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「第11回・北勢線の魅力を探る」マップ作り [2015年10月01日(Thu)]
 2008年9月15日に開催しました第11回・北勢線の魅力を探る「竹林・古刹から世界一の踏切を渡って旧京橋駅へ」のマップを作るための調査をしました。

〇上野御膳水
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 上野御膳水は北側の丘陵からわき出る水を導いたもので、江戸時代には城下の地下水が悪かったため、藩主の飲料水はここから毎日運んでいました。上野村の旧家加藤家に伝わる話では、当時、御膳水には小屋が設けられており、その鍵は加藤家の当主が預かっていたといいます。地元上野では「御膳水は夏に冷たく、冬は暖かい」といわれていますが、古くから親しまれた名水も丘陵上は開発され、現在は水質検査も行われていないので飲まないように注意してください。

〇根上がり松
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 上野神社の背後の丘陵頂上には赤松と黒松が林立していました。その東端とやや西寄り中央の大きな黒松は太い根の分枝が地上に現れ、「上野の根上がり松」といわれていました。桑名藩士の渡部平太夫が著した『桑名日記』にも「太夫村へ上がり、冨士浅間、お手植えの松のところへ出る。お手植えの松に腰掛け、知多郡、伊勢朝熊山かすかに見え、小舟数知れず見え、おばば初めてここの来ましたと喜ぶ(天保12年4月15日付)」とあるように、ここは員弁川の流れを眼下に、また、遠く伊勢湾も眺望される景勝の地で、丘陵には多くの人が訪れました。現在、全ての松は枯れ死して跡地には祀られていて「天狗大神」や「山の神」などの石碑が小祠に安置されています。

〇井坂山冷水庵
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 冷水庵は曹洞宗の寺院で海蔵寺の末寺です。明暦2年(1656)2月に加藤茂右衛門が土地を寄進し、庵を建てたことに始まります。現在の本堂は文化13年(1816)に建てられたもので、その後、明治20年(1887)に本堂の屋根を葺き替え、昭和46年(1971)に庫裏を再建、翌年に本堂の屋根を葺き替えました。本尊は虚空蔵菩薩像は空海の作と伝わり、もとは美濃国高賀山(現岐阜県郡上市)にあったものを今一色の田村家の祖である白泉庵満空が享保12年(1727)に安置したものです。境内墓地には亀趺と呼ばれる亀に乗った墓があります。桑名藩校進修館の副教を勤めた佐父理希亮(さぶりまれすけ)の墓で、隣には妻柔の墓もあります。

〇太夫の大楠
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 太夫の大楠は幹周り約10.8m、樹高が約27mあり、地上60pのところから2本の幹に分かれていて、市の天然記念物に指定されています。この木は天正年間(1573〜92)に敵に追われ、楠の大木に隠れて一命をとりとめた三河の武士の母親が、のちにその大木が枯れてしまったのを聞いてお礼に植えたものと前の説明板にあります。天正年間に植えられたとすれば樹齢は400年を超える古木で、今はしめ縄をはって大切に守られています。

〇増田神社
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 増田神社の社殿は、雨天でも神楽が奉納できるように大きな覆屋で覆われているのが特徴です。この神社はもとこの丘陵の下にあった立坂神社の末社で、太夫村氏神の八幡社境内の別宮でした。明治末の神社合祀令により隣村の神社の八幡社とともに移されることになり、当時12家の神楽職たちは困惑し、代表者の山本源太夫家敷地内の山祗社に併設したものです。当社に伝わる伊勢太神楽(国指定重要民俗文化財)は、伊勢大神楽講社を神社に置き、所属6家が毎年12月24日に奉納し、元旦より各地を巡歴して清め祓いを行い、神楽を奏しています。

〇西桑名神社
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 西桑名神社は、戦国時代にこの地西の山上にあった西方城主加藤勘助が八幡宮として祀っていたとされる神社で、天正年中(1573〜92)、織田信長の兵火で焼失した海善寺が再興後、寺の修験僧が再び八幡社に奉仕したとも伝えられています。明治41年(1908)、太夫の八幡社を合祀して南大山田神社と称し、のち昭和9年(1934)に西桑名神社と改称されました。

