催日:2017年4月9日(日)
集合:北勢線麻生田駅、9時20分
参加費:300円(小学生以下100円)
コース:健脚・約13キロ、麻生田駅→山郷小学校→大辻神社→梶清左衛門碑と神戸屋嘉助碑→落条池→馬冷池・茶屋跡→平野神社→教昌寺(昼食)→波羅神社→貝野神社→勝泉寺・解散→阿下喜駅(14:30頃)

1.山郷小学校
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 江戸時代、山郷地区は桑名藩の支配下にあって麻生田・其原・北中津原・南中津原・鼓・平野新田・大辻新田の各村に分かれていました。明治22年(1889)町村制が施行され、従来の村は大字となり「山郷村」が発足しました。村名の由来は、古代、員弁五郷の一つ「野摩(やま)郷」を踏襲したといわれています。
 明治8年(1875)其原道場を借りて「其原学校」が開校しました。校長は蛯原源吾(山郷小学校の校庭に「蛯原翁表徳碑」が立っています)、他に教員が一人でした。明治16年、現在の大辻新田に鼓の渡辺柳太郎から土地を借り、校舎2階を新築して「楚里学校」を開校しました。明治41年(1908)「山郷尋常高等小学校」、昭和16年(1941)「山郷村国民学校」と校名を改称し、昭和22年「山郷村立山郷小学校」となりました。

2.大辻神社
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 境内に立つ由緒に「御祭神は素戔嗚尊。寛政5年(1792)大辻新田が開墾され、波羅神社から分霊を勧請、以来この里の産土神なり」とあります。
 その昔、この地は大辻と称した原野で、鼓村・平野新田・北中津原村・南中津原・其原村・麻生田村の入会地となっていました。宝暦6年(1756)鼓村庄屋渡辺三郎右衛門は、南中津原村庄屋伊藤庄右衛門、北中津原村庄屋冨永直八と諮り、桑名伝馬町米屋三九郎に相談をかけ、藩主松平忠刻に願い出て開墾に着手しました。しかし、黒い埴土の土地で、水利の便がなく旱害にも遭って成果は上がらず、明和元年(1764)土地を領主へ返上しました。
 寛政5年(1793・なお、『員弁郡郷土資料』は文政6年(1823)とする)になって藩主から土地が渡辺三郎右衛門に下付され、その後は渡辺家によって溜池の増設、隧道の布設を進めて水田を開発すると共に民戸を移し、鼓村の波羅神社から分霊した素戔嗚尊を祀れ神社としました。
 大辻神社の夏祭に神饌として必ず供えられたものが、大辻畑で収穫した小麦で作った「うどん」です。現在も7月第2日曜日に「うどんまつり」が行われ、集落の皆さんは境内で神前にお供えしたうどんを会食しています。

3.梶清左衛門碑と神戸屋嘉助碑
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 平野新田の共同墓地の入口に自然石の2基の墓碑が建っています。向かって右の元禄15年(1702)9月に他界した「釈玄斎」は、石の側面に「当所開発」とあるように平野新田の開発に尽力した梶清左衛門の墓碑です。寛永13年(1636)中津原村を巡視していた藩主松平定綱から西野と称した原野の開発を庄屋の伊藤庄右衛門と共に庄屋宅に寄宿していた梶清左衛門が命じられ、開発責任者として悟入谷から水を引いて潅漑用水にするなど難工事の末、平野新田を開き初代の庄屋に任命されました。
 一方、左側の「神戸屋嘉助」は博徒穴太徳の子分で、慶応2年(1866)19歳で荒神山の決闘に参加、手傷を負うことなく退却し、のち穴太徳の跡目を継いで縄張りを広げました。明治9年(1876)11月、桑名江戸町で兄弟分の芳兵衛を刺殺したことから警察に追われて逃亡、しかし、大阪淀川沿いの渡船場で逮捕され、大矢知の監獄に収監されました。明治13年(1880)5月、収監中に発病したチョウマンで死亡しました。

4.落条溜
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 寛永13年(1636)梶清左衛門の指揮によって始められた平野新田の開墾は、2年目には桑畑ができるまでになりました。併せて潅漑用水として貝野悟入谷を水源とする水路工事が難渋しながら進められ、御殿鞆の畑地に稲を作る目鼻がつき、寛永19年(1642)藩主松平定綱が「平野新田」と命名して村を創設しました。その後も定綱は桑名の城から馬に乗って元屋敷東の高台に造営していた別荘を訪れ、開拓事業を視察し、田畑が造成されることを楽しみにしたと伝えられています。
 さらに南に向かって原野を開拓して造成した畑地を田にするため、天保12年(1841)御殿溜を改修して拡張し、弘化3年(1846)新溜を築き、嘉永2年(1849)大辻新田と水を折半して潅漑する落条溜を築き建てるなど溜池の築造を行い、水量が少なくなった字小辻マンボの延長、字笠間から字畑田に及ぶ治平畑マンボや六反マンボ、新マンボなどが新たに掘削されました。

