明治23年(1890)12月、東海道線とは別ルートで名古屋と京都・大阪を結ぶ鉄道建設を目的に設立された関西鉄道によって草津〜四日市間が開通しました。途中、鈴鹿山脈を控え急峻な地形の加太地区は加太川の谷間に沿って隧道や橋が連続する難工事となりました。当時建設された隧道や橋梁は、現在もJR関西本線の鉄道施設として使用されています。
3月20日、「北勢線の魅力を探る会」のメンバー8人は、この鉄道遺産の景観を維持・伝承して地域の活性化と魅力ある町づくりにつなげる活動をしている「加太鉄道遺産研究会」の坂代表と関町まちなみ文化財室の稲冨主査に案内して頂きまして、煉瓦や石造りの隧道や橋梁を訪ねました。途中、亀山市林業総合センターで昼食後、お互いの活動を紹介するなど交流会も行われました。
以下の鉄道遺産の説明は、加太駅に掲示の「加太地区の鉄道遺産」に記載されていた稲冨主査が執筆された解説を拝借しました。
〇ランプ小屋(らんぷごや)
柘植駅は関西本線と草津線の接続駅で、明治23年(1890)当時の関西鉄道として開業され、三重県で最初に設けられた鉄道の駅です。駅舎の西側に開業当時に建てられたランプ小屋が残っています。ランプ小屋とは危険品庫のことで、鉄道の客車や駅舎、保線用に使われた照明用ランプや燃料等を収納していた倉庫のことです。危険物を保管することから堅牢な煉瓦造りになっています。
〇鳥谷川橋梁(とりたにがわきょうりょう)
鳥谷川橋梁は鉄道線路と下を流れる川が斜めに交差しているため、「ねじりまんぼ」と呼ばれるアーチの所を煉瓦を斜めにねじって積まれています。なお「ねじりまんぼ」とは通称で、正しくは斜拱渠(しゃきょうきょ)といい、拱渠とは築堤が道路や川を跨ぐトンネルのことで、斜めにねじるために使用されている煉瓦は「捩煉瓦」が使用されています。
〇加太隧道(かぶとずいどう)
関西本線最長の隧道で延長929.6mです。蒸気機関車が柘植方面に牽引する列車は、上り勾配と気流の関係によって排煙が列車にまとわりつくため、加太側の坑門では最後尾が隧道に入ると緞帳のような「隧道幕」が降ろされました。現在も昇降装置や保線係員が常駐した詰所跡が残っています。
〇加太隧道竪坑跡(かぶとずいどうたてこうあと)
伊賀市柘植町地内に加太隧道真上の杉林に位置する約7m×約4.5mのコンクリート構造物です。加太隧道は明治22年(1889)に鉄道隧道として日本で初めて竪坑工法を用いて建設されました。深さ約30mの竪坑を覆う蓋で、鉄道隧道用竪坑の発祥地であることを伝えています。近くにある煉瓦造りの建造物について、稲冨主査は「排煙口の跡との説もありますが、煉瓦の焼成窯跡だと思います。」と説明されました。
〇大和街道架道橋(やまとかいどうかどうきょう)
径間長4.5m。笠石と帯石を「こぶ出し」、アーチの要石、迫り石及び隅石を「江戸切り」とに使い分けています。笠石の下部は煉瓦を交互に突出させる「ディンテル」で彩り、胸壁に石造の扁額(揮毫なし)を掲げるなど重厚な意匠が、当時の大和街道の往来の多さを物語っています。
〇高堤防(たかていぼう)
加太〜柘植間は加太隧道を頂点として鈴鹿山脈を急勾配で越える難所加太越えです。「高堤防」と呼ばれる大規模な盛り土の上は、昭和40年(1965)代の蒸気機関車撮影の聖地となり、蒸気機関車が煙と蒸気を吹き上げて、山々にドラフト音を響かせる勇姿は多くの鉄道ファンを魅了しました。
〇大崖川橋梁(おおがけがわきょうりょう)
大和街道架道橋から柘植側へ150m程の「高堤防」真下に位置します。坑門及び側壁を整層切石積みとし、坑内のアーチ部分は長手積みの煉瓦造りです。坑門は迫持石・迫石・要石を備えた本格的な意匠です。径間7.6m(25フィート)の半円アーチは複線型断面隧道に匹敵する規模です。
〇第165号架道橋(だい165ごうかどうきょう)
径間2.5m。笠石を「雁木」で彩り、フランス積みの胸壁には赤レンガとやや色の濃い焼過煉瓦を交互に配して「ポリクロミー」と呼ばれる模様を描いています。アーチ最上部に焼過煉瓦を用いて楔状に要石を表現し、腰部を隅石でコントラストを付けるなど装飾性が高く、小型の架道橋ですが見どころに富んでいます。
〇板屋川橋梁(いたやがわきょうりょう)
鋼製2連桁橋。橋長35.4m。加太側に40フィート級、柘植側に70フィート級の橋桁が深い谷に架けられています。橋脚は石材を「こぶ出し」に仕上げ、五角形断面の上に長方形断面を載せて「江戸切り」の帯石で引き締め、イギリス積みの煉瓦を立ち上げています。重厚な姿が加太地区の河川景観を調えています。
〇屋渕川橋梁(やぶちがわきょうりょう)
加太地区最長の橋長59.7mを測る鋼製3連桁橋。最も柘植側の鈑桁は取り付けられた銘板から、大正13年(1924)に大阪鐵工所(現在の日立造船)により八幡製鉄所の鉄材を用いて製造されたことが分かります。開業から約35年後、車両の大型化などにより、さらに強度の高い鈑桁に取り替えられました。
〇猪元橋(いのもとばし)
加太川の北側に線路を敷設するにあたり、大和街道を対岸に付け替えるために建設されました。鉄道用橋脚に準じたイギリス積みの煉瓦造りになり、石材で隅部を強固に仕上げるとともに外観を引き締めています。水面近くの石材に連続して開けられた穴は、かつて橋桁を支えていた頬杖の接合個所です。
〇加太駅本屋(かぶとえきほんおく)
加太駅は鉄道開業から約6年後の明治29年(1896)9月29日に営業を開始しました。昭和11年11月に建築された本屋は木造平屋建、切妻造瓦屋根。プラットホーム側にスレート葺の下屋を付ける。事務所の西側を待合室とし、駅務用の窓口や改札口など、標準的な小停車場本屋の平面が良好に残されています。
〇市場川橋梁(いちばがわきょうりょう)
径間3.7m。開口部の煉瓦はイギリス積みとし、小規模ながら煉瓦造独特のマッシブ外観になっています。腰部とアーチの境界の起拱継目(スプリングライン)は、煉瓦を斜めにおいて凹凸を付けた「雁木」と呼ばれる装飾帯としています。後補の鉄筋コンクリート造通路とともに、地域の生活に溶け込んでいます。
〇坊谷隧道(ぼうだにずいどう)
延長163.0m。関側及び加太側いずれの坑門も要石付の馬蹄形断面アーチの両脇に壁柱を立ち上げ、重厚な外観になっています。地質は非常に堅い花崗岩で、建設工事の際には一昼夜で30p程しか掘削できず、火薬を著しく消費しました。開業間際の明治23年(1890)11月に1年1ヶ月を費やして完成しました。