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「第28回北勢線の魅力を探る」の見どころ [2017年02月18日(Sat)]
第28回北勢線の魅力を探る
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「春深し山里かけるナローゲーシ」
開催日:2017年4月9日(日)
集合:北勢線麻生田駅、9時20分
参加費:300円(小学生以下100円)
コース:健脚・約13キロ、麻生田駅→山郷小学校→大辻神社→梶清左衛門碑と神戸屋嘉助碑→落条池→馬冷池・茶屋跡→平野神社→教昌寺(昼食)→波羅神社→貝野神社→勝泉寺・解散→阿下喜駅(14:30頃)

1.山郷小学校
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 江戸時代、山郷地区は桑名藩の支配下にあって麻生田・其原・北中津原・南中津原・鼓・平野新田・大辻新田の各村に分かれていました。明治22年(1889)町村制が施行され、従来の村は大字となり「山郷村」が発足しました。村名の由来は、古代、員弁五郷の一つ「野摩(やま)郷」を踏襲したといわれています。
 明治8年(1875)其原道場を借りて「其原学校」が開校しました。校長は蛯原源吾(山郷小学校の校庭に「蛯原翁表徳碑」が立っています)、他に教員が一人でした。明治16年、現在の大辻新田に鼓の渡辺柳太郎から土地を借り、校舎2階を新築して「楚里学校」を開校しました。明治41年(1908)「山郷尋常高等小学校」、昭和16年(1941)「山郷村国民学校」と校名を改称し、昭和22年「山郷村立山郷小学校」となりました。

2.大辻神社
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 境内に立つ由緒に「御祭神は素戔嗚尊。寛政5年(1792)大辻新田が開墾され、波羅神社から分霊を勧請、以来この里の産土神なり」とあります。
 その昔、この地は大辻と称した原野で、鼓村・平野新田・北中津原村・南中津原・其原村・麻生田村の入会地となっていました。宝暦6年(1756)鼓村庄屋渡辺三郎右衛門は、南中津原村庄屋伊藤庄右衛門、北中津原村庄屋冨永直八と諮り、桑名伝馬町米屋三九郎に相談をかけ、藩主松平忠刻に願い出て開墾に着手しました。しかし、黒い埴土の土地で、水利の便がなく旱害にも遭って成果は上がらず、明和元年(1764)土地を領主へ返上しました。
 寛政5年(1793・なお、『員弁郡郷土資料』は文政6年(1823)とする)になって藩主から土地が渡辺三郎右衛門に下付され、その後は渡辺家によって溜池の増設、隧道の布設を進めて水田を開発すると共に民戸を移し、鼓村の波羅神社から分霊した素戔嗚尊を祀れ神社としました。
 大辻神社の夏祭に神饌として必ず供えられたものが、大辻畑で収穫した小麦で作った「うどん」です。現在も7月第2日曜日に「うどんまつり」が行われ、集落の皆さんは境内で神前にお供えしたうどんを会食しています。

3.梶清左衛門碑と神戸屋嘉助碑
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 平野新田の共同墓地の入口に自然石の2基の墓碑が建っています。向かって右の元禄15年(1702)9月に他界した「釈玄斎」は、石の側面に「当所開発」とあるように平野新田の開発に尽力した梶清左衛門の墓碑です。寛永13年(1636)中津原村を巡視していた藩主松平定綱から西野と称した原野の開発を庄屋の伊藤庄右衛門と共に庄屋宅に寄宿していた梶清左衛門が命じられ、開発責任者として悟入谷から水を引いて潅漑用水にするなど難工事の末、平野新田を開き初代の庄屋に任命されました。
 一方、左側の「神戸屋嘉助」は博徒穴太徳の子分で、慶応2年(1866)19歳で荒神山の決闘に参加、手傷を負うことなく退却し、のち穴太徳の跡目を継いで縄張りを広げました。明治9年(1876)11月、桑名江戸町で兄弟分の芳兵衛を刺殺したことから警察に追われて逃亡、しかし、大阪淀川沿いの渡船場で逮捕され、大矢知の監獄に収監されました。明治13年(1880)5月、収監中に発病したチョウマンで死亡しました。