5.茶屋跡・馬冷池
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 茶屋跡について、大正4年(1915)発行の『員弁郡郷土資料』は、茶屋跡として「平野新田字御殿にありて山の中腹なる稍高き丘陵に存し禿げたる平地あり、寛永年中松平定綱ここに茶席を営みたりという、現今この山を茶山と呼べり、此の地は一私人の宅地となれり。」と記しています。平野神社の南、伊勢湾を見渡すことのできる小高い丘陵の頂上に「桑名領主松平越中守定綱公旧跡、後年□山建築物賜施当所開発人加治清左衛門家」と刻んだ自然石の碑が建っています。
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 地元の人は馬冷池と書いて「うまあらいいけ」と呼んでいます。中津原村の庄屋伊藤庄右衛門と梶清左衛門に対して西野の開発を命じた松平定綱は寛永16年(1639)元屋敷の東の高台に別荘を建設して、以来桑名の城から馬に乗ってたびたびこの別荘に来て、開拓の進捗状況を視察して人々を励まし、次第に造成される田畑を見ることを楽しみにしたと伝えられています。この池は定綱一行の乗馬を洗った水場と伝えられ、新田開発の潅漑用水として開かれた悟入谷井水もこの池辺りへ最初に引かれたといわれています。

6.平野神社
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 主祭神は生前この地を愛した5代桑名藩主の松平定綱です。慶安4年(1641)定綱が他界し、後を継いだ子定良は、父がこの地に造営した別荘の中にその霊を祀り参詣しました。当時、定綱を平野新田開拓の祖と崇敬していた村民は、これを氏神として鎮守の宮とすることを領主に願い出て許され、御霊大明神と尊称して奉斎したのが当社の創始です。その後、領主からは代々祭祀料や供物つの供進があり、社殿の修復・再建に際しては金員も寄附されました。明治4年(1871)平野神社と改称し、同40年(1908)字茶山の走井社・山神社を合祀しました。境内入り口の大杉は「燈明杉」と呼ばれています。
 当地の人たちは桑名鎮国守国神社を崇敬し、現在も5月12・13日の例祭には区長や代参者が参拝していて、例年、2番目に玉串を奉奠しています。平成6年に社殿を建て替え、社務所を新築し、翌7年に手水舎を建立しました。この時、地元のW工務店が破格の安値で工事を請け負ってくれたことに感謝した地区30軒の人たちは、工事中、現場作業や用材の切り出し、製材など助力したということです。

7.教昌寺
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 光耀山教昌寺は浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来です。
 天正2年(1574)織田信長の長島侵攻により、長島住人の津坂氏は難を逃れて当地に移住しました。鼓の庄屋8代渡辺三野右衛門の庇護を受けて草庵を建て、ご本尊を安置して自ら看坊となりました。津坂氏逝去の後、三野右衛門は庄屋を息子の三郎右衛門に譲り、京都興正寺において得度して法名釈教昌を受け、津坂氏の後継の看坊となりました。その後、宇賀の正善寺で修行をしていた孫の恵海を自らの後継として迎え、さらに正善寺から義浄を迎えて石榑南の岩花氏から坊守を娶り、その子義祐が次代の看坊に就きました。天保11年(1840)真宗興正寺派から本願寺派に転派しました。弘化4年(1847)旧本堂を鍋坂説教城へ売却し、庄屋10代渡辺三郎右衛門の尽力によって現在の本堂を建立しました。
 表面に「慶長十二(1607)丁未十一月鋳之」とある本堂軒下に吊された高さ約40センチの喚鐘は、桑名の広瀬九郎兵衛によって造立され、また、鐘楼で休んでいる文政3年(1820)の梵鐘は太平洋戦争の金属供出の難に遭い、のち返されたもので、成分検査て削られた痛々しい傷跡が残されています。
 なお、4月9日は親鸞聖人の降誕祭、午後2時から本堂で法要が催されます。