〇高塚山古墳
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 高塚山古墳は全長約56mの桑員地区最大の前方後円墳で、平成16年の調査で盾型や朝顔型、円筒埴輪などが発見されています。築造時期は埴輪の様式などから4世紀後半と推定されます。墳頂には88.6mの水準点があり、桑名の町のどこからでも見ることができる高い場所に築かれています。築造当寺は尾張方面からも望むことができたとも思われ、木曽山川を見下ろすような位置にあることから、被葬者は当時この地方を支配した桑名首(くわなおびと)の墳墓ではないかといわれています。現在、古墳は私有地となっており、勝手に立ち入ることができません。

〇式部泉
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 竹林の道を足下に注意しながら進むと、左に入る脇道があって、奥に周囲100mほどの小さな池があります。この池は和泉式部の硯の水と伝える竹林の中の渓流「式部泉」の水源となっています。和泉式部は平安時代中期の女流歌人で、歌にまつわる多くの説話が伝えられていて、式部の生誕地や墓といわれる所、さらに足を止めたと伝える場所は全国に数多くあります。

〇聖衆寺
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 真言宗の聖衆寺は、神仏習合の名残か本堂にしめ縄が張ってあります。建仁4年(1204)の創建で、当時は43の僧坊を持つ巨刹であったといわれていますが、織田信長の北勢侵攻で全て焼かれました。その後、江戸時代中期に岡本信行という僧が再興したのが今のお寺です。信行は瓦師の出身で、瓦焼きの阿弥陀如来坐像を作りました。そのため寺は「土仏さん」といわれ親しまれています。現在、その仏像は阿弥陀堂の中に安置されています。阿弥陀堂の裏には不動明王を祀る洞窟があり、また、急な階段を上った奥の院には天狗を祀る秋葉堂があります。

〇三崎踏切
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 「三崎踏切」の名称は北勢線の魅力を探る会が便宜的に用いているもので、正式には鉄道会社ごとの名称があり、近鉄では益生第4号踏切、IR東海では桑名駅構内踏切、三岐鉄道では西桑名第2号踏切と名付けられています。線路幅は、近鉄が1,435oの標準軌、JR東海が1,067oの狭軌、北勢線が762oの特殊狭軌(ナローゲージ)とそれぞれ異なっており、3種類の線路幅が並ぶ日本唯一の踏切となっています。

〇西桑名駅から桑名京橋駅跡へ
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 西桑名駅は北勢鉄道が開通した大正3年(1914)4月に大山田駅として開業しました。翌年8月に桑名町(のち桑名京橋と改称)が開業しましたが、昭和36年(1961)11月に国道1号線を横断する桑名京橋・西桑名間は廃線されました。廃止となった桑名京橋駅までの路線は、西桑名駅手前から大きく弧を描いて寿町の街区を斜めに横切っていて、今では三重交通の駐車場などに斜めの路線跡として残っています。国道1号線もやや斜めに渡り、桑名東医療センター南脇を通って、その先をカーブしながら市民会館北側の道路へ渡っていました。常盤町の桑名市総合福祉会館を過ぎたところが桑名京橋駅の跡でしたが、現在は駅跡や路線跡を残すようなものは見当たりません。

〇本統寺
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 桑名の人から「ごぼさん」と呼ばれる桑名別院本統寺は、一向一揆の際の浄土真宗の拠点として始まり、その後、寺号が許されました。住職は京都の本山(東本願寺)から来られたので、格式は高く、塀には5本線が入っています。寛文5年(1655)に焼失して、その後に八つ棟造りの本堂が桑名の富豪、山田家によって寄進され、徳川家茂や明治天皇も宿泊された由緒ある寺です。しかし、昭和20年(1945)の戦災で全部焼失し、現在の本堂は昭和25年(1950)に再建されたものです。平成13年、屋根瓦の吹き替えや奥書院の新築などが行われました。
 境内には松尾芭蕉の「冬牡丹 千鳥よ 雪のほととぎす」の句碑があります。当寺の住職も俳句をたしなみ、芭蕉は一夜をここで泊まっています。境内の親鸞聖人銅像は、昭和13年(1938)、大阪で金属商社を営んでいた桑名出身の広瀬精一が寄進したもので、彼は同じ銅像を10基作り、各地に寄進しています。
Posted by カァーくん at 14:13
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