4.落条溜
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 寛永13年(1636)梶清左衛門の指揮によって始められた平野新田の開墾は、2年目には桑畑ができるまでになりました。併せて潅漑用水として貝野悟入谷を水源とする水路工事が難渋しながら進められ、御殿鞆の畑地に稲を作る目鼻がつき、寛永19年(1642)藩主松平定綱が「平野新田」と命名して村を創設しました。その後も定綱は桑名の城から馬に乗って元屋敷東の高台に造営していた別荘を訪れ、開拓事業を視察し、田畑が造成されることを楽しみにしたと伝えられています。
 さらに南に向かって原野を開拓して造成した畑地を田にするため、天保12年(1841)御殿溜を改修して拡張し、弘化3年(1846)新溜を築き、嘉永2年(1849)大辻新田と水を折半して潅漑する落条溜を築き建てるなど溜池の築造を行い、水量が少なくなった字小辻マンボの延長、字笠間から字畑田に及ぶ治平畑マンボや六反マンボ、新マンボなどが新たに掘削されました。

5.茶屋跡・馬冷池
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 茶屋跡について、大正4年(1915)発行の『員弁郡郷土資料』は、茶屋跡として「平野新田字御殿にありて山の中腹なる稍高き丘陵に存し禿げたる平地あり、寛永年中松平定綱ここに茶席を営みたりという、現今この山を茶山と呼べり、此の地は一私人の宅地となれり。」と記しています。平野神社の南、伊勢湾を見渡すことのできる小高い丘陵の頂上に「桑名領主松平越中守定綱公旧跡、後年□山建築物賜施当所開発人加治清左衛門家」と刻んだ自然石の碑が建っています。
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 地元の人は馬冷池と書いて「うまあらいいけ」と呼んでいます。中津原村の庄屋伊藤庄右衛門と梶清左衛門に対して西野の開発を命じた松平定綱は寛永16年(1639)元屋敷の東の高台に別荘を建設して、以来桑名の城から馬に乗ってたびたびこの別荘に来て、開拓の進捗状況を視察して人々を励まし、次第に造成される田畑を見ることを楽しみにしたと伝えられています。この池は定綱一行の乗馬を洗った水場と伝えられ、新田開発の潅漑用水として開かれた悟入谷井水もこの池辺りへ最初に引かれたといわれています。

6.平野神社
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 主祭神は生前この地を愛した5代桑名藩主の松平定綱です。慶安4年(1641)定綱が他界し、後を継いだ子定良は、父がこの地に造営した別荘の中にその霊を祀り参詣しました。当時、定綱を平野新田開拓の祖と崇敬していた村民は、これを氏神として鎮守の宮とすることを領主に願い出て許され、御霊大明神と尊称して奉斎したのが当社の創始です。その後、領主からは代々祭祀料や供物つの供進があり、社殿の修復・再建に際しては金員も寄附されました。明治4年(1871)平野神社と改称し、同40年(1908)字茶山の走井社・山神社を合祀しました。境内入り口の大杉は「燈明杉」と呼ばれています。
 当地の人たちは桑名鎮国守国神社を崇敬し、現在も5月12・13日の例祭には区長や代参者が参拝していて、例年、2番目に玉串を奉奠しています。平成6年に社殿を建て替え、社務所を新築し、翌7年に手水舎を建立しました。この時、地元のW工務店が破格の安値で工事を請け負ってくれたことに感謝した地区30軒の人たちは、工事中、現場作業や用材の切り出し、製材など助力したということです。