8.波羅神社
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 祭神は素戔嗚尊・大山津見神・日本武尊の三柱、明治42年(1909)地区の山神社と八剣社を合祀しており、古くは牛頭天王神社と呼ばれていました。勧請年月は不明ながら、神前の狛犬に応永32(1425)とあり、また、明和3年(1766)「奉造立八剣大明神」、寛政元年(1789)「奉造立牛頭天王神社」の棟札などが残され、創建は古いものと思われます。
 『明治五年(1872)の村明細帳』に「神祠は波羅神社、八剣社、走井社、山の神」とあり、『員弁雑誌』に「牛頭天王社拝殿石鳥居在、産土神也、例祭9月2日、社地に山神の小祠あり、八剣大明神 昔大阪御陣の時庄右衛門という者、大阪より持ち帰り来たりて祀りしとぞ。初めは右の者一人持ちなりしが中頃より村持ちとなれり。然れども正月の鏡餅及び洗米は庄右衛門の家より供すと云う。弁財大社 村の東溜池の中島にあり」と記されています。
 大正元年(1912)9月の台風で倒木にあって本殿、拝殿が倒壊しましたが、大正4年に再建しました。平成8年10月に社務所を新築しました。

9.貝野神社
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 祭神は豊受大神、素戔嗚尊、応神天皇、稲倉魂命、大山祇命、火産霊命です。勧請年月は不詳ですが、古くから豊受大神を祀る社があり、相殿として素戔嗚尊を祀る中之社があって貝野中之社と呼ばれていました。明治40年(1907)八幡社、走井社、稲荷社、水上社、山神社3社を合祀しました。なお、八幡社は通称ツツジ原という所にあり、阿下喜城主片山信保が城の鬼門除けとして祀ったものといわれます。
 秋の大祭、10月10日に行われる「おみおく練り」は、神前に供えられ蒸した餅米と大豆を祭に参加する若者が練り固めた「おみおく」を詰めた俵を、裸で下帯、白足袋姿で赤と青のハチマキを締めた2組の青年達が担ぎ出して境内を練り歩き、参詣者が俵の中の「おみおく」を取り出そうともみ合う祭りです。これを食べると1年中無病息災、夏病みもしないといわれています。

10.勝泉寺
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 天皇山勝泉寺は真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来です。
 天平年中(729〜748)行基により東貝野に創建され、天野寺と称したと伝え、寛和年間(985〜987)花山天皇の勅願により伊勢5ヶ寺の一つとして西貝野に移転し、建立しました。しかし、永保2年(1082)原因不明の火災に罹って焼失、のち再建しましたが、永享12年(1440)雷火により焼失しました。
 応永年中(1394〜1427)国司北畠氏の家臣、一志郡木造氏は当村笹野に支城を築いていましたが、文明元年(1469)5代木造政宗の時、太田道灌に攻められ落城したため、政宗の次男は出家して当山に入り木造善勝と号しました。文明11年(1479)蓮如上人の回国の際に上人に帰依し、それまでの天台宗から浄土真宗に改宗しました。天正8年(1580)織田信長の兵火に遭って堂宇の全てを焼失しましたが、天正13年(1585)新しい境内を現在の岡山坂に求めて諸堂を建立、天皇山勝泉寺と改称しました。
 境内のしだれ桜は天保14年(1843)本堂の再建を祝って植樹されたもので、毎年4月初めに満開になります。
Posted by カァーくん at 16:06
「第28回・北勢線の魅力を探る」の下見 [2017年01月10日(Tue)]
 1月9日、この4月9日(日)に予定している「第28回・北勢線の魅力を探る」のコースの下見をしました。麻生田駅を出発して北上し、旧山郷村を縦断する行程で文字通り山里の春が満喫できるのではと思っています。しかし、この日、参加者から意見が百出して纏まらず、今月中にもう一度試歩を行ってコースを決めることになりました。

〇山郷小学校
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 明治8年(1875)其原道場を借りて「其原学校」を開校、校長は蛯原源吾(山郷小学校の校庭に「蛯原翁表徳碑」が建っている)、他に教員が一人でした。明治16年、現在の大辻新田に校舎2棟を新築して「楚里学校」を開校しました。明治41年(1908)「「山郷尋常小学校」、昭和16年(1941)「山郷村国民学校」と校名を改称し、昭和22年「山郷村立山郷小学校」となりました。

〇梶清左衛門碑と神戸屋嘉助碑
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 平野新田の共同墓地に2基の自然石の墓標があります。向かって左の「釈玄斎」は平野新田の開発に尽力して初代の庄屋に任命され、元禄15年(1702)9月に他界した梶清左衛門の墓碑です。また、右側の「神戸屋嘉助」は博徒穴太徳の子分で、荒神山の決闘に参加し、のち穴太徳の跡目を継ぎ縄張りを広げたが、兄弟分を刺殺したことから警察に追われ、大阪で逮捕されて大矢知の監獄に収監、明治13年(1880)、収監中に発病した病気で死亡しました。

