
珈琲ブレイクF《ロッキード事件・その末端で》[2012年07月13日(Fri)]
◇
「大久保利春を追え」。米国の公聴会から帰国した丸紅専務(当時)の大久保氏を羽田空港で待ち構えた。タラップから空港ターミナルに向かうバスに同乗したが、他社の連中も詰めていてビッシリ満員。身動きできず、出口付近にいた彼の声も聞こえず(もっとも彼は一言も発しなかったそうだ)。ターミナルに着いた彼は、無言のまま迎えの車に。すぐ後ろを丸紅社員の車が続いた。その2台を追うマスコミ車は10数台、いや20数台がアリの列のように連なった。
首都高速の飯倉インターから一般道へ。その先は六本木方向。ところが2台目の社員の車が、一般道に降りる取り付け道路の途中で停車し、先頭車を逃がすために“通せんぼ”した。取り付け道路は1車線で、追い越しは無理。
マスコミ車が激しくクラクションを鳴らす。10数台以上が一斉に鳴らすから喧騒はかなりのもの。それでも社員車はびくとも動かない。10分も経ったろうか、ようやく走り出した時には、もはや先頭車は追いかけようもなかった。(これを教訓にして今は、マスコミが誰かを追っかける際にはオートバイが主体になったという)。
その足で、丸紅本社の広報室に苦情を言いに行った。
「ひどいじゃないですか」
「我々も必死に考えたのですよ。うまくいきましたね」
笑いながら、こんな言葉が返ってきた。
そうか、警察や役所など相手が公共機関なら“ケンカ”の仕様もあるが、民間会社には新聞社に便宜を図る(?)義務はないという訳か。社の幹部を守るのは当然、という自信に満ちた態度だった。その後に突き付けるつもりだった「どこに匿っているの?」の言葉は、小さな声になった。案の定、せせら笑いしか返ってこなかった。
ちなみに大久保氏は、「明治維新三傑」の1人にあげられる大久保利通の孫で、このあと逮捕、起訴され有罪となった。
◇
ロッキード事件のフィクサー・児玉誉士夫氏(故人)宅に24時間張り付く“児玉番記者”を発生直後から担当した。その様子をラジオの生放送で伝えたい、とニッポン放送から依頼があり、3人の番記者の中でその日―6月25日に非番だった私にお鉢が回ってきた。半年近くも続けている日課を語るだけ…ラジオといえどもそんなに不安はなかった。
午前7時に電話がかかってくる。6畳の部屋の片隅にある受話器の前に待機、対角線上には録音準備を完了したカミサンが、面白そうな目をして笑いかけている。
「リリリン」。受話器を上げる。パーソナリティの明るい声。「今朝、河野洋平さんらが自民党を飛び出し、新自由クラブを結成しました、どう思われますか?」。
エッ! 話が違うじゃない、政治部じゃない、オレ児玉番だよ…。
児玉宅は、事件が展開してもほとんど動きがなかった。毎日、ぼんやり時間を過ごす日々。「政局が動いて、張り番の周辺にも変化で現れることを期待したいですね」。こんな内容のことを、要領の得ない言葉でしゃべったと思う。「大きな恥はかいてないわよ」とカミサンが慰めてくれたのを覚えている。
ちなみにその年の大晦日。フジテレビの「小川宏ショー」に他社の児玉番記者とともに出演した。この1年を振り返る番組。社宅近くまで局差し回しの車が来てくれて、当時は新宿・河田町にあったテレビ局へ。私は“正月用”を兼ねてカミサンが選んだ派手なブレザー姿。他社は新聞記者らしい地味な背広姿。1人“浮いた”格好。警視庁記者クラブに戻ると、「ピエロか、歌番組の司会者みたい」と冷たい視線を浴びた。
「大久保利春を追え」。米国の公聴会から帰国した丸紅専務(当時)の大久保氏を羽田空港で待ち構えた。タラップから空港ターミナルに向かうバスに同乗したが、他社の連中も詰めていてビッシリ満員。身動きできず、出口付近にいた彼の声も聞こえず(もっとも彼は一言も発しなかったそうだ)。ターミナルに着いた彼は、無言のまま迎えの車に。すぐ後ろを丸紅社員の車が続いた。その2台を追うマスコミ車は10数台、いや20数台がアリの列のように連なった。
首都高速の飯倉インターから一般道へ。その先は六本木方向。ところが2台目の社員の車が、一般道に降りる取り付け道路の途中で停車し、先頭車を逃がすために“通せんぼ”した。取り付け道路は1車線で、追い越しは無理。
マスコミ車が激しくクラクションを鳴らす。10数台以上が一斉に鳴らすから喧騒はかなりのもの。それでも社員車はびくとも動かない。10分も経ったろうか、ようやく走り出した時には、もはや先頭車は追いかけようもなかった。(これを教訓にして今は、マスコミが誰かを追っかける際にはオートバイが主体になったという)。
その足で、丸紅本社の広報室に苦情を言いに行った。
「ひどいじゃないですか」
「我々も必死に考えたのですよ。うまくいきましたね」
笑いながら、こんな言葉が返ってきた。
そうか、警察や役所など相手が公共機関なら“ケンカ”の仕様もあるが、民間会社には新聞社に便宜を図る(?)義務はないという訳か。社の幹部を守るのは当然、という自信に満ちた態度だった。その後に突き付けるつもりだった「どこに匿っているの?」の言葉は、小さな声になった。案の定、せせら笑いしか返ってこなかった。
ちなみに大久保氏は、「明治維新三傑」の1人にあげられる大久保利通の孫で、このあと逮捕、起訴され有罪となった。
◇
ロッキード事件のフィクサー・児玉誉士夫氏(故人)宅に24時間張り付く“児玉番記者”を発生直後から担当した。その様子をラジオの生放送で伝えたい、とニッポン放送から依頼があり、3人の番記者の中でその日―6月25日に非番だった私にお鉢が回ってきた。半年近くも続けている日課を語るだけ…ラジオといえどもそんなに不安はなかった。
午前7時に電話がかかってくる。6畳の部屋の片隅にある受話器の前に待機、対角線上には録音準備を完了したカミサンが、面白そうな目をして笑いかけている。
「リリリン」。受話器を上げる。パーソナリティの明るい声。「今朝、河野洋平さんらが自民党を飛び出し、新自由クラブを結成しました、どう思われますか?」。
エッ! 話が違うじゃない、政治部じゃない、オレ児玉番だよ…。
児玉宅は、事件が展開してもほとんど動きがなかった。毎日、ぼんやり時間を過ごす日々。「政局が動いて、張り番の周辺にも変化で現れることを期待したいですね」。こんな内容のことを、要領の得ない言葉でしゃべったと思う。「大きな恥はかいてないわよ」とカミサンが慰めてくれたのを覚えている。
ちなみにその年の大晦日。フジテレビの「小川宏ショー」に他社の児玉番記者とともに出演した。この1年を振り返る番組。社宅近くまで局差し回しの車が来てくれて、当時は新宿・河田町にあったテレビ局へ。私は“正月用”を兼ねてカミサンが選んだ派手なブレザー姿。他社は新聞記者らしい地味な背広姿。1人“浮いた”格好。警視庁記者クラブに戻ると、「ピエロか、歌番組の司会者みたい」と冷たい視線を浴びた。