7.教昌寺
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 光耀山教昌寺は浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来です。
 天正2年(1574)織田信長の長島侵攻により、長島住人の津坂氏は難を逃れて当地に移住しました。鼓の庄屋8代渡辺三野右衛門の庇護を受けて草庵を建て、ご本尊を安置して自ら看坊となりました。津坂氏逝去の後、三野右衛門は庄屋を息子の三郎右衛門に譲り、京都興正寺において得度して法名釈教昌を受け、津坂氏の後継の看坊となりました。その後、宇賀の正善寺で修行をしていた孫の恵海を自らの後継として迎え、さらに正善寺から義浄を迎えて石榑南の岩花氏から坊守を娶り、その子義祐が次代の看坊に就きました。天保11年(1840)真宗興正寺派から本願寺派に転派しました。弘化4年(1847)旧本堂を鍋坂説教城へ売却し、庄屋10代渡辺三郎右衛門の尽力によって現在の本堂を建立しました。
 表面に「慶長十二(1607)丁未十一月鋳之」とある本堂軒下に吊された高さ約40センチの喚鐘は、桑名の広瀬九郎兵衛によって造立され、また、鐘楼で休んでいる文政3年(1820)の梵鐘は太平洋戦争の金属供出の難に遭い、のち返されたもので、成分検査て削られた痛々しい傷跡が残されています。
 なお、4月9日は親鸞聖人の降誕祭、午後2時から本堂で法要が催されます。

8.波羅神社
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 祭神は素戔嗚尊・大山津見神・日本武尊の三柱、明治42年(1909)地区の山神社と八剣社を合祀しており、古くは牛頭天王神社と呼ばれていました。勧請年月は不明ながら、神前の狛犬に応永32(1425)とあり、また、明和3年(1766)「奉造立八剣大明神」、寛政元年(1789)「奉造立牛頭天王神社」の棟札などが残され、創建は古いものと思われます。
 『明治五年(1872)の村明細帳』に「神祠は波羅神社、八剣社、走井社、山の神」とあり、『員弁雑誌』に「牛頭天王社拝殿石鳥居在、産土神也、例祭9月2日、社地に山神の小祠あり、八剣大明神 昔大阪御陣の時庄右衛門という者、大阪より持ち帰り来たりて祀りしとぞ。初めは右の者一人持ちなりしが中頃より村持ちとなれり。然れども正月の鏡餅及び洗米は庄右衛門の家より供すと云う。弁財大社 村の東溜池の中島にあり」と記されています。
 大正元年(1912)9月の台風で倒木にあって本殿、拝殿が倒壊しましたが、大正4年に再建しました。平成8年10月に社務所を新築しました。

9.貝野神社
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 祭神は豊受大神、素戔嗚尊、応神天皇、稲倉魂命、大山祇命、火産霊命です。勧請年月は不詳ですが、古くから豊受大神を祀る社があり、相殿として素戔嗚尊を祀る中之社があって貝野中之社と呼ばれていました。明治40年(1907)八幡社、走井社、稲荷社、水上社、山神社3社を合祀しました。なお、八幡社は通称ツツジ原という所にあり、阿下喜城主片山信保が城の鬼門除けとして祀ったものといわれます。
 秋の大祭、10月10日に行われる「おみおく練り」は、神前に供えられ蒸した餅米と大豆を祭に参加する若者が練り固めた「おみおく」を詰めた俵を、裸で下帯、白足袋姿で赤と青のハチマキを締めた2組の青年達が担ぎ出して境内を練り歩き、参詣者が俵の中の「おみおく」を取り出そうともみ合う祭りです。これを食べると1年中無病息災、夏病みもしないといわれています。

10.勝泉寺
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 天皇山勝泉寺は真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来です。
 天平年中(729〜748)行基により東貝野に創建され、天野寺と称したと伝え、寛和年間(985〜987)花山天皇の勅願により伊勢5ヶ寺の一つとして西貝野に移転し、建立しました。しかし、永保2年(1082)原因不明の火災に罹って焼失、のち再建しましたが、永享12年(1440)雷火により焼失しました。
 応永年中(1394〜1427)国司北畠氏の家臣、一志郡木造氏は当村笹野に支城を築いていましたが、文明元年(1469)5代木造政宗の時、太田道灌に攻められ落城したため、政宗の次男は出家して当山に入り木造善勝と号しました。文明11年(1479)蓮如上人の回国の際に上人に帰依し、それまでの天台宗から浄土真宗に改宗しました。天正8年(1580)織田信長の兵火に遭って堂宇の全てを焼失しましたが、天正13年(1585)新しい境内を現在の岡山坂に求めて諸堂を建立、天皇山勝泉寺と改称しました。
 境内のしだれ桜は天保14年(1843)本堂の再建を祝って植樹されたもので、毎年4月初めに満開になります。
Posted by カァーくん at 16:06
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