〇馬冷池(うまあらいいけ)
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 中津原村の庄屋伊藤庄右衛門と梶清左衛門に対して西野の開発を命じた桑名藩主松平定綱は、寛永16年(1639)元屋敷の東の高台に別荘を建設して、以来桑名の城から馬に乗ってたびたびここへ来て、開拓の進捗状況を視察して造成される田畑を見ることを楽しみにしたと伝えられます。この池は定綱一行の乗馬を洗った水場といわれ、新田開発の潅漑用水として開かれた悟入谷井水もこの辺りへ最初に引かれたとも伝えられます。

〇茶屋跡
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 大正4年(1915)発行の『員弁郡郷土資料』に「茶席跡」として、「平野新田字御殿にありて山の中腹なる稍高き丘陵に存し禿げたる平地なり、嘉永年中松平定綱ここに茶席を営みたりという、現今この山を茶山と呼べり、此の地は一私人の宅地となれり。」とあります。平野神社の南、伊勢湾を見渡すことのできる小高い丘陵の頂上に「桑名領主松平越中守定綱公旧跡、後年□山建築物賜施当所開発認加治清左衛門家」と刻まれた自然石の碑が建っています。

〇平野神社
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 主祭神は生前この地を愛した桑名藩主の松平定綱です。慶安4年(1651)定綱が逝去、後を継いだ子定良は、父がこの地に造営した別荘の中にその霊を祀り参詣しました。当時、定綱を平野新田開発の祖として崇敬していた村民は、これを氏神として鎮守の宮とすることを領主に願い出て許され、御霊大明神と尊称して奉斎したのが当社の創始です。
 この日、神社の沿革をお話し頂いた地元の古川巌さんから、平成6年に神殿の建て替えをしたとき、地元のW工務店が破格の安値で工事を請け負ってくれたことに感謝した地区30軒の人たちが、用材の伐採や建築現場・製材などの作業に参加したことや、もとの茶屋跡は今より高い姿のよい小山であったが、堤防工事にこの山を削った土が使われて現在のようになったことなどを教えて頂きました。

〇教昌寺
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 光耀山教昌寺は浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来です。天正2年(1574)織田信長の長島侵攻の時、長島住人の津坂氏が難を逃れて当地に移住し、鼓の庄屋渡辺三野右衛門の庇護を受けて草庵を建て、本尊を安置して自ら看坊となったことを創始とし、のち庄屋を息子に譲った三野右衛門が京都興正寺で得度し、法名釈教昌を受けて看坊となりました。天保11年(1840)真宗興正寺派から本願寺派に転派しました。鐘楼には金属供出から戻された文政3年(1820)の梵鐘が置かれ、本堂軒下には「慶長十二年(1607)鋳之」の喚鐘が吊されています。
 当日、私たちを本堂に招じ入れられたご住職は、この喚鐘について記された昭和55年(1980)10月の新聞記事のコピーを配られて桑名の鋳物師が作った最古の釣り鐘であることや、寺の沿革とともに本堂の向って左側に安置された阿弥陀如来像が、津坂氏が長島から背負ってきた当寺の最初の本尊であることなどを話して頂きました。

〇波羅神社
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 祭神は素戔嗚尊・大山津見神・日本武尊の三柱です。勧請年は不詳ですが、明治42年(1909)地区の山神社と八剣社を合祀しており、古くは牛頭天王神社と呼ばれていました。『員弁雑誌』に「牛頭天皇社本社拝殿石鳥居在、産土神也、例祭9月2日、社地に山神の小祠あり。八剣大明神昔大坂御陣の時庄右衛門という者、大坂より持ち来たりて祀りしとぞ(後略)」とあります。

〇貝野神社
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 祭神は豊受大神・素戔嗚命・応神天皇・稻倉魂命・大山祇命・火産霊命です。勧請年は不詳ですが、古くから豊受大神を祀る社があり、相殿として素戔嗚命を祀る中之社があって貝野中之社と呼ばれていました。明治40年(1901)八幡社・走井社・稲荷社・水上社・山神社3社を合祀しました。秋の大祭に行われる「おみおく」は、神前に供えられた「おみおく」を詰めた俵を2組の青年達が担ぎ出して、境内を練り歩くと参詣者が俵の中の「おみおく」を取り出そうともみ合う祭りで、この「おみおく」を食べると1年間無病息災であると伝えられています。

〇寶林寺
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 悟入山寶林寺は臨済宗妙心寺派、本尊は如意輪観音菩薩です。永仁年間(1293〜98)この地で水田が開墾されたとき、不動明王を祀った堂宇が開かれました。万治3年(1660)尾張国稲沢村から招かれた虎願宗仇和尚によって阿下喜に見性寺が開山された際、当寺もその弟子を迎えて開山しました。境内の庭先に樹高20メートル以上のコウヨウザン(広葉杉)が屹立しています。枝先は下向きの弓状にしなった姿のよい巨樹で、この日も中部地方の巨樹を訪ねてみえる浜松のご夫婦が立ち寄られていました。

〇勝泉寺
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 天皇山勝泉寺は真宗大谷派、天平年中(729〜748)行基により東貝野に創建されたと伝え、寛和年間(985〜987)天皇寺として西貝野に移転しました。のち織田信長の侵攻により落城した一志郡の木造善勝が出家、入山して文明11年(1479)天台宗から浄土真宗に改宗しました。その後、この地に移転、再建して天皇山勝泉寺と改称しました。境内の枝垂れ桜は天保14年(1843)本堂の再建を祝って植樹されたもので、毎年4月初めに満開となります。

〇北勢ライディングファーム
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 北勢ライディングファームは会員制の乗馬クラブですが、引き馬コースや乗馬教室など初心者向きのコースも設けられています。馬場には障害レースの障害物も備えられていて練習風景がご覧になれます。
Posted by カァーくん at 16:00
第27回北勢線の魅力を探る 配布資料 [2016年10月18日(Tue)]
第27回地図27map.pdf
第27回見どころ27見どころ.pdf

Posted by 近藤 at 20:57
第27回北勢線の魅力を探るの下見 [2016年07月11日(Mon)]
 7月10日、10月23日(日)に開催予定の「第27回北勢線の魅力を探る」の下見をしました。今回のコースは東員町、穴太駅をスタートして東員駅を目指します。まず、穴太・瀬古泉の寺や神社を参詣し、員弁川を念仏橋で渡って中上・長深では多奈閇神社や大雲寺など初めて訪ねる寺社などに立ち寄りました。

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 神田神社は初め八幡神社を産土神として、左右に春日神社、八坂神社が相殿として礼拝されていました。のち近隣の神社を合祀し、明治44年(1911)筑紫の春日神社を合祀した際、旧穴太村など6か村が合併した村名にちなんで現在の社名に改称されました。拝殿は嘉永3年(1850)の建立です。

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 穴太薬師堂には平安時代中期の作と伝える、桧一木造りの薬師如来坐像(三重県有形文化財指定)が安置されています。この地の南にあった七堂伽藍の大寺に祀られていたものを、江戸時代に移されたと伝えられています。

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 冤罪で放火犯にされた茂平が瀬古泉で火刑に処される日、桑名で真犯人が捕まった。大慌てで処刑の中止を伝えに来た役人が、藤川の袂で刑場の方から黒い煙が上がっているのを見て、刑場まで行かずに引き返したことからこの橋のことを「途中橋」と呼ぶようになりました。

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 昔、この地にあった大きな榎の根元に「白龍さん」の化身である白蛇が住んでいて、草一本とっても祟りがあると伝えられていました。ある時、迷信だからといって枝を払った人が病を得て苦しんだりしたので、丁重にお経を上げて貰って回復することが出来ました。それ以来社殿を建て「白峰龍神」として崇められています。

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 多井寺は古くは伊勢巡礼第29番札所のお寺ですが、現在は無住となって地区の方たちによってお守りされています。鎌倉時代初期、藤原実重が頻繁に奉加料や講料を寄進した記録が残されています。かつては薬師堂の辺りを地家と呼んでいる穴太にあったようで、本尊は行基作と伝える千手観世音菩薩です。

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 福泉寺は浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如生です。寺の創建はよく分かりませんが、滝川一益との戦で敗死した山田城主青木安豊の子孫が堂守をしていた笹尾堂が始まりと伝え、寛文10年(1670)付の本尊木仏のお札が残され、其の時、寺号公称を許されています。第8世恵教は布教師として功績があり、それを称える記念碑が境内にあります。

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 瀬古泉神社の中心となる社は須佐之男命を祀る八坂神社で、相殿は天照大神を祀る和泉御厨神明社です。明治41年(1908)瀬古村の山の神と天満宮、泉村の山の神と牛頭天王を合祀して瀬古泉神社と改称しました。

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 遍崇寺は真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来です。開基は古く天平年中(729〜749)行基によると伝え、もとは天台宗でした。明応年間(1492〜1500)花戸に要塞を構え、この地を支配していた坂太郎左衛門は戦に敗れ、当時、この地を布教していた蓮如の教えに帰依して本山に参詣、阿弥陀如来の絵像を拝領して帰郷、一宇を建立して遍崇寺と名付けました。境内の経蔵には明治20年(1887)頃、第10世住職の花山大安師が研究資料として購入した明版大蔵経が所蔵されています。

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 多奈閇神社(久米神社)の主祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)、神武天皇東征の時には伊勢津彦を追って伊勢国を平定し、伊勢国造となったといわれています。延喜式神名帳に「伊勢国員弁郡十座の内、多奈閇神社」とありますが、北勢町大字田辺に鎮座する同名の神社と何れとも決定されていません。なお、明治42年(1909)に旧久米村の3社を合祀(のち分祀)して翌年に久米神社と改称しています。

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 大雲寺は浄土真宗高田派、本尊は阿弥陀如来です。観応年中(1350〜52)国司太山高安の子で、京都東福寺で修行していた高吉が帰郷して南妻院を開山しました。滝川一益の戦火で当山も焼失、その時、本尊の救出が遅れたが、尊像は火中から飛び出して榎の枝に難を逃れたと伝えられています。寛永12年(1635)桑名に入封した松平定綱は本尊を参拝し、大運寺(のち大雲寺に改名)と命名して寺領を免許しました。

 今回は大雲寺で解散し、以下の方法でお帰り頂きます。
1.三岐鉄道の北西中央公園駅から三岐線に乗車して帰路につく。
2.イオンタウン東員まで歩いて、東員駅まで三岐バスに乗車する。
3.スタッフと共に東員駅まで歩く。
 お疲れ具合で、いずれかの方法を選んでお帰り下さい。

Posted by カァーくん at 20:27
第26回・北勢線の魅力を探るの見どころ [2016年03月08日(Tue)]
 4月30日(土)、第26回・北勢線の魅力を探る「ふじ香る東海道を朝日まで」を開催します。集合は北勢線の馬道駅8時50分、馬道・新地を経て大福から東海道を歩いて藤棚で有名な安永の「すし清」で藤を観賞、町屋橋を渡って朝日町の縄生・小向まで約6キロの街道歩きです。

〇有王塚・俊寛塚
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 京都鹿ヶ谷で行った平家討伐の謀議が平清盛に洩れて鬼界が島に流罪となり、島で没した俊寛僧都の遺骨を高野山に納めるために諸国を行脚していた侍童有王は、当時、走井山近くにあったリン(漢字は舟偏に侖)宗寺の前で落命したと伝えられ、ここに有王の供養塚があります。また、益生駅の南西に俊寛僧都の遺骨を埋めたと伝える塚が建てられています。

〇町屋御用水
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 古来、木曽三川の泥砂が堆積して発展した桑名は、水質が悪く飲み水に苦労しました。寛永3年(1626)町屋川から取水した上水道、町屋御用水が建設されました。水源から途中までは地上に水路を設け、町中では地中に埋めた水道管によって各所の水汲み井戸に貯められ、生活用水として提供されていました。現在も農業用水として活用されています。

〇了順寺
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 浄土真宗本願寺派。永禄10年(1567)織田信長の軍勢に敗れた桑部城主毛利秀重の孫秀元が出家、のち准如聖人に帰依し、法名恵秀と改めて開基しました。本堂は明治35年(1902)に再建されたもので、山門は桑名城の遺物と伝えられ、また、重層袴腰付の立派な鐘楼があります。

〇城南神社
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 古くは神明宮と称されていましたが、明治41年(1908)旧城南村各大字にあった神社を合祀して城南神社と改称しました。伊勢神宮の遷宮の時、内宮の一の鳥居、古殿社の一部を下賜されています。昭和30年(1955)合祀された各社は旧社地に分祀されました。

〇桑名まちかど博物館
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・久波奈新撰館:館長作の現在アートの他、古今東西の古美術、鋳物工芸品が展示されています。
・ろっ石陶芸館:館長が蒐集された古萬古・有節萬古・有田焼・常滑焼をはじめ、館長ご自身の作品が展示されています。

〇晴雲寺
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 真宗大谷派。大永2年(1522)桑名東城主伊藤武左衛門の一族、明西が出家して開基しました。江戸時代、関東へ向かう大名はここで衣服を改めて桑名城下に入ったといわれています。本堂は明治27年(1894)、経蔵は大正7年(1918)、鐘楼は昭和9年(1934)に建立されました。

〇すし清
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 東海道に面した安永は町屋川の舟運の船着場でもあり、多くの茶店もありました。料理旅館「すし清」は安政3年(1856)に茶店として創業しました。樹齢250年以上といわれる藤のの木は、現在も美しい花を咲かせています。
 向かいの伊勢両宮常夜燈は、文政元年(1818)桑名や岐阜の材木屋の寄進によって建立されました。

〇金光寺
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 もと天台宗、その後真言宗になりました。延宝元年(1672)公民館縄生分館辺りに十一面観音像を祀った小堂が建てられ、寛政年間(1789〜1800)現在地に移転しました。明治3年(1870)住職浄海が亡くなってのちは無住になりました。

〇真光寺
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 浄土真宗本願寺派。大同2年(807)最澄が天神山の西北、お坊ヶ谷に天台精舎を建立したのが始まりと伝えられ、のち興国元年(1340)本願寺覚如上人の教化を受けて浄土真宗に改宗しました。明暦3年(1657)有馬温泉からの帰途に病死し、町屋川の洪水で足止めとなった桑名藩主松平定良の遺体を3日間安置しました。本堂前の手水鉢は松平定重から、鐘楼堂は松平定賢から返礼として拝領したものです。

〇朝日町まちかど博物館
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・安達微笑仏館:館長自作の円空仏・木喰彫を中心とした仏像を展示しています。2年間をかけて制作された十一面千手観音像は必見です。
・若松園:「汐見」が名物の和菓子屋さんで、和菓子作りに使用された道具が展示されています。

〇朝日町資料館
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 大正5年(1916)朝日町役場として建設され、昭和39年(1964)新庁舎が完成後、朝日町公民館に転用、昭和53年(1978)に朝日町資料館として開館しました。寄せ棟造瓦葺木造二階建、1階に事務関係の諸室を、2階に議場を設ける地方の役場建築がよく残り、平成12年3月に国の登録文化財に登録されました。

〇朝日小学校の円形校舎
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 日本各地で円形校舎を設計した坂本鹿名夫の設計で、昭和37年(1962)に建設された鉄筋コンクリート造り四階建ての校舎です。1階から3階が円形ホールと職員室・特別教室、4階が講堂兼体育館となっています。普通教室は矩形型の校舎を設けて、児童数の増減に対応しています。

〇西光寺
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 真宗大谷派。寺に残る絵像本尊の裏書きから明応5年(1496)をもって開基とし、その後、貞享2年(1685)大谷派に転じました。本堂軒下の半鐘は、安永6年(1777)桑名広瀬九郎兵衛道次の作です。

〇朝日町歴史博物館
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 昭和61年(1986)に発掘調査され、唐三彩椀を伴う舎利容器が出土した縄生廃寺の三重塔模型や倒壊した屋根瓦がレプリカで展示されています。江戸時代の国学者橘守部、萬古焼中興の祖森有節や明治〜大正時代の日本画家栗田真秀・水谷立仙、俳人中村古松など朝日町にゆかりのある歴史・文化を一堂に集めて展示・解説しています。
Posted by カァーくん at 09:53
「第13回北勢線の魅力を探る」マップ作り 後半 [2016年01月16日(Sat)]
3人が帰ったあと、4人で調査を続ける。
遍宗寺本堂と経蔵
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三狐川沿いにある藤谷村長胸像
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ちょうど中上の水谷仁士さんが、トラクターで通りかかり、農作業を注視してここから案内していただく。
中上(花戸)城跡
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松本家の墓
松本幸四郎は東員町の出身で、現松本幸四郎もこの松本家の墓に訪れた。この関係で、東員町で子供歌舞伎を行っている。
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瑞応寺
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住職が在宅で、本堂を開けていただく。
千手観音像
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開祖像
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2代目景清松
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瑞応寺を後にして、昔の八風街道脇道をたどると、ここから善正寺を望むと周りの家の連なりがまるで城下町のように見えるというお勧めのスポットを教えていただいた。
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善正寺(長深城跡)
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この後、イオンモール東員を経て東員駅に向かうのであるが、途中寄り道して、鳥羽海の墓に寄る。
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三狐川で水谷仁士さんと別れて、時間が押してきたので途中の歌舞伎公園はスルーして東員駅に急ぐ。
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東員駅についたのは、5時半、あたりはすでに暗くなっていた。160111-173031.jpg


Posted by 近藤 at 22:33
「第13回・北勢線の魅力を探る」マップ作り [2016年01月13日(Wed)]
 1月11日、2009年9月に開催した「第13回・北勢線の魅力を探る」の地図作りの現地調査を行いました。員弁川の右岸を桑名市から東員町にかけて設けられた「タケル遊歩道」を歩くコースで、この日もコースから外れて丘の頂上に標柱が残る神社の跡地を見に行ったり、戦国時代の城跡では枯れ葉に足を取られたり、神社の灯籠や寺の梵鐘の造立年などを必死になって読み取ったりと念を入れて歩きましたので、ゴールの東員駅には本番の時より2時間半ほど遅く、5時半過ぎに到着したということです。筆者は夕方からの別の行事に参加するため、コースの半ばで帰りましたので、今回の報告も調査に参加した前半分のみとなります。
 なお、コースの詳細につきましては「第13回北勢線の魅力を探る・報告書」をご覧下さい。
 https://blog.canpan.info/hokuseisenn/img/13takeru.pdf

郡竹治郎墓
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 郡竹治郎は久米村(眼桑名市)坂井の人で、土建業を営んでいました。北勢鉄道の「めがね橋」と「ねじり橋」の工事を請け負い、大正5年(1916)に完成しました。楚原駅と麻生田駅の間にある両橋は、ともにコンクリートブロックを積み上げて作られており、特に江戸時代に作られた農業用水ー六把野井水ーに架かり、用水が橋に対して斜めに交差するため、ブロックがねじれたように積まれている「ねじり橋(正式名称は六把野井水拱橋)」は、非常に珍しい橋です。

島田城跡
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 島田兵庫助が居城していたが、永禄11年(1568)織田信長勢により滅ぼされました。現在ではゼニス羽田株式会社の敷地の一部になっており、郭や土塁らしきものが残されています。

善教寺
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 浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来です。弘仁年間(810〜824)空海の開基と伝え、真言宗でしたが、応仁元年(1467)隆教のとき、蓮如の巡教により改宗して真宗になりました。はじめは長島願証寺の末寺で、天正年中(1573〜92)長島一揆に加勢し、糧米を寄進するなど大いに力を尽くしましたが、正徳5年(1715)願証寺が高田派に転派したときに従わず、本派に直属となりました。なお、野村増右衛門の持仏と伝える阿弥陀如来像が内仏として祀られています。

野村増右衛門墓
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 野村増右衛門は島田に生まれ、郡代の手代という軽い身分から、次第に重用されました。河川改修工事や新田の開発など多大な功績を挙げましたが、宝永7年(1710)藩の公金を横領した罪に問われ死刑となりました。この事件により藩主松平定重は越後高田(現新潟県上越市)に国替えを命ぜられましたが、文政6年(1823)定重の子孫定永が再び桑名に国替えとなると増右衛門の罪は許されました。文化6年(1809)に最勝寺(桑名市萱町)境内に建立された増右衛門の墓は、昭和31年(1956)に島田自治会有志によって島田に移され、昭和45年(1970)には現在の場所に移されました。

櫛田神社
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 主祭神は櫛稲田比売、相殿に天白神・牛頭天王・蔵王権現が祀られています。『延喜式』にある「神名帳」の朝明郡に櫛田神社が記載されており、古くは朝明郡に鎮座していたと思われます。明治43年(1810)平群神社に合祀されましたが、昭和26年(1951)もとの地である現在地に戻されました。なお、竿石に「寶永弐乙酉年十一月吉日」と刻まれた本殿前の灯籠は、野村増右衛門が寄進したといわれています。

大日堂
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 野村増右衛門の稔侍仏と称される大日如来像を安置しています。もとは善教寺南の丘陵上にありましたが、集落の中を通る往還脇に堂を新築し、移転しました。野村増右衛門が善教寺に寄進したという前卓がここに保管されていて、その裏面には以下のように記されています。
「勢陽員弁郡嶋田邑善教寺荘厳□具為 覺幻童子菩提所□□□費皆出桑城之 武臣 野村氏吉□公 寶永(以下不明)」

平群神社
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 『延喜式』の員弁郡十座の一つで、大和国からこの地に移住した平群氏族の始祖である木菟宿禰(ずくすくね、武内宿禰の三男)が祭神です。日本武尊が伊吹山から大和への帰途、足を止めた地と言われ、明治26年(1893)氏子たちが境内に日本武尊の歌「いのちのまたけむ人は たたみこもへくりの山のくまかし葉を うすにさせその子」を刻んだ旧跡碑を建立しました。後方の山は神奈備山といわれ、山全体がご神体とされる原始的な信仰の対象と言われています。平群池は平成10年「平群沢ため池公園」として整備され、平成22年、その東南隅にヤマトタケル像を建立しました。

遍崇寺
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 遍崇寺の本尊は阿弥陀如来、浄土真宗大谷派です。明応年間(1492〜1500)花戸に砦を構えていた坂太郎左衛門は敗戦ののち、剃髪して仏門に入り、蓮如の教えに帰依して遍崇寺を創建しました。現在の本堂は明治11年(1878)に上棟し、同15年に落慶しました。境内の経蔵には「大蔵経(だいぞうきょう、一切経ともいう)」が所蔵されています。この経典は当山第10世住職の花山大安が研究資料として求めた貴重なもので、大切に保存されています。花山大安は元治元年(1864)当寺に生まれ、明治21年(1888)住職に就任、明治29年真宗京都中学校教授となり、同44年に大谷大学教授となりました。昭和11年(1936)73歳をもって遷化されました。

 私はここから穴太駅に向かうため、その後も調査歩きをしたスタッフと別れて帰りました。
Posted by カァーくん at 15:24
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